軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第九章1  『祈りよ雲のように』

――最後の時間は穏やかに、驚くほど静かに過ぎてゆくものだった。

「――我が星」

そう、声の調子は平坦に、それなのに包み切れないほどの愛情を込めた呼びかけをされて、アイリス=ヨルナは長い睫毛を震わせ、傍らの男を見上げた。

なんてことのないひと声、この奇跡のような逢瀬の最中に何百、何千と呼びかけられたようにも感じるそれ――なのに、この瞬間のそれは特別に感じられて。

――否、正確にはどの呼びかけも、その瞬間だけを切り取ってみれば特別だ。ただ、このときの特別さは、他の特別さともまた異なるもので。

この奇跡のような時間の、終わりを意味する呼びかけだったから。

「はい、閣下」

見下ろしてくる眼差しを見返し、唇からこちらも返礼を込めた愛の呼びかけ。

声は震えず、女々しく足を引く感情も転び出なかったことを自分で自賛する。かつての別れのとき、アイリス=ヨルナは彼に言葉を残せなかった。でも、転生することであの時代を振り返るたび、もしもがあればと何度となく思ったのだ。

もしもがあれば、決して、絶対に、弱い女の泣き言なんて残したくないと。

「あのときとは逆であるな。余の方がそなたよりも先に逝く」

「そうでありんす。……意趣返しとは、閣下も人の世の悪意を知ったでありんすね」

「そうだ。多くを学んだ。……いいや、教わったのだ。そなたを始めとした、余と共に歩んだ多くのものたちから」

「――――」

切れ長な瞳を細めて、彼――ユーガルド・ヴォラキアが古き日々を、そこにいた人たちを思い返し、眼の光彩を優しげに揺らすのにヨルナは胸を衝かれる。

いつも、アイリスの前以外では険しい表情ばかりをしている人だった。

そんな人だったから、アイリスのいなくなったあと、彼は一度でも頬から、眉間から、力を抜くことはできたのだろうか。

そして今後、この空と大地の間にある場所へ向かったあと、彼は――。

「案ずるな、我が星。余は、望外の幸福者であった」

「――ぁ」

「そなたと出会い、生かしてもらった。そなたと歩み、祝福をもらった。そなたと別れ、犯した過ちをも、そなたと再び巡り合ったこのときに正す機会を得た」

ユーガルドの言葉が、幸いを一つ一つと数える愛しい人の声が、アイリス=ヨルナの中にあった不安や恐れを甘やかに溶かし、慈しむようにほどいていく。

あの古の時代、愛しいアイリスを失ったことで、怒りにその身を焼かれたユーガルドの憎悪が遺した、あまりにも多くの悲劇の引き金となる過ちの法――それは、ユーガルドの子孫であり、『賢帝』と称される今代のヴォラキア皇帝が撤廃を約束した。

狼人と土鼠人を取り巻くその呪いを解くこと、それがアイリス=ヨルナの悲願であり、ユーガルドの生前最後の心残り――ようやく、この世界をこの時代を生きる資格を持つものたちへ返すことができるのだと。

そのために――、

「それは我が星、そなたも同じことだ」

ふと、自分を腕に抱くユーガルドの言葉に、アイリス=ヨルナは息を詰めた。その胸の内を適切に、これ以上ないほど正確に切開された気がして。

「閣下……私……わっちは」

「たとえ、そなたの望まぬ形で与えてしまったものでも、そなたがいずれの時代であろうとも、懸命に絆を紡いで過ごしてきたことは容易に想像がつく。無論、今の姿のそなたであろうと同じであろう。――それを、十全に果たすことだ」

それはアイリス=ヨルナの、自分という不自然な存在の身の置き所に迷う彼女の、わかりやすい在り方へ進もうとする選択を優しく取り上げるものだった。

ユーガルドは、いつだって正しい。

それはユーガルドが賢いからでも、強いからでもない。彼が相対する誰かのことを真摯に考え、敬い、その幸福を願える慈しみの皇帝だからだ。

『茨の王』などと呼ばれ、誰よりも恐れられたアイリス=ヨルナの愛しい皇帝は、その抱えようのないほど大きな愛情で、アイリス=ヨルナを真摯に考え、敬い、願う。

だから、ユーガルドの言葉はいつだってアイリス=ヨルナにとって正しい。

そして、その正しさがアイリス=ヨルナ以外にとっても正しいということは――、

「――わっちが、残りの生涯をかけて証明していくしかありんせん」

「大儀である」

そのアイリス=ヨルナの決意の答えに、笑み含みでユーガルドが応じた。

あえて、多くを語らないユーガルドの在り方に、アイリス=ヨルナはわずかに目を細めると、そっと伸ばした手で彼の頬を挟み、そっと唇を寄せた。

「――――」

互いの唇と唇が重なり、互いにあの時代で命を落とし、本来なら叶うはずのなかった再会を果たした男女、その距離が世界で、今最も近付いた。

「――――」

そのまま、世界で最も近い触れ合いがしばらく、しばらく、しばらく続き、やがてその距離がゆっくりと離れ――アイリス=ヨルナと、ユーガルドの瞳が交錯する。

それから――、

「――我が星、余はそなたを愛している」

「私もです、閣下。ずっと、永久に薄れることなく、あなたをお慕いしています」

口付けを交わし、愛の言霊を渡し合い、その唇が微笑みを象ったのが最後だった。

それが『アイリスと茨の王』という、古い時代に始まり、今という時代まで終わりを先延ばしにし続けた物語の、本当の意味での終幕だった。

△▼△▼△▼△

――ヴォラキア帝国全土を揺るがす、『大災』との決着から一夜明けた。

帝国の各地で猛威を振るった屍人たちの脅威は、鉄血の掟を奉じる帝国の臣民たちの団結によって退けられ、その先頭には『陽剣』を掲げて敵の首魁と真っ向から斬り合ったヴォラキアの剣狼、その頂たるヴィンセント・ヴォラキアの雄姿があった。

『帝都』ルプガナを中心に、『城塞都市』ガークラや『鉄血都市』グララシア、『魔都』カオスフレームと『雲海都市』メゾレイアなど、ヴォラキアの各主要都市に被害は及んだものの、いずれの都市も壊滅的被害に陥ることは免れた。

それ故に、大きな傷跡を残しながらも、ヴォラキア帝国を包むのは戦勝の機運。

無論、先々のことを考えれば、首脳陣はいつまでも勝利に浸っていることはできない。次々に舞い込んでくる各地の被害報告、率いるものが裁可しなければならない数々の事情、そういったものが共有され、彼らには寝る間もない。

そうした報告の中に、静かに忍ばされるように入り込んだ一報があった。

それは、この『大災』との戦いにおいて、ヴォラキア帝国の勝利に大きく貢献し、その焔のような生き方で大勢を魅せた一人の女性の訃報――。

その訃報を、崩壊した帝都に代わる仮の本営となった城塞都市の一室で耳にしたヴィンセント・ヴォラキア皇帝は、何事にも瞬時の熟考で即答する彼らしからぬ沈黙を作り、しばらく顔を伏せたのちに一言――、

「――そうか」

とだけ、言い残したとされている。

△▼△▼△▼△

『大災』との戦いが終結し、人々は元の生活を取り戻すために動き始める。

蘇った屍人の軍勢、そんな未曾有の大災害に大きく国土を荒らされたヴォラキアだったが、その大地で生きる人々はたくましく顔を上げ、一人、また一人と立ち上がり、復興に取りかかっていた。

そうした帝国の人々の姿に、ペトラ・レイテはただただ圧倒される。

「あんまり、帝国のことは好きじゃないけど……」

そうこぼし、ペトラは複雑な心中を抱えたまま、城塞都市の街中に立ち尽くす。

ペトラが帝国を好きになれない理由の大部分は、大事な身内であり、ペトラの想い人であるナツキ・スバルを無理やり連れ去った場所だという怒りが大きい。

そうした前提を取り除いてもまだ、好きと嫌いでは嫌い寄りのヴォラキアだが、それでもこの国が滅びないよう、ペトラたちも協力し、懸命に足掻いたのだ。

『大災』を退け、帝国が滅びを免れたことはペトラもよかったと思っている。

ただ、それでも――、

「――スバル」

人前ではスバル様と、敬称を付けて呼んでいる彼の名前を口にして、ペトラは本当の意味できっと、誰よりもこの帝国のために、それこそ皇帝よりも頑張った彼を案じる。

あの、優しくて情け深いスバルだから、ひどいことだらけの帝国でどれだけ心をすり減らしたことか、ペトラは心配で心配でたまらない。

そうしてただでさえ心配の多いスバルなのに、最後のトドメが厳しすぎた。

「プリシラ・バーリエル様……」

それが、スバルの心に大きな大きな、深くて痛々しい傷を生んだ女性の名前。

立場的に、ペトラは彼女と一度も言葉を交わしていない。機会はあった。『大災』が起こる前、帝都決戦へ臨む同じ陣営にいた彼女と、話す機会は十分あったのだ。

しかし、ペトラはあえてプリシラに近付こうとしなかった。

それは彼女がエミリアと同じ、ルグニカ王国の王選候補者の一人であり、対立する相手と必要以上に馴れ合うべきではないと考えたからだ。

そして、そのことをペトラは悔やんでいる。

プリシラと触れ合わなかったことで、ペトラは彼女を――プリシラ・バーリエルの死を惜しむ権利を持たず、だからスバルやエミリアと同じ気持ちで寄り添えない。

とても傷付いている二人に、その気持ちがわかると言ってあげられないのだ。

それが、今のペトラにはとてつもなく悔しいことで――。

「――これはこれはペトラ嬢、お一人ですか?」

「あ、ズィクルさん」

きゅっと唇を結び、頬に力を込めていたペトラが呼びかけに顔を上げると、そこにいたのは丸っと豊かな髪形をした、ズィクル・オスマンだった。

帝国の『将』として、『大災』との戦いでも重要な役目を果たしたズィクル。彼はその立場にも偉ぶらず、ペトラを一人の人間として接してくれる好感の持てる人だ。

その働きぶりもあって、戦後も重用されるだろうズィクルだが、こんなところに一人でいるとは珍しい。そう、ペトラが目を丸くしていると、

「一通りの兵の再編成が終わりましたので、ようやく自分の足で被害確認に降りてきたのですよ。報告は耳に入れていても、実物を見ないことには」

「そうだったんですね。再編成……詳しいことはわからないですけど、お疲れ様でした」

「お気遣いに感謝を。もっとも、私が果たせた役割など、ゴズ一将やカフマ一将のように精力的に動いておられる方々と比べれば、堪えるものではありません」

「頑張りを、どっちの方が頑張ったから偉いとかはないと思います」

恐縮した様子のズィクルが、そのペトラの指摘にますます恐縮する。

一方で、ペトラは自分の指摘に、先ほど心中でスバルを案じたとき、彼の頑張りを他の人の頑張り――目つきの険しい皇帝と比べたことを思い出し、自省した。

好きな人たちと同じ物の見方がしたくても、なかなかできない自分が悔しい。

「でも、一将さんたちって大変なんですね。あれから何日も経ってないのに、他の街にも飛び回らないといけないなんて」

「ええ。各地の『将』が対応していますが、やはり一将が直接顔を出される影響力は無視できません。兵の士気にも、睨みを利かせるという意味でも」

「憧れの人がきて、兵士の人たちが喜ぶのはわかりますけど、睨むっていうのは……」

「悲しいかな、こういう状況でも……いえ、困窮している状況だからこそ、それに乗じて目先の利得を、あるいは野心を叶えようという輩も少なくありません」

「――――」

眉尻を下げたズィクル、その答えにペトラは丸い瞳を伏せる。

ズィクルの返答の内容に、ペトラは実は内心で「やっぱり」と納得していた。

大きな敵の登場に、団結して立ち向かうことを選んだヴォラキア帝国。でも、その国難である『大災』がいなくなれば、問題は国の目線から個々人の目線に逆戻り。足りないものを奪い、盗み、場合によっては力で全部を押し通そうとする。

ズィクルが名前を出した一将たちは、そうした問題の抑止力を果たしにいったのだ。

「ゴズ一将は、帝都におられた奥方の無事が確認できてすぐに発たれた。カフマ一将も、一将への昇格を受けてすぐに」

「それってすごいことなんですよね? みんな、驚いてましたし」

「帝国で、一将の枠は九つしかありません。此度の戦でその枠もいくつも空席になってしまった……新たな一将の誕生は、数少ない好事と言えるでしょう。カフマ一将も、それがわかっていたから、以前は辞退した一将の位を受けたのだと」

「ズィクルさんは、そういうお話はないんですか?」

「私に、ですか?」

名前の挙がった一将たち、その在り方を称賛するズィクルの様子に、ペトラは首を傾げながらそう問いかけた。

間近でその戦いぶりを確かめたわけではないので、一将たちがどんな規格外の暴れ方をしたのかペトラは知らない。が、間近でその頑張りを見たという意味では、ズィクルの奮戦ぶりもなかなかのものだった。

城塞都市を巡る戦いの中、指揮所で大局を見ながら全体に指示をしていたものたちがいれば、剣を持って兵たちと一緒に屍人とぶつかり続けたものたちもいる。そして、ズィクルが果たした役目はその二つの間を繋ぎ、過不足ない連携を実現したこと。

地味だが、その働きがなければまとまりはほつれ、潰れてしまいかねない。

「わたしや他の姉様たちは、癒者団として裏方にいましたから、なおさらそう思います」

「……それは、ありがたい評価です、ペトラ嬢。女性からのそのお言葉だけで、このズィクル・オスマン、心底から報われた心地です」

「わたし、軽い気持ちで言ってるわけじゃ……」

「無論、わかっています。ですが、私の方も本心なのですよ」

聞き流されたと感じ、食い下がろうとするペトラにズィクルが首を横に振る。それから彼は、くりくりと丸い目を都市の光景に向けて、頬を緩めた。

「褒賞というのであれば、この光景、この結果こそがそうです。皇帝閣下が東へ逃れ、その際に私はたまたま任務で城郭都市にいた。その巡り合わせのおかげで閣下に随行する栄誉に賜り、この場に立ち会えた。私は慮外の幸福者です」

「……わかんないです。ズィクルさんは、もっと褒められてもいいのに」

「わかりませんか。では、ペトラ嬢、その聡明な頭に好ましい誰かを思い浮かべてくださいませんか」

その唐突な提案に、「え」とこぼしたペトラ。その脳裏にぼんやりと浮かんだのは、先ほどまでペトラの頭の中を大きく占めていたナツキ・スバルだった。

思わず、言う通りにしてしまったペトラの反応に、ズィクルは深く頷く。

「その好ましい誰かが、自分の行いの結果、笑ってくれる。それだけで十分に、報われたような心地になると思いませんか?」

「それは……ええと、はい」

「それと同じこと。私はヴォラキア帝国の『将』、そのペトラ嬢が頭に思い浮かべた誰かの範囲が、おそらくはあなたよりも大きいのです。だから、それでいい」

片目をつむり、胸に手を当ててズィクルがそうペトラに笑いかけた。そう口にする彼の様子には無理も、ペトラを誤魔化そうとする意図も感じられない。

だから、ペトラも静かに俯いて、何も言えなくなってしまったのだが――、

「――とはいえ、ヴィンセント閣下は信賞必罰を是とされる。功労者があまり無欲なことを口にして、兵たちが声を上げづらくするのは感心せんな」

と、その口を閉ざしたペトラに代わり、別の角度から声が割り込んできた。その声にペトラとズィクルが振り向くと、視線の先、ゆっくりと歩いてくるのはセリーナだ。

頬に目立つ白い傷跡、それでもなお凛々しい美しさを損なわないセリーナ・ドラクロイは、隣に知己であるロズワールを引き連れていて、ペトラの唇を曲げさせた。

その、露骨なペトラの反応を、セリーナたちは見逃さない。

「相変わらず、娘ほども歳の離れた相手にどうしたらこうも嫌われる? わざわざ自分に叛意のある相手を傍に置くなど、背中から刺されても文句は言えんぞ」

「そこまで後先考えられない子なら雇ったりはしないとーぉも。私を見る目はともかく、有能だからこそ置いているんだ。ペトラくん然り、オットーくん然りね」

「お前のそれは病気だな。いずれ、それが理由で足元を掬われるだろうさ」

肩をすくめ、ロズワールと気の置けないやり取りをしているセリーナ。彼女の苛烈な言葉は容赦なくロズワールを批判するので、ペトラ的には聞いていて小気味がいい。

が、その小気味よさも今はあまり感じられないのが本音だ。

「ドラクロイ上級伯、お忙しいはずでは……」

「それについてはそっくり同じことが『将』にも言えるだろう。心配するな。確かにここ三日ばかりは一睡もしていないが、かえって目が冴えている。寝付けもせん」

「安心できるお話が出ていらっしゃらないような……」

不敵な笑みを浮かべたセリーナに、ズィクルが恐縮したように肩を縮める。と、そのやり取りの傍ら、ロズワールの視線がペトラの方に向けられた。

意識的に彼との接触を避けていたペトラは、わずかにその視線に身を硬くして、

「な、なんですか、旦那様」

「そう警戒しないでくれたまえよ。シンプルに、君が一人でいることと、働きすぎていないか心配しているだけさ。フレデリカは?」

「……フレデリカ姉様はずっと忙しくされていたので、今はお休み中です。何度もお願いして、やっと休んでくれました」

ほとんど寝息も立てず、気絶するように眠っているフレデリカを思い出す。

フレデリカはペトラと同じように癒者団の一人として働きながら、必要とあらば獣化して、伝令としても戦場となった要塞の各所を駆け回っていたのだ。その不眠不休の働きぶりは尊敬の一言だが、妹分としては心配でならない。

今休んでいるのも、ペトラの訴えに耳を貸してくれたのではなく、ラムやガーフィールに押し切られてやっとというところだった。

「わたしじゃ、フレデリカ姉様を休ませてもあげられませんでした」

「フレデリカは責任感が強いからねーぇ。決して、ペトラくんを軽視したわけじゃない」

「――っ、そんなこと言われなくてもわかってますっ」

「そうか。そうだろうね。余計なことを言ってすまない。――君は、平気かい?」

「……ちゃんと、陽魔法が効いてますから」

微妙に肩透かしなロズワールの受け答えに、ペトラは眉を顰めてそう答える。

ロズワールから習い、日々、習熟を進めているペトラの魔法技術だが、向いていると教わった陽属性の特性は、対象の力を増したり、元気にする効果が多い。

ペトラの場合、まだ他の人に使うには不安があるが、自分に陽魔法を作用させ、足りない体力や睡眠不足を補ったりするくらいの効果は期待できた。もちろん、体力なんて無限に湧き出てくるわけではないから、どこかで限界が噴き出すはずだが。

「今は、少しでも無理してたいんです。止めますか?」

「――。いいや、止めないよ。誰しも、生きていれば道理や常識を情熱で乗り越えて、無理をしなければならない機会というものはある。ペトラくんにとって今がそのときというのであれば、私はそれを取り上げようとは思わない」

「……やっぱり、旦那様のこと、嫌いです」

片目をつむり、青い方の瞳で自分で見てくるロズワールにペトラは顔を背けた。

許し難い相手なのに、ロズワールはたびたびこうしてペトラの考えを肯定する。それがペトラにおもねるためでなく、実際に彼の信念が言わせている言葉なのもよくない。

それではまるで、ロズワールの本質をペトラが理解できるみたいではないか。

「難儀な主従だ。そうしたものの在り方は、帝国も王国もさほど変わらんな。そう思わないか、ズィクル二将」

「あの歳であれほど聡明なペトラ嬢ともなれば、メイザース辺境伯の教育に熱が入るのも無理からぬこと。真摯さと真摯さが向き合えば、衝突も必然と思います。もちろん、ドラクロイ上級伯のお美しさも、苛烈な生き方で磨かれたものと思いますが」

「やれやれ、やはり帝国の『将』だな。まともな男だと思ったがこれだ。そう私好みの顔を見せて喜ばせてくれるな」

ペトラたちの会話の傍ら、セリーナの発言にズィクルが恭しく一礼する。

帝国の中でも特殊な温度感の持ち主同士の語らいを横目に、ペトラは嘆息する。――ロズワールの本質、それがどうあろうと重要ではない。避けていたロズワールとこうして顔を合わせてしまった以上、ペトラは皿ごと毒を呑む。

そのために、ペトラは頬を引き締め、ロズワールを見上げると、

「旦那様は、スバルをどうするつもりなんですか?」

「ふむ」

「答えてください」

真っ直ぐと、しかし具体性に欠けたペトラの問いかけ。

それを向けられ、ロズワールが小さく吐息する。彼は再び片目をつむり、今度は黄色い方の瞳――ペトラの苦手とする、人間味の薄い光でこちらを見た。

――スバルとロズワール、二人の関係の不自然さはペトラに強く印象づいている。

それは、ペトラの故郷であるアーラム村や、フレデリカとガーフィールの出身地である『聖域』にロズワールが働いた無体――それを、ほとんど全面的にスバルたちが許してしまっているのと、異なる何かがあるとペトラは睨んでいた。

ロズワールの悪事、それに対する恩赦だけ見れば、スバルとエミリア、それにフレデリカといった優しすぎる面々の条件は同じだ。そこに「怒っている」と口には出しているベアトリスとガーフィールが続き、特殊な立ち位置にラムがいて、明確にロズワールを許さない組にペトラとオットーが所属している。

当然だが、ペトラとオットーの二人は、常に緊張感を持ってロズワールと接していた。もちろん波風は立てたくないから、その緊張感も炎で静かに焙るようなものだ。そうして焙られながら、顔色一つ変えないところがロズワールの嫌なところだが。

だが、そうしたペトラやオットーがロズワールに向ける青い炎と、スバルとロズワールとの間に漂っている空気の熱は根底から異なるもののように思えた。

言い方は悪い。認めたくもない。しかし、ペトラは確信してしまっている。

スバルとロズワールの間には、ペトラや他の誰にも入り込めない秘密がある。その共有された秘密が、別種の緊張感を生んでいる原因なのだと。

そして、その秘密がもたらすものは、きっと、おそらく、スバルを不幸にする。

「スバルくんをどうするつもりか、ねーぇ」

ペトラの敵意の眼差しに、ロズワールはわずかに掠れた声でそう呟く。

そこには、いつものような誤魔化しや嘲弄の雰囲気はなかったように思う。ただ、そうした道化た雰囲気がなくとも、ロズワールを迂闊に信用はできない。

そんなペトラの心情を裏付けるように、ロズワールは片目をつむったまま、

「ペトラくんは、私がどうするのが正解だと思うかーぁな?」

「……バカにしてるんですか?」

「違う違う、そんなつもりはないよ。実際、考えあぐねているところでねーぇ。……私は今のスバルくんに対し、どういった態度を取るべきなのか、とね」

「――――」

言いながら、ロズワールは両手を軽く持ち上げ、指先に異なる色の光を灯した。右手に赤を、左手に青を浮かべた彼は、今後の動きを真剣に吟味している。

その赤と青、どちらがどちらに傾くのが、ペトラにとって――否、ペトラの大事な人にとって、いいことになるのかわからない。

わからないなりに、ペトラができることがあるとすれば、一個だけ。

「もしも」

「うん?」

「もしも、これ以上、スバルを苦しませたり、悲しませたりするなら、わたしは絶対に旦那様を許しません。……ううん、絶対に後悔させます」

許さないことは、ロズワールにとって何の痛痒にもならない。そんなことは、もう一年半も彼に仕えてわかり切ったことだった。

だから、この一年半を目一杯思い返し、ペトラはロズワールが一番嫌がることを言う。

そう、何としても後悔させてみせる。そのためには――、

「何が何でも、旦那様のしたいこと、やろうとしてること、邪魔してやるんだから」

「――――」

一拍、ペトラとロズワールの間に空白が生まれた。

頬に力を込めて、ペトラは可愛らしい自分史上、一番険しい顔を作ったつもりだ。そのペトラの直訴を受けて、ロズワールは黙り込んだ。

その沈黙の間の思案に、ペトラの懸命な険しい顔がどれだけ寄与したかは不明だが。

「……それは確かに困るねーぇ。君は、私よりよほど愛されていそうだ」

「……愛されてるって、何にですか」

「抗うと私が決めて、これまで一度も勝てた試しのない、そういう奇妙な力にだよ」

肩をすくめ、ロズワールがまたしてもペトラにはわからないことを言った。だが、そう呟く彼の横顔に過ったものが、単なる戯言とペトラに思わせなかった。

確かに、ロズワールは無力感を、勝てないと痛感する何かを相手にしている。そんなものに愛されていると言われても、ペトラにはピンとこない。

ペトラはただ、自分の愛する人たちに愛されたいだけだ。

そして、自分の愛する人たちが、できるだけ笑顔で、幸せであればいいと思う。

だから――、

「エミリア姉様も、スバルも、笑っててほしいのに」

きゅっと、自分の胸に手を当てて、ペトラは祈るようにそうこぼす。

この祈りの全部が、自分の大好きな人たちの上に雲のようにかかって、日差しのように降り注ぐ大変なものから守り抜いてほしいと、切に願いながら。

――その、ペトラとロズワールのやり取りの傍ら、ピリピリとした緊張感のみなぎっている主従を眺めながら、セリーナはズィクルに笑いかける。

「どうだ。なかなか王国の人間も見所があるだろう? 実に複雑怪奇で、私好みだ」

「……そう微笑まれる上級伯はお美しいですが、よい趣味とは言い難いですな」