作品タイトル不明
第十章22 『布石と拒絶』
――それは、『六枚舌』のアジトでナツキ・スバルが、ルグニカ王国を苛む弩級の危難について聞かされたのと同刻、王都ルグニカの商業街の一幕。
「――どういった手立てでか、敵はすでに竜歴石を手中に収め、全権を掌握した。それが、今の王城が置かれた状況じゃ。情報の虫食い部分は儂の推測で埋めてはおるが、それでもおおよそは間違っておらんじゃろう」
「……ですね。今、僕たちが追い回されていることにも説明がつきます。少なくとも、王城の指示系統は掌握されてしまっていると見るべきでしょう」
「――――」
「ガーフィール、大丈夫ですか?」
「お? お、おォ、大丈夫……いや、正直、考えもしてねェスケールの話ッだったからよォ……なんて言ったらいいのかわッかんねェ」
いやいやと頭を振って、正直すぎる心情を打ち明けるガーフィール。しかし、それは無理もないとオットーは弟分の気持ちを慮った。
「……この状況、ですからね」
はっきり言って、混乱と困惑に頭を悩ませているのはオットーも同じだ。ただ、陣営における役割の違いとして、オットーには思考停止することが許されないだけ。
追い詰められた今の状況で、ガーフィールはしっかりと役目を果たした。――否、ガーフィールだけではない。全員一丸となって、全力を尽くした結果だ。
果たせなかったのは、情けなくも武器を取り上げられた自分しかいない。
「――ちッ」
部屋の壁に背を預け、片膝を抱えて座り込むガーフィールの喉が苦痛で呻く。
その顔から激しい消耗と痛みの色が消えないのは、非常識なタフネスと回復力を持ったガーフィールからすればありえないことだ。それだけ、ガーフィールに一撃をくれた相手――ラインハルトの有する力が、規格外かつ不条理ということだろう。
――オットーたちの前にラインハルトが立ち塞がり、これを持っていた手札の全てを使って、かろうじて突破してからしばらく経った。
たったの一分に満たなかった戦いだが、終えたときには全員が満身創痍。とりわけ、ラインハルトと真っ向勝負を繰り広げたガーフィールはひどい有様で、あえて相手の油断を誘ったとはいえ、顎先を掠められただけで動けなくなった自分が情けない。
何とかもぎ取った勝利、それも予想外の援軍あってのことで、あの状況に持ち込まれたことも含めて、オットーがすべき反省はあまりに多い内容だった。
そうして反省会めいたことができるのも、合流した援軍に連れられ、こうしてひと時の安全地帯を確保できたからこそ、だが。
「――。あやつを振り切ってこられただけ、大したもんじゃ。たとえ、無理強いされた役目であろうと、並の兵なら百人いたとて手も足も出ん」
「ですが、そのために切るべきではない手を切らせました。彼女が自分の人生から手放したものは大きい。僕は、あの人を許せませんよ」
「……お前さんの憤りは正当なものじゃろう。恨まれるのも覚悟しておろうよ。それが『剣聖』というものじゃ。儂とて、『剣聖』への怒りが失われたことはない」
「それは……」
その大きな掌を自分の禿頭に当てた相手に、オットーは静かに目を細める。
続けようとしたのは、問いかけか推測か、いずれにせよ口を噤んだのは、すでに言うべきでないことを口にしてしまった自覚があったからだ。
しかし――、
「――それはラインハルトではなく、私の妻への怒りのことでしょうな」
口を閉ざしたオットーの代わりに、入口の扉を開けた老剣士――ヴィルヘルムが、そう確信を持った口調でそれを奪い取っていった。
部屋に入ってくるヴィルヘルムは、傍らにレムと短髪の老齢の男性を引き連れている。彼は先にレムを部屋の中に入れると、男性の方に振り向き、
「コンウッド、迷惑をかけてすまない。匿ってくれて、恩に着る」
「は、あの傍若無人で自儘の権化だったヴィルヘルム・トリアスさんに殊勝に礼を言われるなんて、明日は雨でも降るかもしれんな」
「お前な……」
「冗談だよ。――それに、当然のことだ。当然のことだよ、ヴィルヘルム。俺がお前に力を貸すなんてのは、礼を言われるまでもない、当然のことなんだ」
「――――」
気安い口調ののちに、そう声を震わせた男性にヴィルヘルムの頬が強張る。
男性はそんな旧知の相手の反応を面白がるように頬を緩め、それから室内にいるオットーやガーフィールを見ると、
「あんたたちの仲間のナツキ・スバル殿には、白鯨討伐のときの借りがある。でかくて一生かけて返さなきゃならんような借りだ。ここには誰も通さないから、安心してくれ」
「……ご店主、感謝します」
「言ったろう。感謝はこっちの方がずっとでかい。……ナツキ・スバル殿が魔女教だなんて誰も信じんよ。クルシュ様も同じだ」
そう言って、男性はヴィルヘルムの肩を叩くと、扉を閉めて出ていった。その背が扉に遮られるのを見届け、オットーは「レムさん」とレムに呼びかける。
ヴィルヘルムの案内で辿り着いたここは、避難所として提供された酒場の個室だ。この個室でオットーたちが状況説明をする中、レムは別室にいた。
その理由が――、
「ペトラちゃんたちは大丈夫でしたか?」
「……ひとまず、休んではいます。ペトラちゃんが取り乱してしまって、メィリィちゃんの方が宥めに回っていましたけど……二人とも、眠ってくれたので」
「そうですか……わかりました。ありがとうございます」
「いいえ、私は何も。それより、お話は?」
「――現状確認が済んだところ、でしょうか」
そうオットーは、薄青の瞳を部屋の奥に向け、緊張した面持ちのレムに答える。
彼女の視線を辿った先、そこに立つのは個室の座席に腰を下ろし、それでもなおオットーやヴィルヘルムより高い位置に頭がある大柄の人物だ。
禿頭に、日に焼けたような肌の色をした老齢の巨躯、彼の名前は――、
「――バルガ・クロムウェル。かつての、王国の内乱を拡大させた主因の一人です」
「……生憎と、誰のことを言っておるのかわからんな。儂はロム爺、貧民街で暮らしておった、図体のでかい老いぼれに過ぎん」
「ずいぶんと白々しいことだ。私の抉った胸の傷はどうした。そのご大層な白い胸毛の下に隠しているのか?」
「ますます意味がわからんな。我が事ではないが、歳は取りたくないわい。あの高名な『剣鬼』でさえ、寄る年波に頭の働きが敵わんか」
「貴様――」
「……お二人とも、ケンカはやめてください。上でペトラちゃんたちが休んでいます。私たちには、内輪揉めしている暇なんてないんじゃないですか」
一歩、いがみ合う二人の間を割るように踏み出し、レムが交互に両者を睨む。彼女の厳しい視線に、ヴィルヘルムは頭を下げ、巨躯の人物――自らをロム爺と呼んだ老巨人も、咳払いしてレムに従う姿勢を見せた。
仲裁に入ってくれたレムの判断に感謝する一方、オットーは今の険悪な二人のやり取りに、ある種、納得の念を抱かずにはおれない。
――オットーも、この親竜王国ルグニカの国民の一人だ。
『剣鬼』ヴィルヘルム・ヴァン・アストレアが『亜人戦争』の英雄であり、バルガ・クロムウェルがその内戦で亜人連合を指揮した一人である事実は知っている。
まさか、あのバルガ・クロムウェルが生存していたとは思いもよらなかった。
無論、当のロム爺はバルガとの関連性を否定しているし、絶対認めないだろうが。
ともあれ――、
「ロムさんと呼ばせていただきますが……ヴィルヘルムさんを援軍に向かわせてくれたことは感謝します。それがなければ、僕たちは今頃全滅でした」
「大げさ、とは言えんじゃろうな。今の状態で城に身柄を押さえられれば、王選候補者でも騎士でもないものなど、どうとでも消して言い繕える」
「どうとでも消せるなんて、そんな……」
「最悪の可能性は想定せねばならん。それを嫌がって楽観に逃げても、相手が手加減してくれる道理なぞない。……マイクロトフが死んだとなればなおさら、な」
事態を重く見たロム爺の言葉にレムが絶句するが、オットーはそれに同意見だ。
可能性は、常に最悪を想定する。結局、それが死中に活を見出すことにも繋がるのだ。悲観主義だと、自分でも思うが。
「よォ、ヴィルヘルムさんよ、さっきァ助かったぜ」
と、そこでヴィルヘルムに、壁際に座っているガーフィールが軽く手を上げた。その呼びかけに、ヴィルヘルムは「ガーフィール殿」と振り向き、
「あの場では私の技量が及ばず、申し訳ない。あなたごと斬る意表を突かなくては、ラインハルトに剣を届かせることはできませんでした」
「ありゃァ、俺様も覚悟ッして受けてんだから構わねェよ。そっちの傷は、もォほとんど塞がってんだ。……『剣聖』の手刀の方ァ、まだまだ全然ッだけどよォ」
「――――」
「それよッか、ヴィルヘルムさんはどォしてたんだ? うちの大将と、そっちの公爵さんが一緒に逃げてるって話みてェだが……」
「そうですな。私の方で何があったか、お話しします」
そう言って、ヴィルヘルムは粛々と自分に、そして主のクルシュに何があったのか、ここまでの状況を語り始めた。
「スバル殿やエミリア様が屋敷を訪ねていらしたのち、皆様をお見送りされたクルシュ様は自室にこもられました。私はもちろん、家人のいずれも近付けず、食事も満足に取られないような形で」
「それは……心配でしたね」
「ええ。このままではいけないと、誰もがわかっていました。そこで、私はクルシュ様のお父上であられる前公爵、メッカート・カルステン様にお力添えいただこうと、そのための用意に屋敷を離れておりました。ですが、その隙に――」
「――クルシュ様が、単独で屋敷を出て、マイクロトフ・マクマホン卿の邸宅へ向かってしまった」
「その通りです。私の耳に届いたときには、すでに事態は手遅れとなっておりました」
無念を隠さない表情で、ヴィルヘルムが自分の力不足を悔やむ。
だが、わざわざヴィルヘルムが不在のタイミングをクルシュが見計らっていたのだとすれば、早いか遅いかの違いでしかなく、彼が責められる謂れはないだろう。
もっとも、その結果がこの事態となれば、『剣鬼』の自責もやむなしと言えた。
「当然ながら、クルシュ様がそのような暴挙に出るなど考えられない。私は即座に王城に上がり、旧知のボルドー・ツェルゲフ卿に訴えました。しかし、耳を貸してもらえぬばかりか、帰路にて兵に追われる始末。そこに――」
「――儂が声をかけた。はっきり言って、苦渋の選択ではあったがな」
「……私も、王国兵を力ずくで斬り払い、突破するのは本意ではありませんでした。この男を明るい場所で見たときは、この目を疑ったものです」
「お二人とも」
消せない怒りと因縁が、どうしても発言に毒を混入させる。
それをレムにチクリと窘められる男たちを尻目に、オットーは彼らが合流した経緯に納得した。ヴィルヘルムが合流するまでの経緯にも。
「そうなると、ロムさんの方はどうなんです? ずいぶんと手回しがいいというか、判断が早かったみたいですが」
「疑られるのも無理はないが、儂も動けたのは直前で、お前さんらと大差ないわい。気付けたのも鼻が利いた……昔から、近付いてくる危険には勘が働くのよ。しばらく錆付いておったが、ここ最近のバタバタで錆落としになったようじゃな」
「なるほど、そうですか。――わかりました」
大きな肩を回し、そう淡々と答えるロム爺にオットーは深入りしない。
あくまで、今このときは同じ方向を向いているだけで、立場上は対立陣営――手札を伏せるのは当然のことだし、それを咎める方が狭量と言える。
少なくとも、ロム爺はその行動でオットーたちをピンチから救った。今はその行動の評価を、真意を怪しむことより高く扱うべきだろう。
「おっかない若造じゃのう。目が笑っておらんぞ」
「すみません。商人は表で笑って、裏でほくそ笑んでが基本なんですが、このところはなかなか商人然とできなくて。自分でも嫌になりますよ。――もっとも、人の好い商人が身内を死なせるなら、そんな人は今は不要ですが」
「――――」
「……すみません、口が過ぎました」
肩をすくめて応じたあとで、オットーは今のは余計な言葉だったと自分を戒める。
思っているだけならまだしも、口に出したならそれは武器も同じだ。対面しているときにいきなり武器を抜けば、そんな人間は滅多刺しにされても文句は言えない。
やはり、自分で考えている以上に、『言霊の加護』を上回られたことが尾を引いている。加護に自分のアイデンティティを委ねることは危険だと、それこそ呪詛のように自分に言い聞かせてきたのに、最近は頼りすぎていた。そのツケだ。
「――とにかく、ここにいる僕たちの立場は同じです。不当に主を貶められ、王城はそれを黙認……いえ、むしろ率先している。その目的は、王選候補者たちを排除し、王選というルールそのものを破壊し、王国を支配すること」
「そのために、エミリアさんも、あの人も悪し様に言われて……ヴィルヘルムさんやロムさんが支持している方たちも、なんですね」
「エミリア様にフェルト様に、公爵さん……ってなると残んのァ、アナスタシア様と、教会の新しい候補者のフィルオーレ様ッだけかよォ」
「どうでしょうかね。『賢人会』や半円卓の参加者が手段を選ばないなら、アナスタシア様を貶める方法だっていくらでもあるでしょう。アナスタシア様はカララギの出身ですから、都市国家が王国を侵略する手筈を整えようとしているとか……あるいは、ヴォラキア帝国でエミリア様と共謀し、プリシラ様を謀殺したとか――」
「――っ、ふざけないでください!」
と、思いつく悪辣な筋書きを予想するオットーに、そうレムが声を荒らげた。
薄青の瞳を潤ませ、息を荒くする彼女は強く拳を握り、オットーの推測したプリシラの死――それを貶める言説に、怒りを露わにする。
「プリシラさんを、あの方の死を貶め、利用するなんて絶対にさせません。もしそんなことを本気で言ってくるなら、私は許しません……! アベルさんの耳に入ったら、ヴォラキアと戦争になりますよ!」
「実際、そう冗談でもないんですよね。帝国との友好条約を結べる成果を持ち帰ったエミリア様を冷遇することは、エミリア様を認めた帝国の顔に泥を塗るに等しい。開戦には馬鹿げた理由ですが、馬鹿げた開戦理由なんて歴史上いくらでもある。それに……」
「――仮に戦争になったとしても、ラインハルトがおる。王城を押さえるということは、『剣聖』を動かせるということでもある。これまではそうならんように、『剣聖』への発令権は厳格に管理されていたようじゃが……相手は、それを手に入れた」
「そんな、ことが……」
あくまで、本当に最悪の可能性ではあるが、そうしたオットーの考えをロム爺は否定せず、むしろ足りない部分を埋める形で悪夢を舗装した。
そのあまりの恐ろしさに、まさしくラインハルトとの一合を命懸けで掻い潜ったばかりのレムとガーフィールは二の句が継げない。
ただ一人――、
「――やはり、『剣聖の加護』か」
そう、ほとんど誰も聞き取れない声量で、『剣鬼』が呟くばかりだった。
「……状況からして、敵に王選を攻撃する意思があることは明らかです。となれば、直近で舞台に上がったフィルオーレ様と、それを支援する『神龍教会』は敵方とみなして間違いない。確認しておきますが、十五年前に行方をくらました王女というのは」
「――フェルトはフェルトじゃ。それ以外の答えはない」
沈黙が話し合いに停滞を生むのを嫌い、状況整理と事実確認をしようとしたオットーを、ロム爺のその言葉が硬く、はっきりと遮った。
疑問に被せるような否定、それだけで終わるのはさすがに不親切と思ったのか、ロム爺は向けられる周りの目に「ただ」と付け加え、
「あの『神龍教会』が消えた王女を匿っておったという話は眉唾としか思えん。王城と距離を置いていたとはいえ、王選が始まって一年以上、その事情を伏せたままでいるというのは、王国存亡の危機にあってありえんことじゃろう」
確かな意見と不確かな態度、それを両立するロム爺は明らかに隠し事をしている。
当然、老巨人に向けられる『剣鬼』の眼光は鋭さを増していた。
「――――」
十五年前の当時、近衛騎士団の長だったヴィルヘルムは、消えた王女の捜索の責任者だったとも聞く。今回、フェルトとフィルオーレにかかった王女疑惑の答えを知りたい気持ちは人一倍強かろう。
もっとも、その眼光に宿った執着心に負けて口を割るほど、亜人連合の三巨頭と疑われる人物の心胆も脆い造りではなかったのだが。
ともあれ――、
「……状況の悪さは、わかりました」
小さく息を吐き、レムはきゅっと背筋を正すと、無理やり気持ちを切り替えた様子だ。そのまま彼女はオットーたち、部屋の面々を順繰りに見渡すと、
「はっきり言って、今ここにいないあの人のこともとても気掛かりですけど、城のエミリアさんや姉様が危険なんですよね? いったい、どうやって二人を……いえ、フェルトさんもです。どうやって連れ出しますか?」
「向ッこうに、ラインハルトやら騎士団長やらがいるってなると、正面ッ突破ってのァいくら何でも無理があんだろォよ。『ガッドギー・グアッドゼアッドの山籠もり』ってェ話になる。手立てがいんぜ、オットー兄ィ」
ラインハルトとの戦いで負担も大きいガーフィールが、レムの意見に賛同し、ここからの策を期待する目をオットーに向けてくる。
二人としてはもちろん、城で拘禁されるエミリアが心配だろうし、それ以上に彼女に世話役として付き添ったラムの安否が気掛かりのはずだ。
その二人に、これを告げるのは本当に心苦しいことだが――、
「――いえ、僕たちはこれから王都からの脱出を優先します。王城のエミリア様とラムさん、それにフェルト様を連れ出す余裕はありません」
「「な――っ!?」」
驚愕に目を見開いて、ガーフィールとレムが同時にそう声を上げた。そのまま、ガーフィールは壁に手をついて立ち上がり、「オットー兄ィ!」と吠え、
「脱出って……助ッけにいかねェって、どォいうことだよ!」
「どうもこうもありません。言ったままです。今の僕たちに、城に囚われたエミリア様たちを連れ出す用意も、戦力もありません。生半可な策では力ずくで打ち破られ、全員揃って敵の手に落ちるだけです。そんな負け戦はできない」
「負け戦なんて……でも、あそこには姉様が、エミリアさんが」
「わかっています。ですが、敵がすでに王城を掌握していたとしても、おいそれと王選候補者に手を出すことはできない。言いなりのラインハルトさんでも、そんな動きがあれば見過ごすことはできないでしょう。自由は封じられますが、城にいる分にはエミリア様たちは手出しされない可能性が高い。そう考えます」
「だ、だッけどよォ……」
極力冷静に、声に感情が乗らないよう留意しながらのオットーに、感情を剥き出しにするガーフィールとレムの動揺は大きい。だが、そのオットーたちのやり取りに、大きな手を上げたロム爺が「よいか?」と口を挟む。
「儂も、その若造と同意見じゃ。城におっても、フェルトらであれば何とかしよう。むしろ儂らの動きで連中に口実を与える方が怖い。すでに魔獣の一件で旗色は悪くなっておるんじゃ。これ以上は避けたいところじゃな」
「ロム爺さんまで、オットーさんと同じ意見なんですか。……ヴィルヘルムさんは」
「――。主と姉妹を案じられるレム殿の気持ちはわかります。ですが、万全の構えをした相手に不利を覚悟で挑むのは愚策……業腹ですが、バルガに一理あるかと」
ゆるゆると首を横に振り、そう答えたヴィルヘルムにレムが唇を噛む。
彼女の無念、それはオットーにも痛いほどわかった。それにオットーは、彼女とガーフィールのさらなる反発を避けるため、あえて口にしていないことがある。
たとえ『賢人会』が敵の手に落ちていたとしても、王選候補者を害することはできない。――だが、世話役や付き人の安全までは保障されないということ。
そして、世話役になることを買って出たラムは、最初からその可能性を覚悟の上で、レムにもペトラにもあのポジションを譲らなかったのだと。
「……オットー兄ィ、王都を出るって話だが、大将たちァどォすんだ?」
「――。合流は、難しいでしょう。僕の加護も今は当てにならない。迂闊な相手を選んで話せば、こちらの内情は筒抜けだ。そんなリスクは、冒せません」
せめて『言霊の加護』が万端であったなら、数に任せた捜索でスバルたちを探すことも、伝言を届けたり、集合場所を報せることもできただろう。
その選択肢が奪われている今、足掛かりなくスバルたちを探すのは不可能だ。
「バルガ、深くは追及しない。だが、貴様ならクルシュ様やスバル殿を……」
「単なる貧民街の老いぼれを高く評価してくれておるようじゃが、生憎とその期待には応えられん。もったいぶっておるのでも、出し惜しみするわけでもない。頼りない糸はすでにほつれた。繋ぎ直す見通しも立たん」
「肝心なときに役に……いや、それは私も同じか」
反射的に憎まれ口を叩きかけ、それをヴィルヘルムは自省によって躊躇った。それをちらと見るロム爺の瞳にも、その言が嘘ではないのだろう悔しさがある。
やはり、打つ手なし。その状況に、レムが自分のスカートの裾を強く掴んで、
「城の、姉様たちは信じられます。ここにいる私たちも、力を合わせればと思えます。でも、あの人だけは……きっと無茶をします。私にはわかります」
「レム……」
「いいえ、私だけじゃない。ガーフも、オットーさんもわかるでしょう? あの人はこういうとき、絶対に身の丈以上のことをしようとしてしまうんです。それできっと、またひどく傷付くことになる。それなのに……」
傍にいられない。そう、心からの悔しさを滲ませるレムに、誰も何も言えない。
それはきっと、ここにいる全員が何らかの形でスバルと関わり、レムが言った通りのスバルの行動に救われ、傷付く彼を実際に目にしたことがあるからだ。
「……ベアトリスちゃんに、負担をかけますね」
今や、唯一スバルと一緒にいてくれているだろうベアトリスだけが、スバルに対するセーフティーネットとして機能してくれる陣営全員の希望――と、そう考えたオットーたちの前で、「いえ」とヴィルヘルムが前に進み出る。
彼は俯くレムの前に立ち、その肩にそっと手を置くと、
「案ずるのは当然のことです。ですが、スバル殿と一緒にいるのはベアトリス殿だけではありません。クルシュ様がおられます」
「――。じゃが、公爵は乱心したともっぱらの風説のようじゃぞ。事実、貴様の目を盗み、屋敷を抜け出したというではないか」
「黙れ、バルガ、貴様にあの方の何がわかる」
「――――」
「貴様の言う通り、私は欺かれたのかもしれん。だが、クルシュ様には何か考えあってのこと。それをご本人の口から聞くまで、勝手に決め付けることはせん」
売り言葉に買い言葉ではなく、ヴィルヘルムはその声に確かな芯を通し、青い双眸にここにはいない主への忠を宿してレムを、部屋の全員を見渡した。
「たとえ記憶をなくされようと、その心根の正しさは損なわない。ただ妻のことで恩義があるからではない。――私は私の全霊をかけ、あの御方を王に据えると決めたのだ」
「ヴィルヘルムさん……」
「そのクルシュ様がおられる。スバル殿も一角の男です。ベアトリス殿だって、スバル殿と一緒のときは幼気な幼子のように見えますが、長い年月を生きる大精霊とお聞きしました。必ずや、こちらの懸念を打ち破ってくださるはず」
ゆっくりと紡がれるそれは、レムに言い聞かせるためのものではなく、そうであれと力強く世界に自分の望みを書き殴るような言い方だった。
ある種の傲慢ささえ感じさせるそれは、しかし、かつて『剣聖』をその手で下し、運命からの略奪婚を成し遂げた『剣鬼』が言えば、そうと信じる説得力がある。
実際に、そうなるのではと思わせてくるような、不可解な力が。
そしてそれは――、
「……大将が、言いそォな言い方ッだぜ」
「だとすれば、何とも光栄な評価ですな」
オットーも感じたそれをガーフィールが口にすると、ヴィルヘルムが深く頷く。その『剣鬼』の訴えを間近に浴び、レムはふっと肩から力を抜いた。
その瞳と表情には、まだ不安を残していたが、レムはそれでも気丈に顔を上げ、
「ごめんなさい、取り乱しました。そうですね。ベアトリスちゃんとカルステンさんが頼りになるなら、あの人の無茶の一つや二つ……一つや二つで済むでしょうか」
「今、納得できそうだったのにそこで詰まるのはよくないんじゃないですかね……」
「三つッでも四つッでも、ベアトリスが何とかしてくれらァ! ……今ァ、そォ信じるのが俺様ッたちのできることだろ」
そう言って、まだ自分も不安が抜け切らないくせに、それを隠して牙を噛み鳴らしたガーフィールに、レムもまた薄くではあるが微笑み返した。
オットーもそうだ。誰も、この状況で不安を全て解消して動くことなんてできない。あとで望まぬ目が出たとき、今日のことを後悔するかもしれない。
それでも今、この瞬間の躊躇を踏み越えられるよう、選び取るしかないのだ。
「では、改めて――王都を離脱します」
咳払いをし、それからオットーは部屋の全員を見渡して、その方針を再度宣言する。
王城はすでに敵の手に落ち、自分たちは王都の兵たちに狙われるお尋ね者となった。下手に動けば『剣聖』を差し向けられ、捕まれば命さえ危うい絶体絶命。
そんな状態で王都を離れるなら、それは尻尾を巻いて逃げたと思われて当然だ。
しかし、あえて言おう。
「これは、決して敗北ではありません。――次に、必ず相手を殴り返して勝つための、勝利のための布石です」
「へッ、オットー兄ィらしい、血の気が有り余ったッ啖呵だぜ!」
「その評価、全然納得いかないんですけどねえ!」
頷く面々の中、指で自分の鼻を擦ったガーフィールにそう声を高くして応じ、それからオットーはレムに頷きかけたあと、壁の外――王都に意識を向ける。
どこにいるかはわからない。だが、この王都で、オットーたちと同じように、袋小路でジタバタと足掻いているだろうスバルとベアトリスを思う。
不安は尽きない。レムの言う通り、無茶をするだろうから。
――させたくない。それがオットーの本音だ。
「……それでも、どうせ無茶するんでしょうね、あなたは」
届くはずもない呟きを壁に吸わせて、オットーは帽子を目深に被り直す。
ナツキ・スバルという人間が、誰かの期待や願いに応えるためなら、自分の命や心を平気で天秤に載せてしまうことを、オットーは嫌というほど知っている。
だから、本当なら頼りたくないし、頼るべきではない。
他の誰もと同じように、ナツキ・スバルを「何とかしてくれる人」として数えることは、その優しさと弱さを食い物にすることと同じだと、思ってしまうから。
だから、だからせめて。
その無茶が、ナツキ・スバルを食い尽くし、彼が潰されることのないように。
遠く離れた場所であろうと、この理不尽と不条理に抗うために、自分たちがすべきことをするのだと、苦い気持ちでオットーは思うのだった。
△▼△▼△▼△
「いっきしっ」
「体が冷えたのかしら。大丈夫なのよ?」
「いや、いきなり鼻がムズムズしただけ。……確かに、血の気が引いたけどさ」
不意に鼻の奥を襲った衝動にくしゃみしたスバルは、心配げにするベアトリスに唇を緩めたあと、しかし苦笑すら維持できずに嘆息した。
それほどに、ラッセルから聞かされた話――『色欲』のカペラの暗躍と、ルグニカ王国の置かれた状況の悪さが衝撃的だったのだ。
「変身する能力持ちは厄介ってのがお約束だが……ここまでか。三十年、ラッセルさんたちに嫌がらせを続けてるってのも納得だぜ」
「厳密には、嫌がらせをされていたのは王国で、我々はそれを止めようとしていた、というところです。もっとも、現状の体たらくでは偉そうなことも言えません」
「お前たちが水際で食い止めていたのはわかったかしら。でも、腑に落ちないのよ。どうして、その三十年の綱引きがいきなり傾いたりしたかしら」
「それは……たぶん、わたしたちが理由だと思います」
眦を下げ、しゅんと項垂れた『白羊』がそう自己申告する。
彼女は訝しむスバルたちの前で、その瞳に罪悪感と自責の念を宿しながら、
「わたしたちが『愛し子』を抜けて、こうして『銀狐』たちと合流したことで、何度も相手の計画を躓かせる機会がありました。それで、ママも気付いたんだと思います。――『六枚舌』は、自分たちの尻尾を掴んだんだって」
「そりゃ、自分のとこから裏切り者が出れば、考えて当然……それともあれか? カペラの奴は、自分の手元を離れたら忘れて二度と思い出さない的な」
「いえっ、むしろずっとそのことを覚えている性格の人です」
「だろうね! 解釈一致だわ。ホント、嫌な奴だな、あいつ……」
改めて、カペラの歪んだ性格への認識が補強され、スバルはそう吐き捨てる。その『白羊』とのやり取りを補足するように、ラッセルがまた一つ指を立て、
「彼女の言う通り、敵はこちらに手札が充実したのを知ったのでしょう。プリステラを魔女教が一斉に襲った際、これまで表に出てこなかった『色欲』が堂々と姿を晒したのも、我々に存在を認知させる狙いがあったと考えられます」
「存在を認知って、そんな真似して何の意味が……」
「――『六枚舌』はすでに、カペラ・エメラダ・ルグニカを七人始末しています」
「は?」
「事実ですよ。プリステラで確認された『色欲』、それと外見の特徴が一致する目撃証言があれば、確かめに動かざるを得ない。無論、その間に『愛し子』を使った別の策も打たれる。今回のことは、それらの対処に手を割かれすぎた私の落ち度です」
「……聞くまでもないけれど、その七人は偽物だったのよ?」
「ええ。お伝えするまでもなく」
あくまで淡々と、ラッセルは相手に上回られたと無感情に説明するが、スバルが彼の立場だったなら、ふざけるなと激昂しないでいられるとはとても思えない。
あの、たくさんの悲劇を生んだプリステラでの暴虐さえも、カペラにとっては後々に『六枚舌』を翻弄し、王国を掌握するための布石に過ぎなかったというのか。
あれだけ大勢の人間の、人生を壊し、捻じ曲げておいて。
「――っ」
「……スバル、気持ちはわかるけど、落ち着くかしら。自分が痛いだけなのよ」
「え? あ、悪い。つい……」
歯噛みし、俯いたスバルの胸に、胡坐の中にいるベアトリスがトンと背中を当てる。その彼女がそっと触れるのは、無意識にスバルが爪を立てていた右腕だ。
見れば、マクマホン邸で負った火傷に巻かれていたハンカチは取り除かれ、綺麗な包帯に取り換えられている。その包帯の上から、つい左手の爪を立てようとしていた。その無意識を謝ろうとして、ふと気付く。――火傷の痛みが、完全に消えていた。
「これって、ラッセルさんが……いや、『白羊』ちゃんか?」
「えっ? あ、それは違います。それは『青蛇』さんが……」
「『青蛇』?」
「――部下の一人です。腕の立つ治癒術師でして、勝手ではありますが、眠られている間に一通りの治療をさせました。違和感などなければ」
「ああ、うん、全然ない。なさすぎて違和感ってくらいだ」
軽く手首を回し、腕を振ってみるが、まさに完調といった感じだった。
マナ不足の状況もあったとはいえ、ベアトリスの力でも応急処置が手一杯だった火傷をこれだけ治せるとは、ラッセルの部下も相当な粒揃いと見える。
手傷があったなら、クルシュやラチンスのそれも治っているはずだ。
もっとも――、
「――親父」
口元に手を当てて、思案に沈んだラチンスは今、それどころではない。
王城にカペラの魔の手が伸び、『賢人会』を始めとした上級貴族たちが入れ替えられたというのが事実なら、おそらくそこにはラチンスの父親も含まれるのだ。
口では父親に対する反発心を感じさせるラチンスだが、合間合間に垣間見える彼の意外な知性には、確かに出自を根拠とした芯があったように思う。
その芯と、件の父親が無関係でないことも、だ。
「ラチンス、平気か?」
「……半裸に剥かれただけだぜ。なんてことあるかよ」
「――。そうか。わかったよ」
質問の意図はわかっているだろうに、そう答えるラチンスをスバルは尊重した。
不安なのは当たり前のことだ。そして今この瞬間、それを解消する手立てがスバルになく、ラチンスが胸の内を話したがっていないことも。
身内を案じる気持ちは重たい。経験上、話せば楽になるとも言えないから、無理強いだってできない。もちろん、相手が話したがるなら聞くつもりだが――、
「――おーいおい、いい加減に辛気臭くて面倒臭い話は終わったか?」
と、そのデリケートな空気をぶち壊すように、医務室の扉が乱暴に開かれた。
のしのしと、無遠慮な足音を立てて入ってきたのは、黒衣に道化師マスクを付けた危険人物――片手に大きな袋を下げた『黒狗』だ。
スバルたちが無事なのだから、彼も当然無事だろうとは思っていたが、
「話の腰を折る奴だな……大事な話の真っ最中だぞ」
「それはそれは人生お忙しくて何よりだ。どうせ必死に生きてるんだから、大事な話をしてない瞬間刹那なんてないとか言い出しそうだがな!」
「『黒狗』、やめてくださいっ! ナツキ・スバルさんは、わたしたちの恩人ですよっ」
「おお、いい子ちゃんぶりやがって。他人に尻尾を振らせるのが得意な悪女のくせに、自分でも尻尾を振り足りないとは頭じゃなくてお尻が下がるな、くはははは!」
「~~っ」
『黒狗』の無礼な態度を叱った『白羊』が、その反撃に顔を赤くする。
どうやらこの二人、揃って『愛し子』から抜け出してきたわりに、スバルとベアトリスのようにべったり信頼し合った関係ではないらしい。
もちろん、スバルは『白羊』の方に肩入れしようと思うが――、
「余計なお喋りが多いですよ、『黒狗』。用件は手短に」
「ちっ、そろそろ移動の準備が整うから、お前ら皆々様もご用意を、だ!」
「わきゃんかしら!」
「うおっ、なんだなんだ!?」
乱暴に言いながら、『黒狗』が持っていた大袋をいきなりスバルたちにぶん投げた。とっさに身を引いたスバルとベアトリスの足下、ベッドの上に袋が落ちる。
その袋の口をいそいそと『白羊』が開けると、中にあったのは――、
「――『認識阻害』効果のあるローブです。ロズワールを通じ、手に入れました。ナツキ殿とベアトリス殿、それにクルシュ様の分もあります。ああ、ラチンス殿の予備も」
「おまけ扱いでありがとうよ!」
雑な扱いをされたラチンスが吐き捨てる傍ら、スバルはしばらくぶりに聞いた『認識阻害』の響きに眉を上げつつ、取り出したローブをベアトリスの膝に広げる。
白い生地だ。触ってもスバルにはわからないが、ベアトリスは「ん」と頷き、
「確かに、ロズワールの手が入ったものに違いないのよ。これで、あの髭がロズワールの友達という話に説得力が増してしまったかしら」
「残念な報告みたいに言う……と、お尋ね者の俺たちにこのローブはありがたいけど、移動するって言った? ここが『六枚舌』の拠点なんじゃないの?」
「いえ、ここはいくつかある小さな待機所の一つに過ぎません。今の『愛し子』の勢力に対抗するには力不足……早々に引き払います」
「でもそれは……いや、相手の怖さはよっぽどラッセルさんたちの方がわかってるよな。こっちは相乗りしてるだけだってのに、悪い。指示に従うよ」
ようやく落ち着いたと思ったところで、またすぐ移動すると言われ、反射的に食い下がろうとしたが、スバルは早々とその意見を引っ込める。
相手の恐ろしさ、周到さは十分以上に説明された。ラッセルたちと合流できていなければ、今だって見えない敵に追われ続けていたに違いない。
だから、スバルはこの場はラッセルの考えに従おうと決める。
しかし――、
「それで、すぐに動く? っていうか、次の移動場所ってこっから遠いのかな」
「そうですね。しばらくかかるかと。――なにせ、王都を離れることになります」
「……え?」
鼓膜を打った説明、それがうまく呑み込めなくて、スバルは目を丸くする。
何かの聞き間違いかと、ラッセルが異なる言葉を紡ぐのを待つが、そんなスバルの期待も空しく、ラッセルの表情は変わらない。
自然、スバルは時間をかけて、今の言葉を飲み下すしかなく――、
「――簡単には頷けんのよ。お前の今の口ぶりだと、城のエミリアが置き去りかしら」
「ええ。誤解を恐れず言わせていただければ、王都を逃亡中の陣営の方々との合流にも手は割けません。我々はすでに、相手の掌中にいるのです。その手が閉じられ、隙間がなくなる前に動かなくては、取り返しがつかなくなる」
「それ、は……でも」
「改めて言いましょう。この拠点を放棄し、王都から脱出します。今や、この都市は『愛し子』の支配する魔窟だ。――我々に、敗北は許されないのです」
――強い覚悟と矜持を滲ませ、敗北を拒絶するラッセルに、スバルは絶句する。
「――――」
スバルの理解は、甘い。浅い。足りない。
事態は、スバルの想像よりもさらに悪く、自分たちは負ける寸前――気付かないうちに処刑台に上げられ、首を落とされる時を間近にしている。そういうことなのだろう。
だが――、
「スバル、スバル、ベティーを見るのよ。ベティーがここにいるかしら」
その、わなわなと震えるスバルを、身を回したベアトリスが正面から抱きしめる。小さな掌に背を撫でられる感触に、スバルは忘れていた呼吸の仕方を思い出した。
「ラッセルさんの言い分は、わかる、わかるよ。だけど、エミリアを……」
敵の手中に落ちた王都を離れ、敗北を拒み、再起のために機会を作る。
その意図はわかる。理屈だってわかる。今の王都は危険でしかなくて、思い切った手を打たなくては敵の思う壺。――その場所に、エミリアを残していくのか。はぐれた仲間たちとの合流を諦めて、逃げるのか。
そんな選択肢を、ナツキ・スバルは――、
「――『白羊』」
「……っ、はい」
ベアトリスと抱き合い、考えあぐねるスバルを前に、不意にラッセルが『白羊』を呼んだ。その呼びかけに、『白羊』は微かに言葉を詰まらせ、頷く。
それから彼女はベッド脇に歩み寄ると、そっと両手でスバルの手を握った。
「『白羊』ちゃん……?」
「気持ちは、わたしも痛いぐらいわかります。大切な人と離れ離れになる決断は、身を引き裂かれるように辛い。でも、じゃあ一緒に死にます……とは、ならないですよね」
「――――」
「わたしたちを信じてください。カルステン公爵のお力と、ナツキ・スバルさんがいてくれたら、きっと負けません。お願い、します……っ」
懸命に、いっそ泣きそうなくらい瞳を揺らし、『白羊』がスバルを説得する。
それは綺麗事であり、理想論であり、スバルが自分を納得させるために、もう十回も百回も繰り返したようなお仕着せの結論でしかなかった。――それでも、何故か、『白羊』の口から聞かされると、心を動かされる。
「――ラッセルさん、城のエミリアたちは」
「王選候補者への手出しは向こうも控えるでしょう。不自由は強いられても、身の安全を侵されることはない。協力者に見張らせています」
大きく息を吸い、吐いて、そう尋ねたスバルにラッセルが答える。
できるだけ、スバルの不安を取り除こうとする意思の感じられたそれは、おそらくラッセルが差し出せる最大限の配慮と譲歩だ。
エミリアの無事は敵の良識に、仲間たちの安否はそれぞれの力に――どれも相手を考えれば、分の悪い賭けな感は否めない。
それでも――、
「――俺は、必ずエミリアを助ける。みんなもそうだ。覚えててくれ」
胸の奥に滾る黒い炎、それに全身を焼かれる思いを味わいながらも、決意する。
そのスバルの答えにベアトリスが身を硬くし、手を握ったままだった『白羊』が弱々しく吐息する。それを無言で眺めるラチンスは、ラッセルに目線を向けられ、不満ありありでも反対しないとばかりに舌を出した。
ただ一人、壁に背を預け、その被った仮面に手をやる『黒狗』だけが――、
「――くは、死んでくたばれ、クソ野郎め」
そう、誰にともなく忌々しげに呟くのが、薬の匂いがする部屋の床に落ち、消えた。