軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

20

毒杯事件から三週間。

ヴェルナー侯爵の尻尾を掴みかけたそのとき、逆に向こうから仕掛けてきた。

朝、帝城に出仕すると、いつもと空気が違った。

廊下ですれ違う官吏たちが、あからさまに目を逸らす。ひそひそと囁き合い、私が近づくと黙る。それ自体は宮廷入り当初からあったことだが、今日はその度合いが尋常ではなかった。

執務室に入ると、クラウスがすでに待っていた。表情が険しい。

「セラフィーナ殿。厄介なことになりました」

「何があったの」

「今朝から宮廷中に噂が回っています。あなたが——王国のスパイであると」

血の気が引いた。

「根拠は」

「ヴェルナー派の貴族が、昨夜の貴族院の非公式会合で言い始めたようです。セラフィーナ・デュランは王国の公爵令嬢であり、婚約破棄を装って帝国に潜入した。目的は帝国の機密を王国に流すこと。皇帝に取り入ったのもそのための工作だ——と」

「馬鹿げている」

「ええ。ですが、馬鹿げた噂ほど広まりやすい。特に、あなたが王国出身であることは事実ですからね。そこに尾ひれがつく」

椅子に座り、冷静に考えた。

タイミングが完璧だ。毒杯事件の調査がヴェルナー侯爵に近づいていることを、侯爵側も察知したのだろう。先手を打って、調査する側の信用を潰しに来た。

私がスパイだと噂されれば、私が集めた証拠の信頼性も疑問視される。「スパイが捏造した証拠だ」と言い逃れる余地ができる。

「よく考えられた手ですね」

「感心している場合ですか」

「敵の手筋を理解しなければ、対処できません」

クラウスが額に手を当てた。

「陛下には報告済みです。激怒されていましたが——陛下が個人的に否定しても、宮廷の噂は止まりません。むしろ『皇帝がスパイを庇っている』と言われかねない」

「つまり、私自身が潔白を証明する必要がある」

「そうなります」

考えた。前世のOL時代、社内で根も葉もない噂を流されたことがある。そのときの教訓を思い出す。噂に対して直接反論しても効果は薄い。否定すればするほど、やましいことがあるのだと思われる。

必要なのは、噂を上回る事実を突きつけることだ。

「クラウスさん。ヴェルナー侯爵の不正蓄財の証拠、どこまで集まっていますか」

「領地の鉱山からの魔石の横流し、私兵団の不正な維持費、帝国の税を逃れた裏金の存在——かなり揃っています。ただ、決定的な帳簿がまだ手に入っていない」

「帳簿はどこにありますか」

「おそらくヴェルナー邸の書庫です。ですが、侯爵邸に立ち入るには——」

「帝国法に基づく調査令状が必要ですね。それを出せるのは」

「皇帝陛下、もしくは——貴族院の議長の承認です」

「貴族院の議長は誰ですか」

「ブランデンブルク公爵。中立派の重鎮です。ヴェルナーとは距離を置いている」

道筋が見えた。

「ブランデンブルク公爵に、ヴェルナー侯爵の不正の概要を示して調査令状を求めます。公爵が納得すれば、皇帝の独断ではなく貴族院の総意として調査が行われる。これならヴェルナーも逃げられない」

「ですが、あなたがスパイだと噂されている今、公爵があなたの言葉を信じますか?」

「私が行くのではありません。私が集めた証拠を、私以外の人間が持っていくんです」

クラウスの目が光った。

「なるほど。誰を?」

「ブリギッテです。ホーエンシュタイン伯爵家は軍閥系の名門で、ブランデンブルク公爵とも繋がりがある。帝国の貴族令嬢が、帝国の証拠を持って帝国の公爵に訴える。外国人の私が動くより、はるかに説得力がある」

「……見事ですね」

クラウスが唸った。

「では、証拠の整理を急ぎましょう。公爵に見せるための資料は、俺が体裁を整えます」

「お願いします。私は帝国の商人たちに最後の確認を取ります。ヴェルナー領の取引記録を裏付ける証言があれば、帳簿がなくても令状は出せるはず」

「承知しました。それと——」

クラウスが真剣な目で言った。

「噂が広まっている以上、今日からしばらくは宮廷内を一人で歩かないでください。何が起こるか分かりません」

「分かりました」

その日の午後、ブリギッテに事情を話した。

学院の寮の部屋で、向かい合って座る。ブリギッテは黙って全てを聞いた。ヴェルナー侯爵の不正。毒杯事件。スパイの噂。そして、彼女に頼みたいこと。

「あなたに危険が及ぶかもしれない。断ってくれても——」

「断るわけないでしょう」

ブリギッテが遮った。目が怒りに燃えている。

「あなたが毒を盛られた? スパイ呼ばわりされた? ふざけないでよ。ヴェルナーの爺さん、ただじゃおかないわ」

「ブリギッテ……」

「私はホーエンシュタイン伯爵家の娘よ。帝国の不正を暴くのは、私たち軍閥の誇りにかけて当然のこと。ブランデンブルク公爵には、父の紹介状も添えて持っていくわ」

フリッツとレーナも駆けつけた。フリッツが拳を握りしめて言った。

「セラフィーナ、俺にも何かやらせてくれ。軍学科の仲間で、近衛隊に知り合いがいる。帝城の内部の情報なら集められる」

「フリッツ。本当にいいの?」

「当たり前だ。仲間だろ」

レーナが控えめに、しかし確かな声で言った。

「私は魔法研究室で、ヴェルナー領の魔石データをもう少し詳しく調べます。帝国全体の魔石産出量と照合すれば、横流しの規模が正確に分かるはずです」

四人の顔を見渡した。

前世では、こんなふうに助けてくれる仲間はいなかった。一人で戦って、一人で倒れた。

でも今は違う。ここには仲間がいる。

「みんな、ありがとう」

声が震えた。泣くな、と自分に言い聞かせた。泣いている場合じゃない。

「三日以内に証拠を揃えて、ブランデンブルク公爵に持っていく。それまでに、ヴェルナー侯爵の不正の全容を明らかにする。いい?」

「任せなさい」

「おう」

「はい」

三人の返事が重なった。

夜、一人になった執務室で、資料の最終確認をしていた。

暖炉の火がぱちぱちと音を立てている。窓の外は雪が降っている。

ドアがノックされた。

エドヴァルドだった。今夜も、マグカップを二つ持って。

「まだやっているのか」

「あと少しです」

エドヴァルドが向かいの椅子に座り、マグカップを差し出した。蜂蜜入りのハーブティー。いつの間にか、二人の定番になっている。

「噂のことは気にするな」

「気にしていません。事実じゃないことは、事実で覆せます」

「……強いな、お前は」

「強くありません。仲間がいるから、平気なだけです」

エドヴァルドが黙った。

「俺も——お前の仲間に入るか」

不意打ちだった。あまりにも不意打ちだった。

「もちろんです。陛下は——最初から、一番頼りにしている方です」

言ってしまった。嘘ではないが、少し気恥ずかしい。

エドヴァルドの耳が赤くなっていた。暖炉の火のせいだろうか。

「そうか。……なら、頼れ。もっと」

「はい」

二人でハーブティーを飲みながら、暖炉の火を見つめた。

言葉は少なかったが、静かで温かい時間だった。

三日後に勝負が来る。それまでに、全てを揃える。

ヴェルナー侯爵。あなたの不正は、もう隠せない。

マグカップの底に残った蜂蜜が、金色に光っていた。