軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

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通商条約の最終案を書き上げたのは、春の盛りのことだった。

全四十八ページ。帝国と王国の新たな経済関係を規定する包括的な条約だ。関税の見直し、交易拠点の共同管理、人材交流の枠組み、紛争解決の手続き。一つ一つの条項に、両国の未来がかかっている。

条約の起草にあたって、私が最も心を砕いたのは「対等さ」だった。

王国は今、弱い立場にある。反乱の後遺症で国力は低下し、帝国に頼らざるを得ない状況だ。だからこそ、条約が一方的な搾取にならないよう配慮した。

帝国側の利益は確保する。交易路の共同管理権、鉱物資源の優先取引、帝国商人の王国内での活動保障。これらは帝国にとって実質的な利得だ。

一方で、王国側にも利益を残した。農産物の安定的な買い取り保証、帝国の技術支援、人材育成のための留学制度。王国が自力で立ち直るための足がかりを条約に組み込んだ。

エドヴァルドに最終案を提出したとき、彼は例によって全ページに目を通し、黒インクで書き込みを入れた。

「第十七条の技術支援の範囲が広すぎる。帝国の軍事技術に抵触しないよう、明確に線引きしろ」

「第二十三条の留学制度は良い。ただし、受け入れ人数の上限を設定しろ。帝国の学院の教育の質を落とすわけにはいかん」

「第三十一条——」

指摘は二十箇所以上に及んだ。だが、条約の骨格を否定するものは一つもなかった。つまり方向性は認められている。

「全体としては?」

「悪くない」

三度目の「悪くない」。もはや最上級の賛辞だと知っている。

「それと——第四十二条」

「どの部分ですか」

「『両国は対等な立場において本条約を締結し、相互の尊重と信頼に基づく関係を構築する』」

前文に入れた一文だ。法的な拘束力はないが、条約の精神を示す宣言。

「これは——お前の本心か」

「はい。かつて私は王国の人間でした。今は帝国の人間です。両方の国を知る者として、両国が対等であることが最善だと信じています」

エドヴァルドが書類を置いた。

「お前がこの条約を書いたことの意味を、王国は理解するだろう。婚約破棄された令嬢が、帝国の皇妃として、旧国に手を差し伸べる。これ以上の外交的メッセージはない」

「手を差し伸べる、というよりは——正しい取引を提案しているだけです」

「それが手を差し伸べるということだ。施しではなく、対等な関係を築こうとすること自体が」

エドヴァルドの言葉に、胸が温かくなった。この人は私の意図を正確に理解してくれる。

条約の調印式は、帝城の大広間で行われた。

帝国側はエドヴァルド、クラウス、財務大臣、外務担当の宮廷官吏。王国側は新宰相、外交官二名、そしてオブザーバーとしてデュラン公爵——私の父。

父が帝国に来ると聞いたとき、心臓が跳ねた。

手紙では何度もやり取りしていたが、直接会うのは帝国に来て以来初めてだ。一年以上ぶりの再会。

大広間の入口で、父の姿を見つけた。

白髪が増えていた。反乱の仲裁で心労が重なったのだろう。だが体格は変わらず大きく、背筋はまっすぐだ。

「お父様」

「セラフィーナ」

公式の場だ。抱き合うわけにはいかない。帝国式の礼を交わした。

だが父の目が潤んでいるのが分かった。私の目も、きっと同じだった。

「大きくなったな」

「背は伸びていません」

「背の話じゃない」

父がかすかに笑った。それから視線をエドヴァルドに向けた。

「帝国皇帝陛下。娘がお世話になっております」

エドヴァルドが一歩前に出た。公式の場にふさわしい、威厳ある佇まい。

「デュラン公爵。お嬢様には帝国が大変な恩恵を受けている。感謝を申し上げる」

「娘を認めていただき、光栄です」

父とエドヴァルドが視線を交わした。政治家と皇帝。だがその奥底に、別のやり取りがあるのを感じた。

娘をよろしく頼む、と。

必ず守る、と。

言葉にはならなかったが、二人の間に確かなものが通った。

調印式は滞りなく行われた。

羊皮紙に帝国の印璽と王国の印璽が押され、新たな通商条約が発効した。大広間に控えていた貴族や外交官たちから拍手が起こった。

条約の名は「アイスジルバー条約」。帝国の首都の名を冠した、新時代の幕開けを告げる条約。

その起草者として、私の名前が条約の付属文書に記録された。セラフィーナ・デュラン。元王国公爵令嬢。帝国皇帝補佐官。そして——帝国皇帝の婚約者。

調印式の後、父と二人きりの時間をもらった。

帝城の客室で、紅茶を挟んで向かい合う。

「立派になったな、セラフィーナ」

「お父様のおかげです。あのとき、渡航許可証を取ってくださらなかったら——」

「お前が道を選んだんだ。俺はただ、背中を押しただけだ」

父が紅茶を一口飲んだ。

「帝国の紅茶は渋いな。王国の方がうまい」

「慣れると美味しいですよ。蜂蜜を入れると」

「蜂蜜か。お前の母も同じことを言っていた」

母の話が出ると、父の目元が柔らかくなる。

「皇帝陛下とは——うまくやっているのか」

「はい。不器用な方ですが、誠実で、優しい人です」

「お前の母に似ているな。不器用で誠実、というのは」

「お母様に?」

「ああ。あいつも感情を表に出すのが下手でな。結婚して五年経っても『好き』と言わなかった。ある日俺がしびれを切らして『俺のことが好きなのか嫌いなのかはっきりしろ』と詰め寄ったら、真っ赤になって『当然好きです、言わなくても分かるでしょう』と怒鳴られた」

想像して、笑ってしまった。

「お母様らしい」

「ああ。だから皇帝陛下を見たとき、何となく分かった。あの男はお前を大事にする。不器用だがな」

「はい」

「幸せか」

「幸せです、お父様」

父が目を閉じた。大きな体が、ほんの少しだけ震えた。

「そうか。……母さんも喜んでいるだろう」

二人で、しばらく黙って紅茶を飲んだ。

窓の外では、帝国の春の陽光が白い街並みを照らしている。雪解けの水が屋根から光の筋になって落ちている。

父が帰る日、帝城の門まで見送った。

「春になったら、また来る。結婚式には必ず出席するからな」

「待っています」

「体に気をつけろ。皇妃は忙しいだろうが、無理はするなよ」

「お父様こそ」

馬車が動き出した。窓から父が手を振った。大きな手。子供の頃、頭を撫でてくれた手。

手を振り返した。馬車が門を出て、街路を進んでいく。小さくなっていく。

涙は出なかった。

前に父と別れたときは泣いた。でも今は違う。悲しい別れではないから。またすぐに会える。

門を閉じて、帝城に戻った。

エドヴァルドが回廊の柱の影に立っていた。

「見送ったか」

「はい」

「いい父親だな」

「はい。世界一です」

「……そうか」

エドヴァルドが少し俯いた。彼の父——先帝は、エドヴァルドが十五のときに急逝している。父親との温かい記憶は、彼には少ないのかもしれない。

手を伸ばして、彼の手に触れた。

「エドヴァルド。いつか——あなたも、いい父親になります」

エドヴァルドの耳が赤くなった。

「……気が早い」

「少しだけね」

二人で並んで、帝城の回廊を歩いた。

春の光が石の床に長い影を落としている。二人の影が重なって、一つに見えた。