作品タイトル不明
第十章23 『最善の模索』
――幾度も見上げたルグニカ王城は遠く、白亜の建物は夕空に呑まれそうだった。
「――エミリア」
ぽつりと、そう呟くスバルの胸には断腸の思いがある。
あの、王都の頂にある城の中に囚われとなったエミリア。いずれ、あの場所の玉座に彼女を座らせることがスバルの望みであり、断じて牢に繋ぐためではなかった。
「……エミリアは王選候補者なのよ。少なくとも、表向きは丁重に扱われているはずかしら。牢に繋がれたりなんてしないはずなのよ」
「わかってる。わかってるよ。でも、そういう話じゃ……」
「――――」
「あ、ごめん……お前は、元気づけようとしてくれてるのに」
「いいかしら。余裕のないスバルを励ませるのも、パートナーの特権なのよ。ペトラとレムが泣いて悔しがるかしら」
「ペトラはともかく、レムはどうかな。悔しがってはくれなそうだ」
そう苦笑して、苦笑できた自分にスバルは驚く。
つい今まで、自分の無力さと、置き去りにするしかないエミリアを思い、胸が張り裂けそうだったというのに、ベアトリスの存在は偉大だ。
ちらと見ると、当の本人に可愛くドヤ顔され、また小さく吐息がこぼれた。
――スバルとベアトリス、それに『六枚舌』の待機所にいた面々は、ラッセルの指示の下、予定通りに移動の用意にかかっている。
待機所があったのは、なんと大胆なことに商業街でも一等大きな倉庫だった。貴族街と隣接した防壁の程近くで、『六枚舌』の潜伏ぶり――王都に溶け込み、自然と存在していることのすごさを垣間見た印象だ。
今、スバルたちは待機所の裏手に回り、脱出の手筈が整うギリギリまで、エミリアがいるはずのルグニカ王城を眺めていた。
「――――」
意識が戻らず、眠り続けるクルシュと、スバルたちと違い、王都からの脱出に抵抗を示さなかったラチンス、それに『白羊』と『黒狗』――それを率いるラッセルが主なメンバーだが、それ以外にも偽装や情報攪乱を行う人員が複数いるらしい。
さすが、王国直下の諜報機関だけあって、やることなすことのスケールがでかい。
「でも、それだけ力があっても、すっかりやられたって立場なのよ」
「けど、やられっ放しにはならねぇ。そのための脱出、再起のための助走だ」
「助走かしら。――少し、意外だったのよ」
負けない覚悟を口にしたスバルに、手を繋ぐベアトリスがふとそう呟く。それを聞いたスバルが「意外?」と首を傾げると、ベアトリスは微かに眉を寄せ、
「スバルが王都を離れることを、あんなに早く決断できたことにかしら。エミリアを置いていくのも、オットーたちと合流しないのも、辛い選択だったはずなのよ」
「それは……間違いなくそうだし、今だってそうだよ。俺、マイクロトフさんのところに出かける前、エミリアたんと昼ご飯何にするか話してたんだぜ。今日はエミリアたんがレムとペトラとお弁当作るから楽しみにしててって……それが、今これだ」
「スバル……」
「辛いし、しんどい。だけど、ベア子も反対しなかったってことは、これが最善だってわかってるんだろ? お前も」
情けなく声の調子を落としたスバルに、しばらくののち、ベアトリスがコクンと頷く。
あの場で言わなかったのだ。ベアトリスもまた、王都に残ることがずるずると負け戦に繋がることを確信していた。それでも、スバルの判断を急かさなかったのは彼女の思いやりであり、スバル自身の納得のため。
誰かに言われ、仕方なく諦めるのではなく、スバル自身に選ばせるためだった。
「可愛くて厳しいぜ、俺のベア子は」
「しかも、この可愛さと厳しさは生涯保障かしら」
「なんてお得なんだ。契約してよかった、ベア子保険」
ぐしぐしと頭を撫で、パートナーの頼もしさにスバルは心を洗われる。
いつもなら早々に「やめるのよ~!」と逃れるところをされるがままなのは、これもスバルの心に配慮したベアトリスの思いやりだろう。
と、そこへ――、
「そろそろ出発の用意が整います。お二人とも、大丈夫ですか?」
そう声をかけてきたのは『白羊』だ。
彼女は黒いスーツの上から白いローブ――スバルたちとお揃いの『認識阻害』のそれを被り、結んだ髪も下ろしてほんのり雰囲気を変えている。
『認識阻害』×軽い変装で、正体隠しというスタイルだ。
「へえ」
「な、なんですか? わたし、どこか変でしょうかっ」
「ああ、ごめんごめん、違くて。スーツだけのときとだいぶ印象変わるなって。どっちかっていうと、今の格好の方が『白羊』ちゃん感あるよ」
「それは……そうかもしれません。『銀狐』に拾ってもらう前……ママのところにいた頃は、こういう服装のときの方が多かったので」
「あ、ごめん。思い出させたよな」
嫌な思い出話をさせてしまったと、謝るスバルに、『白羊』は「いえ」と薄く微笑む。そのまま彼女は自分の長い紺色の髪を撫でて、
「……わたしの方こそ、ごめんなさい」
「――? 何に謝られた?」
「こっちの都合なのに、急がせてしまって……です。本当なら、ナツキ・スバルさんも、もっと時間をかけて決断したかったはずなのに」
目を伏せ、自分の方が辛そうに話す『白羊』に、スバルは思わず苦笑した。
カペラの配下である『愛し子』を抜け、今はラッセルの率いる『六枚舌』の一員である『白羊』だが、その根っこの善良さでは、確かに悪党の部下にもスパイの仲間にも向いていない。なにせ、スバルが選択にかけた時間まで背負おうというのだ。
「俺のことまで抱え込まなくていいよ。急かされたとも思ってない。むしろ、判断するのに必要な情報を与えてもらってありがたかった」
「ナツキ・スバルさん……」
「それでもどうしても気後れするってんなら、それ、やめてくれ」
「え?」
「そのナツキ・スバルさんって、フルネームで呼ぶやつだよ。ナツキさんでもスバルさんでもいいけど、どっちかがいいな。身構えちゃうから」
肩をすくめ、できるだけ気安さを脚色したスバルの要請に、『白羊』は目を丸くし、しばらく唇をパクパクさせた。
その『白羊』に、スバルの隣でベアトリスが大きくため息をついて、
「あまり深読みする必要はないのよ。ただ、言葉のままでしか言ってないかしら」
「なんだそのいらない注意書き……他にどんな意味があるんだよ」
「わからないのよ~、教えないかしら~」
「今のはわかってる奴の言い方じゃん!」
耳を塞いで顔を背けたベアトリスに、スバルは拗ねた気持ちで唇を尖らせる。と、そのスバルたちのやり取りに毒気を抜かれたのか、それまで呆気に取られていた『白羊』の肩から、ふっと力が抜けた。
そして――、
「――スバルさんとベアトリスさん、でいいでしょうか」
「ああ、いいぜ。何ならベっちんでもいいよ」
「ベっちん!? スバルにすら言われたことないのよ!?」
「お、お返事してもらえなさそうなので、このままで……」
何とも謙虚な反応をして、『白羊』はベアトリスを『ベっちん』と呼ぶ歴史的権利を手放した。しかし、そのことに未練のなさそうな『白羊』は、代わりに何やら別の憂いがある目でスバルを見つめる。
その様子にスバルが眉を寄せるのと、彼女の唇が動くのは同時で――、
「あの、スバルさん、ティ――」
「――オイ! テメエら、いつまでもたついてんだ! とっととこい!」
だがそこに、荒々しく声をガラつかせたラチンスが殴り込んできてしまった。
鋭い四白眼をさらに研いだラチンスの眼光に、『白羊』が「ひうっ」と怯えたように肩をすくめる。その『白羊』を背後に庇い、スバルはラチンスを見据え、
「お前、マジでそのローブ似合ってねぇな」
「うるせえな、ほっとけ! つか、なんでオレがラッセル・フェローに顎で使われなきゃなんねえんだ。仕事は奴隷契約した連中でやってろや」
「どど、奴隷契約なんかではないですっ!」
「『白羊』ちゃん、そんな焦るとマジっぽいから……」
ラチンスの口の悪さに真面目に取り合う『白羊』をそう窘め、スバルは今一度、遠くの城の方を眺めて、長く息を吐く。――ただ、彼女の無事を祈って。
「エミリアも、スバルのために同じことを祈ってるかしら」
「俺たちのために、だよ。俺だけよりその方が嬉しいし、エミリアらしい」
視線一つでこちらの胸の内を察するベアトリスにそう応じ、スバルは未練を振り切るように城に背を向け、歩き出す。
そのまま、待機所の中を通り抜け、表に止めてある竜車に乗り込む流れだ。
と、手早く空っぽになりかけた待機所の中、ちょうど一抱えもある箱を運び出そうとしているローブの背中を見つけた。
箱の中身はわからないが、なかなかの重さに苦戦していると見え、
「これ、外の竜車に運んだらいいのか?」
「あ……」
さっと手を差し伸べ、その箱をスバルが代わりにひょいと持ち上げる――否、ひょいとは嘘だ。結構重たかったので、よいしょぐらいのパワーは必要だった。
幸い、一人で持ち上げられたので格好は付いたと、そう内心で安堵するスバルに、箱と格闘していた相手――目深にフードを下げた人物が戸惑った反応をする。
「――? 大丈夫?」
そうして戸惑った相手に、スバルは首を傾げた。
そのフードで顔は見えないが、細身の人物だ。とはいえ、素顔が不明という意味では『黒狗』の方がよっぽど怪しかったので、それは特別怪しむ理由にならない。
怪しむというか、スバルが訝しんだのは、相手の気まずげな反応だ。しかし、それを追及する暇もなく、その人物は頭を下げると、そそくさと駆け出していってしまった。
「礼も言わないなんて、失礼な手合いなのよ」
「いやあ、シャイな人もいるからな。みんながみんな、ガーフィールみたいに人懐っこくて可愛いわけじゃねぇんだ」
「なんでそこでガーフィール……まぁ、わからんでもないかしら」
愛嬌は見てくれだけでなく、その態度や言動に表れる。
そんな陣営の共通見解をスバルとベアトリスが頷き合っていると、荷物を抱えたスバルに気付いた『白羊』が「すみません」と声をかけ、
「スバルさんに持たせてしまって……『青蛇』さんにあとで言っておきますね」
「いやいや、このぐらいどってことないよ……って、今の人が『青蛇』? それって確か、俺の火傷治してくれた人だよね?」
「え、あっ、そうです。すごく腕のいい、治癒魔法の使い手で」
聞かされたコードネーム――『青蛇』の名前にスバルが反応すると、『白羊』がそれを肯定する。羊に狗に狐ときて、治癒術師が蛇というのはなかなか洒落ている。
スバルの知識だと、蛇と医術は切っても切り離せない。ギリシャ神話に出てくる医者のアスクレピオスの杖には、一匹の蛇が巻き付いていたなんて話もあるくらいだ。
さすがに、そのことと『青蛇』との名前の関連は偶然だろうが。
「だったら、むしろお礼は俺の方が言わなくちゃだ。荷物運んだくらいじゃ恩返しにもなってねぇや」
「あ、でも、難しいかもしれません。『青蛇』さんはあまり他の人と話したがらないみたいで……『銀狐』からも、その意思を尊重するように言われていますから」
「ふうん? 人嫌いの医者か。……ますます名医っぽいな」
腕利きだが偏屈、というのは漫画やアニメで出てくる名医の条件みたいなものだ。
とはいえ、『白羊』の指摘には納得として、スバルは『青蛇』との接触を断念。代わりに、また荷運びで苦戦していたら手伝い、コツコツ恩を返すと決める。
ともあれ――、
「――いこう。また戻ってくるために」
そう、他でもない自分自身に言い聞かせるように、ナツキ・スバルは宣言し、寄り添うベアトリスを連れ、待機所の外へと踏み出すのだった。
△▼△▼△▼△
「――『認識阻害』の原理は、本来そのものが持っている印象や空気、それらの発され方をわずかに変え、都度の引っかかりを最小限へ抑えるものです。つまり」
「つまり?」
「厳重な警戒網の中では、あくまで気休めに過ぎません。過信をされませんよう」
と、竜車の中で向かい合ったラッセルに言われ、スバルは小さく頷きつつ、自分と隣のベアトリスのフードを気持ち深めに被り直した。
『六枚舌』の手筈が整い、王都を発つ商団に偽装した竜車の車列の中だ。
用意された竜車は上等なものではなく、王都どころか街道の行商人が扱うような、華美さを排除した一般的な仕様のもので揃えている。商団の偽装のため、車列は一台や二台ではなく十台規模、これはこれで周囲の目を引くのではと不安も覚えるが――、
「ご安心ください。現在、王都は少々の緊張状態にあります。これを嫌い、一時的に王都を離れる判断をするものは多い。我々もそれに乗じます」
「その緊張状態ってのは……」
「無論、危険なお尋ね者が市内に潜伏している可能性を危惧して、ですね。少なくない王国兵が動員され、物々しく調査が行われています。マクマホン卿の死は市井には伏せられていますが、非常事態の空気は隠せませんから」
「それは、そうなるよ……みんな、不安でいっぱいだろうな」
予想した王都の空気を肯定され、スバルは『色欲』の暗躍に巻き込まれる王都の人々のことを不憫に思う。するとラッセルは、その瞳をわずかに細め、
「ナツキ殿は、エミリア様や陣営の方々だけでなく、王都の市民のことまでそう心配されますか」
「え? いや、まぁ、心配ってほどじゃないけど、大丈夫かなとは思うかな。さすがのカペラでも、無意味に市民を権能で入れ替えたりは……しないと、言い切れねぇところが、俺の気持ちの原因かもしれない」
王城で意思決定の権利を持つ一員として、『賢人会』や上級貴族の入れ替えを行うのはまさしく国の乗っ取りとしての最適行動と言える。それと比べ、市民への権能の行使はただの嫌がらせの域を出ないが、それすら嬉々としてやりかねないのがカペラだ。
もちろん、プリステラでのあの行為には、あえて自分の存在と『色欲』の権能の効果を周知し、『六枚舌』を手一杯にする狙いがあったはずだが――、
「――――」
「……って、ラッセルさん?」
ふと、そこまで考えたところで、スバルはラッセルが無言でいることに気付く。
そのスバルの呼びかけに、顎髭を指で撫ぜ、片目をつむっていたラッセルは「いえ」と短く言葉を継いで、
「ナツキ殿の懸念はもっともなものです。気休めになるかはわかりませんが、『六枚舌』も王都から一斉に手を引くわけではありません。情勢の把握や攪乱工作のため、少なくない数が残ります。そのものたちの働きを信頼していただければ」
「うん、ごめんだけど、それはラッセルさんたちに任せるしかない。俺の腕が十本も二十本もあって、体が五、六個あったらもっと役立てたんだけど……」
「とんでもないたとえ話なのよ。スバルは今のスバルでまあまあパーペキかしら」
「まあまあ評価ありがたい。……とにかく、そっち側で頼れるのはラッセルさんたちだけだ。諜報機関『六枚舌』の底力を見せてくれ」
ぐっと固めた拳を見せると、ラッセルが承知したとばかりに顎を引く。その応答を頼もしく思いながら、スバルは竜車の後部――別の竜車の方を意識する。
前述した通り、『六枚舌』が偽装した商団の竜車は十数台に及ぶが、スバルたちが乗っているのはその先頭で、人員はバラバラに乗車している。とりわけスバルが気にかけるのは、待機所で一度も目覚めなかったクルシュのことだ。
下水道で眠って以来、彼女の意識は戻っていない。
眠る寸前、『龍眼』の影響を口にしていたクルシュだったが、それは自己診断によるもので、実際のところ、あの『龍の眼』が何なのかは全くわかっていない。
ベアトリスも、疲労以外の要因はないと言ってはくれたものの――、
「クルシュ様のことが気掛かりですか」
「それは、ね。でも、それはそっちも同じでしょ。『愛し子』と戦うのにクルシュさんの力を借りたいなら、気が気でないんじゃ?」
「心配は確かに。ですが、診断においては右に出るものがいないであろう人材が、クルシュ様のお体そのものに不安はないと言っています。無論、ナツキ殿のお話にあった、『龍の眼』なるものに懸念はありますが……」
「今は丁重に扱って、起きてくれるのを大人しく待つしかない、か」
「左様です」
懸念に丁寧に受け答えされ、スバルは自分の力の及ばないことの多さに嘆息する。
実際、クルシュの安否を何より重要視しているのは『六枚舌』だ。彼女のために力を尽くされることは間違いない。それこそ、腕利きの治癒術師を――、
「そう言えば、『青蛇』さんだっけ? さっきちらっと会ったけど、あの人がクルシュさんについててくれてるのか?」
「――。『青蛇』と、会ったのですか?」
「え? ああ、出る直前にすれ違ったレベルだけど。口は利いてもらえなかった。『白羊』ちゃんも言ってたけど、シャイな人なんだな」
「……そうですね。概ね、間違ってはいません。クルシュ様のことも、『青蛇』が対応しております。ご安心を」
人見知りか人嫌いの『青蛇』がスバルと会ったのがよほど驚きだったのか、初めて答えに一瞬を要したラッセルの反応を新鮮に感じる。
ただ、『青蛇』がクルシュについていると聞いて安心する一方で――、
「フェリスも、相当心配してるだろうな」
クルシュに一の騎士の立場を罷免され、その仲を取り持とうとしたスバルの申し出を袖にしたフェリス。――王都の霊園で別れた以降の彼の足取りは知れないが、きっとまだ王都にいるに違いない。当然、この騒動のことも耳に入ったはず。
せめて、ヴィルヘルムと合流し、早まった真似をしないでいてくれればいいが――と、そう考えたところで。
「――止まった?」
ふと、竜車が止まった感覚に襲われ、スバルは思わず身を硬くする。とっさにベアトリスの肩を抱き、突発的な事態に備えようとする。
が、そのスバルの反応に、対面のラッセルが「ご安心を」と笑い、
「王都の正門前、検問の待機列に着いたようです。普段から混雑していますが、かなり待たされそうだ」
「かなり待つって、これから夜なのに、みんなそんなに王都から出てくのか?」
「耳の早いもの、判断の早いもの、損得に目敏いものと、一部に限られますが、そうしたものたちに昼夜は関係ありません。もう少しこの雰囲気が拡大する明日になれば、より大勢が動くこともあるでしょう」
「まるで、帝国の再演なのよ。あのときも、帝都から大勢が逃げたかしら」
「俺も同じこと思い出してたよ。さすがに、帝都と同じにはしたくねぇ」
ベアトリスの言うことに頷き、スバルはヴォラキアの帝都ルプガナを思い出す。
『大災』を率いたスピンクスにより、屍都と化した帝都から、アベルの指示の下、帝国民の大移動があったのは記憶に新しい。だがあれは、強力なトップダウンが成立するヴォラキアだからうまくいったことで、同じことをルグニカで求めるのは難しい。
ましてや死人と違い、カペラの『愛し子』は見分ける方法がないのだから。
「そのためのクルシュ様の加護であり、そのための我々です。――ナツキ殿、すでにあなたには言うまでもないことと思いますが、どうぞ常に最善の模索を」
わずかに声の調子を落としたラッセルを、スバルは真っ直ぐ見返す。ラッセルは商人の顔ではなく、諜報組織の長――『六枚舌』の長官の顔でそれを告げた。
それが何より大事なことであると、そう自分自身に戒めているだろう言葉を。
「最善の、模索……」
「ええ、そうです。王国のため、未来のため、大切な相手のため、なんであれ、最終的な到達点に至るため、常に最善を追及してください。それを果たすためなら、たとえ痛みを伴う選択であっても選び取れるよう」
「――――」
淡々とした、熱を感じさせない口ぶりだった。しかしそれは、だからスバルの胸を打たなかったという意味ではない。
確かに、熱を帯び、感情に訴える言葉は胸を打つ。だが、ラッセルのそれが熱を感じさせないのは、すでに形を変えないほどに打たれ、鍛え終わったあとだからだ。
鉄を熱いうちに打つのは、望みの形にそれを鍛造するためだ。――しかし、すでに形を定めた鉄を熱し、打って、あえて歪ませる意味は、ない。
「――どうやら、検問に着いたようです。対応してきますので、お待ちを」
止まって、進んで、また止まって。それを繰り返していた竜車の小窓から御者に呼ばれ、立ち上がったラッセルが客車から降りてくる。
その背を見送り、スバルは大きく息を吐いた。と、隣のベアトリスが、
「やれやれなのよ。あの男……ロズワールの友達で、納得したかしら」
「さすが、ベア子。俺も同じこと思ったよ。顔を向ける方向が違うだけで、ベクトルの傾け方はそっくりに感じた。……最善の模索、か」
「スバルはいつもやってるのよ。ベティーが太鼓判を押すかしら」
まるで、スバルが怠けていると言われたみたいにベアトリスはご立腹だ。
もちろん、ラッセルにそんな意図はないはずだし、ベアトリスもそれはわかっている。同時に、できる人間は常にそうした歯痒さを抱えているだろうことも。
「――検問、だいぶ物々しいな」
立ち上がり、御者台に通じる小窓を少し開け、外の様子を窺う。隣から「なのよ」と覗き込んでくるベアトリスと顔を並べて眺めるのは、王都の正門に設置された通常対応の窓口と、それとは別個に作られた仮設の物見や待機所だ。
窓口では通行の許可証や積み荷の目録などの提出が求められているようで、普段、王都に出入りするだけならここまで厳しいことはない。もっと上――貴族街の入口に敷かれた警戒レベルが、こんなところまで適用されている状態だった。
「ええ、非常に憂慮しております。故に、急ぎで動くのも商人の常かと。必要な通行証と目録は揃えてあります。荷はすでに検印済みの荷札をいただいておりますが、改めてこちらでご覧になられますか?」
見れば、ちょうど検問のところで、ラッセルが担当する衛士とそう話していた。
彼の傍らには『白羊』の姿があり、『認識阻害』ローブ姿の彼女に持たせたいくつもの書状を、ラッセルは次々と矢継ぎ早に衛士に突き付けてみせる。
その静かな、しかし確実に押しの強い剣幕に、衛士は目を回している様子だ。
「書類に不備は見当たらないし、商業組合の商印も確かに。目録の品は……主に、医薬品関連ですか」
「より早く、運送の時間と人命が直結するものです」
商業組合の代表という表の肩書きを活かし、さらには積み荷の内容で倫理観に訴えるラッセルに、衛士は難癖を付ける余地を見つけられない。
そして極めつきに――、
「お願いしますっ。この薬がないと、わたしの村のみんなが……っ」
そう声を震わせる『白羊』が衛士の手を取り、演技とは思えない態度で頼み込む。そこまでされてしまうと、衛士の顔にあった迷いもついに剥げ落ちた。
『白羊』に手を握られたまま、衛士はもっともらしい顔で咳払いし、
「わ、わかりました。特に問題は見当たりません。通行を許可しま――」
「――待て! 誰が手順を飛ばすのを良しとした!」
「――!」
担当者が許可を出そうとし、『白羊』がそれに感激する寸前、待ったがかかる。横合いから手を伸ばし、その場に割り込んだのは、年嵩の人物だ。
おそらく、担当者の上司に当たる人物だろう。待機所から飛び出してきたその上官は、部下の手元から書類を奪い、内容を確かめながら、
「商業組合の証明書に、検印された荷物か。だが、決まりは決まりだ」
「立派なお考えですが、杓子定規なやり方の通じる状況ですか?」
「商人らしい物言いだが、商人に商人の流儀があるように、衛士には衛士の矜持がある」
「そうですか。――承知しました」
上官の言葉に担当者がかしこまり、それを受けてラッセルが首肯する。傍目にも『白羊』がハラハラする様子が伝わってくるが、それはスバルたちも同様だ。
必要な書類は揃え、ダミーの竜車もあるとはわかっているが、
「ま、マズいかも……ベア子! 今すぐ俺のポケットの中に!」
「焦りすぎかしら! いくらベティーがミニマムプリティでも入らんのよ! それよりも、もっと堂々と――」
竜車を検められる可能性に慌て、スバルとベアトリスがもちゃもちゃする。
そんなスバルたちの波動でも感じ取ったのか、ふと振り返ったラッセルが、車列の一同を安心させるように軽く手を振った。
その様子に、スバルは対策があるのだと安堵し――直後だ。
――大きな揺れと破砕音、それから複数の悲鳴が待機列の後ろから聞こえたのは。
△▼△▼△▼△
最初、スバルはその揺れを竜車の発進と、その音を車体の軋む音と、聞こえてくる声を何かの歓声かと、そう全部まとめて勘違いをしそうになった。
それぐらい、それは前触れなく、いきなりのことだったのだ。
「なんだ!?」
血相を変え、ベアトリスを抱えたまま、スバルは竜車の座席に飛び乗り、そこにある大窓から車列の背後――その騒ぎが聞こえた方を確かめる。
すると見えたのは、乱れた車列と立ち上る噴煙、そして煙の中から泡を食ったように飛び出してくる複数の人影と、同じく煙の中に半欠けに見えた建物だった。
「あれ、事故……か?」
「そう見えるかしら。あの感じだと、車軸が折れるか何かした竜車が切っ掛けで、玉突き事故になったみたいなのよ」
「で、道路脇の建物が突っ込まれた、か。ヤバいな、怪我人が多そうだ」
ラッセルの言う通り、王都の混乱でいつもより混雑していたのが原因だろう。大渋滞だった待機列の中で起こった事故だけに、押し合いへし合いが発生している。
どれだけ負傷者が出たかわからないが、すぐに事故現場から人を出さなくては――、
「――ナツキ殿、許可が下りました。竜車が出ます。ご着席を」
慌てふためくスバルたちに、車内に戻ってきたラッセルがそう言い放った。その言葉を聞いて、スバルは「ラッセルさん」と呼びかけようとして、
「え……? 今、なんて言った? 竜車が出る?」
「はい。担当者たちは後ろの事故の対応に向かいました。書類に不備のない我々は通してよいと。詰まっている車列を空ける必要もあります」
「いや、でも……」
「怪我人が出ているかしら。積み荷に医薬品があるって話だったのよ」
「偽装です。目録通りの荷物だけではない。積み荷を開放すればそれもバレる。言ったはずですよ。――常に最善の模索を、と」
表情と声に厳しさはなく、しかし内容の切れ味だけがあまりにも鋭い。
その言葉に体を切り刻まれ、スバルは早すぎる実践の機会に頬を硬くした。――ラッセルの言い分はわかる。ここでも、わかるが。
「――『白羊』、ナツキ殿にご説明を」
「――っ」
俯き、歯を噛んだスバルの沈黙に吐息し、ラッセルがそう背後に声をかける。そこにいたのは、ちょうど竜車を覗き込んだところだった『白羊』だ。
彼女は喉の奥で息を詰まらせ、その潤んだ丸い瞳をラッセルに向ける。しかし、ラッセルは彼女に振り向かず、「『白羊』」ともう一度、その名前を呼んだ。
それを聞いて、『白羊』は振り切るように車内に上がり、窓枠にかけたスバルの手に手を重ね――、
「スバルさん、この場は聞いてください。大丈夫です。ちゃんと、衛士の皆さんが対応してくれるはずです。――大丈夫ですから」
「……『白羊』、ちゃん」
非情の決断を下そうとするラッセルに従い、『白羊』はそう訴えかけてくる。
一瞬、スバルの内に強い反発が生まれようとするが、しかし、『白羊』の声と手の震えが、彼女もまた見過ごすのが本意ではないのだとひしひし伝えてきていた。
必死で、懸命で、それでもなお、彼女は最善を尽くそうとしている。――ならば、ここでスバルがすべきことは、何なのか。
「――スバル」
抱かれた腕の中から、ベアトリスがそうスバルを呼んだ。
彼女の瞳にあるのは、スバルへの信頼と、覚悟の光。たとえ、どんな主張であろうと、スバルが選んだことに付き合うと、下水道で地獄まで一緒にいくことを約束したときと全く同じ輝きだった。
それが、一緒に罪を背負うことだったとしても、ベアトリスは揺らがない。
「今は、ここから……」
「ええ、そうです。賢明な判断ですよ、ナツキ殿。それがこの場の最善です」
『白羊』の手が重なった、窓枠に置いたスバルの手がゆっくりと下ろされる。そのスバルの動きを見て、ラッセルが安堵したようにそう言った。
そう、そうだ。ラッセルの言うことは正しい。ここは、それに従うべきだ。
「――――」
事故は、ある種の天恵と言えるのかもしれない。
竜車を検められ、スバルたちが見つかる寸前だった。
衛士の手が救助に割かれ、この場を逃れられる。
――全部、王都を、王国を救うために。
だから――、
「――ぁ?」
手を引くのが正しいのだと、そう自分に折り合いを付けようとした瞬間、未練がましく目を離せなかった窓の外の景色に、スバルは見た。
――白いローブの裾を翻し、事故現場に真っ直ぐ走っていく、『青蛇』の姿を。
「――――」
――。
――――。
――――――馬鹿なのか、ナツキ・スバル。
「……最善の模索、それを大事にしろって話だったよな、ラッセルさん」
「――? そうです。あなたの判断は正しい。すぐに出ましょう。我々が……」
「だったら!」
「――っ!?」
「だったら俺の最善は、ここで助けられる誰かを見捨てないことだ!!」
声を大に言い放ち、スバルは下ろしかけた手を再び窓枠にかけた。
そして、重ねていた手を振り払われ、目を見張る『白羊』と、その向こうのラッセルに「悪い!」と言い残し、
「いくぞ、ベア子! 力貸してくれ!」
「もちのろんで合点承知かしら!」
ベアトリスを抱いたまま、スバルは窓から竜車の外に身を躍らせる。後ろで、ラッセルがスバルを呼ぶ声がしたが、止まらない。止まれない。
事故が天恵? 馬鹿馬鹿しい。事故は悲劇だ。断じて、救いなんかではない。
「あんたが正しい! 俺が間違ってた!」
駆け出していく『青蛇』の背中を見なかったら、そんなことにも気付けなかった。
百パーセント、『青蛇』が正しい。その背中に、ひたすらに恥ずかしさが込み上げる。
どれだけ馬鹿なのだ、ナツキ・スバル。
なんでわからないのだ、ナツキ・スバル。
たとえ望んで命を投げ出す人間がいたとしても、自分の基準は変わらない。
――変わるものなんて、何もないのだということに。
「なんだ!? おい、ここは危ないぞ! 衛士でないものは――」
「怪我人がいるんだろ! 手を貸す! みんなを引っ張り出すんだ!」
立ち込める粉塵、事故現場のすぐ目の前で、口元を手で覆った衛士――先ほど、竜車の通行に食い下がった年嵩の上官が、駆け寄ったスバルに目を剥いた。
いきなり現れて、その腕に可愛い幼女を抱いた男だ。相手の戸惑いは当然だろう。
だが、その戸惑いは、スバルたちを引き止める理由にはならない。
「魔法が使える! 役立つはずだ! 手伝わせてくれ!」
「――っ、手はいくらあってもいい。こい!」
一瞬の躊躇、それは年嵩の衛士の人命を尊ぶ姿勢の前では紙の壁だった。ほんの一息でそれを突き破った衛士に指示され、スバルとベアトリスは事故現場に踏み込む。
噴煙が上がり、苦痛の呻きと子どもの泣き声が聞こえる空間は、遠目に確認した通り車軸の折れた一台の竜車を切っ掛けにした玉突き事故と、その巻き添えを喰らった建物が崩れ、半分倒壊した連鎖的なものだった。
血を流すものと、ぐったりと動かないもの。興奮して地団太を踏む地竜に、右へ左へ救難のための声と怒号が飛び交い、大変な騒ぎになっている。
その現場を目の当たりに、どこから手を付ければと視線を彷徨わせ――、
「――こっち! こっちを手伝って!」
その声はひと際大きく、声が混ざり合う騒音を切り裂き、スバルの鼓膜を貫いた。
見ればそれは、たなびく粉塵の奥で地べたにしゃがみ、瓦礫の下敷きになった負傷者へと手をかざしている白いローブ――『青蛇』だった。
その『青蛇』の下に駆け寄り、スバルは負傷者の状態――壊れた梁の一部が胴体を貫通し、たくさんの血を流している重傷を目の当たりにする。
そして――、
「ベアトリスちゃんの魔法で、梁を軽くして抜いて! できるでしょ!?」
「ああ、できる! できるけど、なんでお前がそれを……」
「ああもう! 勘が鈍い!」
苛立ち紛れに荒々しく言って、次の瞬間、重傷者の傷に治癒術をかけていた『青蛇』が自分のフードを乱暴に脱いだ。その下から現れたのは、首元までの亜麻色の髪と、その髪を掻き分けるように存在を主張した亜人の猫耳――、
「――フェリス?」
唖然と、スバルの唇がその名を呼んだ。
そこにいると思っていなかった見知った顔――死にかけの命に、誰よりも早く駆け付けた人物、『青』のフェリスが必死になっていたのだから。