軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七章55 『魔都狂騒曲』

――魔都『カオスフレーム』の中心、紅瑠璃城の倒壊と影の氾濫。

それが都市を揺るがす轟音の正体であり、居合わせたものが目にした悪夢の光景だ。

一つの石の中で赤と青が踊るように入り混じる紅瑠璃、その美しい貴石を積み上げて作られた麗しの城が、まるで砂の城のようにいとも容易く砕かれる。

それは魔都を知るもの、魔都の住人にとっては天が落ちてくるのに等しい衝撃だ。

あってはならないことが起こったと、そう夢と現の区別がつかなくなるほどに――そしてそれは、魔都への馴染みが薄いものも例外ではなかった。

「――――」

魔都に用意された、外部からの訪問者用の旅宿の一室にも激震が広がる。

あるものは凝然と目を見張り、あるものは強い警戒に全身を強張らせ、あるものは悲鳴を上げて尻餅をつき、あるものは動揺に寄り添うことで己を保とうとする。

だが、反応こそ異なれど、彼らを襲ったものの正体は等しく『脅威』だ。

それに囚われ、本能的な恐怖に搦め捕られる間にも取り返しのつかない事態は――、

「「――全員、静まれ!!」」

瞬間、脅威に硬直する時間を切り裂いたのは、鋭く響く『重なった』声だった。

室内に響いた二つの声――同質のそれが鼓膜を叩き、その向こうの思考停止に陥りかける脳までもを奮い起こす。

弾かれたように顔を上げたものたちの前で、鋭い声を発したのは両者、黒髪の人物だ。

片や素顔、片や鬼面の二人の男は、窓の外に望むことのできる圧倒的な崩壊の光景に、それぞれ自らの腕を伸ばし、

「止まるな! あれへの対処が遅れれば全員が命を落とすことになる」

「城を呑み込み、なお空を喰らい尽くさんとする大喰らいだ。ここで余らが手を打たねば、瞬く間に犠牲が増えよう!」

「――――」

「「――カフマ・イルルクス!」」

辿る思考を同じとするように、二人の男の視線が一人に集まる。

注視を向けられた褐色の肌の男――カフマ・イルルクスは瞠目し、どちらへ向き直るか混乱の只中へ叩き込まれた。

しかし、その混乱も長続きはしない。何故なら――、

「「あの影の足を止めよ! 貴様の停滞は、帝国民の命と引き換えと知れ!」」

「――はっ!」

起こすべき行動、やるべき明快な目的を示された瞬間、カフマの瞳の迷いが晴れる。

カフマは胸に拳を当てて一礼し、

「御身の傍を離れます。どうか、陽剣の加護ぞあらんことを!」

「貴様らの働きが余の加護となる。死力を尽くせ」

「存分に――!」

力強くそう応じ、カフマが真っ直ぐに窓へと向かう。

その勢いのまま跳躍し、カフマは伸ばした腕で窓を切り裂くと、ガラスの破片を撒き散らしながら外へ飛び出した。直後、カフマの背中が大きく膨らみ、脱ぎ捨てるマントの奥から六枚の透明な翅が広がった。

羽虫を思わせる翅を羽ばたかせ、カフマの姿が魔都の空を切り裂いて飛んでゆく。

進路は真っ直ぐ、溢れ出す影に倒壊させられる紅瑠璃城へ向かってだ。

「何人連れてきた」

そのカフマの飛翔を尻目に、鬼面の男――アベルが鋭い問いを発する。問いの矛先を向けられたのは、カフマの一礼を受けた黒髪の美丈夫、ヴィンセントだ。

ヴォラキア帝国の皇帝の座にある男は、そのアベルの問いかけに微かに目を細め、

「供回りは見ての通りだ。カフマ・イルルクスに不在のオルバルト・ダンクルケン。もう一人はいても大した役に立たぬ」

「伏せた手駒はなしか。身軽さが仇になったな」

「その責を余に問うのは不条理が過ぎようよ」

自らの手札を躊躇いなく明かしたヴィンセントに、アベルがこぼした心無い一言。それを受けたヴィンセントが苦言を呈するが、アベルはそれに取り合わない。

顎に手をやり、鬼面の下部を指でなぞったアベルは数秒だけ思案し、ちらとその視線を室内の他の面々――脅威に動揺を隠せないものたちを見る。

その眼差しに声はなくとも反応できたのは、どちらも幼い容姿の二人の少女だ。

一人は金髪に青い目をしたミディアム・オコーネル、もう一人はキモノ姿で丸い目を震わせる鹿人のタンザ、どちらもこの状況においては決定打を持たない。

唯一、何かしらの手札となり得る可能性があるのは――、

「あ、ああ……なんで、なんで、なんでこんなときに……っ」

「アルちん……」

静かなアベルの眼差しに、欠片も気付けていない怯えた声がある。

右腕一本で頭を抱え、窓の外の光景を恐れながら、しかし目を離すこともできないジレンマに苛まれているのは、乱雑に巻いたボロ切れで顔を隠した黒髪の少年だ。

アベルの連れている面々の中、ある意味で最も底を見せていないのがこの少年だが、演技とも思えないこの怯えようでは、方策に組み入れるのも躊躇われた。

心情に配慮してのことではない。――純粋に、役に立たないという判断で。

「なれば、取るべき手立ては多くはあるまい」

思案するアベルの横顔に、隣に並んだヴィンセントの言葉が突き刺さる。

横並びになり、窓の外を並んで眺める二人の男――否、二人の皇帝というべきか。

その、一瞬浮かんだ感傷を下らぬことと切り捨て、アベルは息を吐く。

ヴィンセントの言う通り、取れる手立ては多くない。

そして、同じ結論に達しているだろうヴィンセントに応じるように一言――、

「――ヨルナ・ミシグレと合流する。奴の力が必要だ」

△▼△▼△▼△

状況の変化を嗅ぎ取って、タリッタは渇いた己の唇を舌で湿らせた。

空気の変化、追っ手の香り、向けられる殺気や敵意の肌感、いずれも直前までと違ったものを訴えてきており、その判断に一瞬だけ思考を走らせる。

それがよいものか悪いものか、いったいどちらであるのかと。

しかし――、

「――どちらでモ、関係ありませン」

もたらされる結果が同じなら、タリッタは深く悩まない。

元々、頭の出来が悪い自覚はある。これが姉のミゼルダなら、頭の造りが同じぐらいであったとしても、本能的な直感というもので正解を引き当ててくれるだろう。

だが、タリッタに姉と同じ嗅覚はない。たぶん、才覚もない。ないない尽くしだ。

時間をかけて悩んでも、結局正解かどうかを延々と迷い続けることになる。

だから、迷わないことにした。結果が出てから、その是非を延々と悩めばいい。

故に、タリッタは追っ手の空気が変わろうと、対処を変えなかった。

「が、ぐ……っ」

「外せませン。たとエ、どれだけ力があったとしてモ」

タリッタの上着に気道を塞がれ、目を血走らせてもがく男を締め上げる。

右目を燃やした羊人の男は拘束を逃れようと必死だが、脱いだ上着の袖を使って首を締め上げるタリッタは、相手の腕の腱を切って行動を阻害した。

正直、急所を抉っても立ち上がってくる追っ手の頑健さには大いに苦しめられたが。

「対処法がわかれバ、私でもどうにかできましタ」

「――――」

やがて、男の喘ぐ声が聞こえなくなり、だらりと体の力が抜ける。それを見計らい、タリッタは男の首から上着を外し、倒れる体を道の端へと寄せておいた。

そうして吐息をこぼしたタリッタの背後、彼女に絞め落とされた追っ手の体が点々と、街並みの壁に沿うようにして並べられている。

打撃やナイフの攻撃が効果的でないとわかり、絞め技が効果があるとわかってからはそれ一辺倒での撃退に終始した。

幸い、追っ手たちは尋常でない腕力や体力の持ち主ではあったが、その力を効率的に発揮する技術については門外漢だった様子だ。

おかげでタリッタの技が通じ、追っ手の穏当な無力化を続けることができた。

――死なせてもいいなら、もっと話は手っ取り早かったのだが。

『――あまり殺すな』

その一言が頭を過り、タリッタはかなりの苦戦を強いられることとなった。

それは宿から皆を逃がすための囮となる際、別れる直前にアベルから告げられた言葉だ。

置かれた状況を思えば、無茶なことを言うなと反論すべき場面だったかもしれない。だが、アベルほどの目の持ち主が、できもしない指示を出すだろうか。

あるいは彼は、タリッタならばできると、そう考えて指示を出したのだろうか。

だとしたらアベルは、タリッタの技量を見抜いていたということだ。

「――――」

いったい、アベルにはどこまで物事が見えているのだろうか。

もちろん、スバルやミディアム、アルを襲った秘術を見れば、アベルがあらゆる事態を完璧に見越して動ける人間でないことはわかる。

そんなことができるなら、それはもはや人の所業ではなく、常外の存在の所業だ。

踏み込んではならない理の領域、それを侵せる人間とは思わない。

しかし、その手前に至れる人間ならばと、そう思わざるを得ない思いもあった。

シュドラクの一人として、如何なる獲物も仕留める技量を有するタリッタ。

そのタリッタが、獣には通用しないはずの絞め技を習得している事実、そしてその理由までも、アベルなら知り得ているのではないかと――。

「――ありゃりゃ、こーれはまたなかなか壮観ですねえ」

「――ッ」

思案し、立ち止まるタリッタの意識の隙間に滑り込んでくる声。

それに唐突に現実へと引き戻され、タリッタは手にした短刀を構えて振り返った。そのまま、気配もなく自分の後ろに迫った刺客へと一撃を叩き込まんと――、

「わわわ、待った待った! 待ちましょう! それはちょーっと早合点ですって」

「……あなたハ?」

「……あ、大丈夫? 落ち着きました? こーれ、腕下ろしても平気ですかね?」

相手の手足を使用不能にする寸前、タリッタはとっさにナイフを振るう手を止めた。

彼女の眼前、頭を抱えて不格好に身を守ろうとしたのは、フード付きの青いローブを纏った灰色髪の優男だ。

端正な顔立ちをした男だが、その目に追っ手に共通した炎は点っておらず、何よりもその立ち振る舞いの素人臭さが危険を感じさせない。

ただし、タリッタの警戒を潜り、背後に立った事実は消えないのだが。

「――――」

「あーらら、だいぶ不信感買っちゃいましたかね。ぼかぁ、たまたまここを通りがかっただけの一般人なんですが……」

「……一般人ハ、これを見て平然としてはいられないと思いまス」

無害を自称する優男、彼への警戒を解けない理由がまた一個増える。

壁にずらりと並べられた追っ手の屍――少なくとも、近付いて生死を確認しない限り、死んでいると思っても不思議でないものを目にして、それでも彼は平然としている。

心が死んでいるのでない限り、場慣れしている以外の答えが浮かばない。

そんなタリッタの警戒の眼差しに、優男は照れ笑いのような笑みを浮かべる。

一瞬、整った顔立ちの男の笑顔に気を取られそうになるが、美形への反応より危ういものへの警戒が勝った。優男風の美形なら、フロップ一人で十分だ。

――今、彼のことを考えている場合ではないのだが。

「いーやいや、参りましたね。確かに、故郷で見慣れた光景ですとは言いませんよ。なかなか壮観とお伝えした通りです。――ねえ、タリッタさん」

「――ッ」

「あ、抉らないで抉らないで! ぼかぁ、怪しいけど敵じゃありませんから!」

直前までの、一瞬だけ緩みかけた警戒心が一気に引き締まった。

目の前の優男が平然と、まるで長年の知り合いみたいな態度でタリッタの名を呼んだ。無論、タリッタに目の前の男との面識などない。

ここにはタリッタの名前を呼ぶような知人もいないし、知り得る情報ではないはずだ。

唯一、タリッタと別れたアベルたちが、彼に情報を与えた可能性もあるが――、

「あなたハ、私の家族と会ったのですカ?」

「――? ご家族でいらしてるんですか? ふーむ、なかなかシュドラクの方々は森からお出にならないと聞いてるんですが、族長の方針転換ですかねえ?」

「私が何故、シュドラクだト……!」

「あーれれ、言えば言うほどって感じだ。ぼかぁ、こればっかしだなぁ」

苦笑し、タリッタへの親しみを深めていくような優男の態度だが、それと対照的にタリッタは彼への警戒と、その不気味さへの嫌悪感を強めていった。

敵意、らしきものを示してくるわけではない。

だが、募らせてくる不気味さは、ここで排除するべきなのではないかという危険な印象をゆっくりゆっくりとタリッタへ植え付けてくる。

そしてタリッタには、その植えられた不審の芽がいったいどう芽吹くのか、それがどんな蕾を付け、花開くのか心当たりがあった。

何故なら――、

「――シュドラクの穢れ」

「――ぁ」

不意に、優男の唇が紡いだ言葉を聞いて、タリッタの意識が白く染まった。

「――――」

どうして、この男がその言葉を口にしたのか。――否、何故知っているのか。

だって以前、タリッタにその言葉を口にした男はすでに――、

「天命、ですよ。シュドラクの穢れとなった、タリッタさん」

「テン、メイ……?」

「星の巡りとも、導きとも言えるそれのことです。人には人の定めがあるってところですかーね。ぼかぁ、それを詠むのが仕事でして」

呆然となるタリッタにそう告げて、優男は「いーや」と首を横に振った。

それから自分の胸に手をやり、その双眸でタリッタを真っ直ぐに射抜くと、

「ぼくたちの天命、というべきでしょうかね」

「――――」

たち、と複数形で語られた言葉に、タリッタは喉を鳴らして息を呑んだ。

その音の大きさは、まるで世界が丸々震えたような錯覚を伴うものだった。――否、タリッタの呑んだ息は世界を震わせていない。

しかし、事実として世界は震えていた。

それは――、

「おーやまぁ」

のんびりと、どこか呑気な印象さえ与える優男の吐息。

だが、起こった事態はそんな彼の態度では表し切れない極大の変事だった。

――遠く、タリッタと優男たちから離れた魔都の中央、そこに聳え立った美しき紅瑠璃城、その建物が凄まじい勢いで倒壊し、赤と青の光が黒い闇に覆われる。

比喩的な表現ではなく、本当に黒い闇が紅瑠璃城を覆っていくのだ。

美しいものを汚いものが、輝かしいものを呪わしいものが、塗り潰していくように。

「あーらら、なんという……これはちょっと、詠んでないとこかもですねえ」

「あなたハ――」

手で庇を作りながら、倒壊する城と溢れ出る闇を眺めている優男。

平然としているこの男こそが、あの異常事態の原因なのではないかとさえ疑える。だが、そんなタリッタの疑念を察したように彼は肩をすくめ、

「天命云々の話をした直後でバツが悪いですが、あれとぼかぁ無関係ですよ。そもそも、あれってルグニカ王国の問題でしょう。ぼかぁ、担当外です」

「担当外、ルグニカ王国……?」

「もしかしてあの子、『星詠み』の自覚がないんですかね? だとしたら、閣下もなかなか大胆な賭けに出られる……手札的に仕方ないかも?」

「わけのわからないことヲ……! 何か知っているなラ!」

答えろと、そう脅しつけるつもりでタリッタは踏み込み、優男の首を掴んだ。そのまま男の細い体を壁に押し付け、白い首に手にした刃を宛がってみせる。

タリッタが手首をひねれば、男の首から直後に大量の血が噴き出すだろう。

冷たい刃の感触は、優男にその未来を十分に予感させたはずだ。

「たぶん、ぼくの生死は事態の収拾にあんまり関係ないと思うんですが……」

「――っ」

「あなたの方は、ここで時間を取られている場合じゃないと思いますよ。星を詠んだわけじゃーないので、あくまでぼくの勘なんですけど」

それなのに、優男は平然と、ナイフの感触を無視してタリッタの目を見つめる。

これまでで最も、この男に対する不快感が高まった瞬間だった。言葉にできるような明瞭な理由もなしに、このまま男の首を掻き切ってしまいたい衝動が弾ける。

しかし、その暴力的な衝動に身を任せる寸前――、

「――ぼくを殺しても事態は好転しません。前もそうだったでしょ?」

――その一言が、タリッタに握ったナイフを振り切らせなかった。

「おっとっと!」

「消えてくださイ! 今すぐニ……!」

歯を食い縛り、タリッタは襟首を掴んだ優男の体を通りへ投げ出す。

男は長い足で何とか転ぶのを耐えると、乱暴に扱われた首を手で撫でながら、「いいんですか?」とタリッタの顔を窺う。

「文字通り、自分の首を絞めるようでなんですけど……こうしてぼくと出くわす機会、もうあなたにはないかもしれませんよ」

「それならそれが一番でス。あなたの顔を見ているト、まるデ……」

「――――」

「まるデ、何度も見た悪夢と向き合わせる気分ですかラ……!」

呪うような心地で、タリッタは優男を追い払うように手を振った。

その仕草に優男は嘆息し、遠目に崩壊する城の方を眺めながら、

「どうやら、ぼくと違ってあなたには仕事がありそうだ。そーれがあの影を鎮めるための切り札になるかもしれません」

「私ガ……? 私にそんな力ハ……」

「――天命はすでに下っている。知っていますね、シュドラクの穢れ」

「――――」

「果たすも果たさぬも、あなたの自由だ。天命の下らぬ身からすれば、道しるべを辿れるあなたが羨ましくてなりませんけど、ね」

そう言い残し、優男は頭からフードを被ると、タリッタに背を向けて走り出した。

速い、とは言えない速度だ。追いつこうと思えばすぐにでも追いつけるが、タリッタには優男を追おうという気持ちが湧かなかった。

もう関わり合いになりたくないと、心底思ったこともそうだ。

だが、何よりも一番大きな理由は、彼が最後に残した言葉――、

「――天命ハ、下っていル」

心当たりが、なければよかった。だが、心当たりはあった。

そしてその心当たりは延々と、ここ数日のタリッタを延々と悩ませるものだった。

行動する前に悩みたくない。

うだうだと、答えの出ない懊悩を、抱えていたくなど、ないのに。

「タリッタちゃん!!」

「――っ、ミディアム?」

ぎゅっと己の肩を抱いて、俯いていたタリッタを耳に馴染んだ声が呼んだ。

慌てて振り返れば、タリッタの方に手を振りながら走ってくる少女――長身を縮められてしまったミディアムが、こちらに向かってくるところだった。

「よかったー! すぐ見つかったし、タリッタちゃんが無事で!」

「そちらこソ、無事でよかったでス。……アベルやスバルたちは無事ですカ? それニ、あれはいったイ……」

駆け寄ってくるミディアムを正面に、タリッタは矢継ぎ早に質問を投げる。

彼女が一人でいることも、こうしてタリッタを探していたことも予想外だ。もちろん、紅瑠璃城が倒壊するような事態、オルバルトとの『かくれんぼ』が続いているというのもおかしな話ではあったが、中断を話し合えたとも思えない。

そんなタリッタの疑問に、ミディアムはわずかに息を弾ませながら、

「アベルちんとアルちんは無事! スバルちんとルイちゃんははぐれてる! あと、あのお城から出てきた影を何とかしなくちゃいけなくて、タリッタちゃんもきて!」

「スバルとルイガ? それニ、私はどこヘ……」

「今から、ヨルナちゃんと一緒にあの影を止めるの! タリッタちゃんの力もいるって、そうアベルちんが言ってたから!」

「――――」

目を見張り、タリッタは聞かされた言葉に驚きを禁じ得ない。

視界の端、優男とのやり取りに動揺するタリッタさえも、現実を意識せざるを得ないほどに非常識な被害を拡大しようとしている黒い影。

あれを止めることも、挑むことも、どちらもタリッタにはない発想で。

その上、今、アベルに呼ばれていると聞かされるなど――、

「タリッタちゃん、ケガしてない!? まだいける? あたしも頑張るから、一緒に頑張ってくれる!?」

そのタリッタの戸惑いを、ミディアムの迷いのない言葉が薙ぎ払う。

たとえ背丈が縮もうと、彼女の持っている真っ直ぐな心根は縮みも曲がりもしない。それに手を引かれるように、タリッタは静かに頷いて、

「わかリ、ましタ。――すぐに向かいましょウ」

「うん! ありがとう!」

大きく頷いたミディアムの安堵に、タリッタは胸の奥で痛みを覚えた。

延々と、長々と、タリッタを苦しませ続けている懊悩。戦いに没頭することで忘れられたそれが、大きな戦いを前に存在を主張し、決断の時を迫ってくる。

「――天命」

消えた優男にかけられた言葉を、タリッタもまた口の中だけで呟いた。

まるで、名前を呼ばれたことを喜ぶように、胸の奥で懊悩が弾んだ気がした。

△▼△▼△▼△

――時は、紅瑠璃城が大いなる闇の氾濫に倒壊した瞬間へ舞い戻る。

「童――」

「うあう!!」

間一髪、躊躇なく前へ飛び出そうとするルイと呼ばれた少女を引き寄せる。

そのまま、全身の神経が訴えかける本能的な脅威に従い、天守閣の瓦が爆ぜることも意識せず、強い踏み切りを以て後ろへ跳んだ。

厚底の踵に踏み割られ、瓦の受けた衝撃が周囲の瓦にも伝播、破壊が広がる。

しかし、そうして瓦が割れたことなど、直後の出来事の前には些細すぎることだった。

「――――」

ドッと、溢れ返る影が、闇が、漆黒が天守閣を呑み込み、爆ぜた瓦が消え失せる。

――否、呑まれたのは天守閣だけではない。

紅瑠璃城の天守閣が、上層が中層が、濁流の如く氾濫する黒に呑まれ、そのまま世界から消失していくのをヨルナの瞳は確かに捉えた。

あれは、呑まれてはならない暗い暗い闇だ。

明るく照らすことのできない、取り込まれれば救われる術などない、あらゆる希望を絶望で上塗りして見えなくしてしまう、本物の暗闇。

本能的に察する。――あれは、あってはならないモノなのだと。

「うー!」

抱きしめる腕の中、もがく少女を拘束し、ヨルナは黒く染まる天守閣に目を走らせる。

あの黒い影が溢れ出した瞬間、その中心にいた黒髪の少年と、その少年に手で触れていたオルバルトの姿が見当たらない。

あの刹那、オルバルトのとっさに引いた腕が消滅するのが見えた。

生に貪欲で、あらゆる危機察知に優れたオルバルトですら、自らの腕の犠牲を避けられないほどあれは圧倒的なモノだった。

直後、ルイを抱いて跳ぶのを優先したため、オルバルトの生死は不明だ。

あの怪老ならば死ぬはずもないと思う反面、あの漆黒を見ながら楽観的な考えを吐き出せるのかと、そう冷めた声が自分の心中に問う声があった。

そして、オルバルトの生死よりもヨルナの思考に歪を生むのが――、

「童……っ」

オルバルトの腕を呑んだ黒い影、その中心にいたと思しき少年の安否だ。

ヨルナの見立てでは、あの少年には特別秀でた能力は何もなかった。状況判断に優れ、手札を切る瞬間を間違わない。

強いて言うなら、それがオルバルトとの対決で勝利を手繰り寄せた要因。しかし、それは少年の決断力を称賛こそすれ、優れた能力には当たらない。

だから、あの瞬間、少年が逃げおおせた可能性は皆無と言わざるを得なかった。

もっとも、それはあの少年があくまで被害者であった場合の話。

「もしも、これがあの童の仕業でありんしたら……」

あの膨大な黒い闇のどこかに、少年が潜んでいることになるだろうか。

これが少年の意図したことと、そう思いたくない自分がいることをヨルナは認める。それを認めつつも、下さなくてはならない判断がある。

それこそが、魔都の主としてやらなければならない使命、負わなければならない立場、選ばなくてはならない愛の対象――、

「――っ」

それを思った瞬間、ヨルナの眼前で闇に変化が生じた。

紅瑠璃城の半分を呑み込み、そのまま下層と城壁をも闇に取り込まんとする影、その天守閣を担当した部分が蠢いて、中空にあるヨルナたちへ『手』を伸ばしたのだ。

「――――」

伸びてくるそれは文字通り、他にたとえようもないほど『手』であった。

黒い手が、ヨルナと、彼女が抱いたルイ目掛けて伸びてくる。それも一本や二本ではなく、まとめて十も二十も伸びてくるのだから圧巻だ。

日の光を受けて長く伸びた影絵、そんな様相を呈しながら、伸びてくる影に牧歌的な穏やかさを感じないのは、表情がないはずの腕に感情が溢れているから。

膨大な量の影が、黒い腕が訴えかけてくる感情は一つ、『餓え』だ。

単純な、腹を空かしたという意味の『餓え』ではない。

ありとあらゆるモノを取り込まんと欲する、底知れない『餓え』を意味するものだ。

「童、振り回しんす。舌を噛まぬよう気を付けなんし!」

「う、あう――ッ」

伸びてくる影を回避するべく、中空にあるヨルナは非常手段に出る。

影の正体はわからず、オルバルトの被害を目の当たりにした以上、触れることが命取りになると意識的に設定、全てを回避する以外に手立てがない。

故にヨルナは目を見開き、先の跳躍に巻き込まれて爆ぜた瓦を引き寄せ、自分の足場とすることで魔都の空に逃げ道を作った。

軽快な音を立てて、飛んでくる瓦を足場にヨルナの姿が宙を高く昇っていく。

牽制の意味も込めて瓦の一枚を影の腕に撃ち込んでみるも、瓦は影を貫くこともできず、そのまま触れた箇所を消失して呑まれ、虚空へ消えた。

触れてはならない推測はそのままに、ヨルナは高空への足場を辿る。

連続するヨルナの瓦登りに、伸びてくる影の腕が追いつけなくなれば儲けもの。あるいは影の射程が読めれば、そこから対策することもできる。

とはいえ――、

「やられっ放しというのも、何とも腹立たしくありんす」

追いかけ回されることが、ではない。

もちろんそれも屈辱ではあるが、一番の被害はなんと言っても紅瑠璃城だ。

紅瑠璃は美しく、何よりも希少な貴石だ。

それで城を建てようなどと、考えるだけで馬鹿馬鹿しいと言わざるを得ない代物。それで城が建ったのは、ヨルナの財力や権力の大きさ故ではない。

そもそも、紅瑠璃城を建てようと考えたのはヨルナではなかった。

赤と青の踊る麗しの城、紅瑠璃城を造り上げたのは魔都の住民たちだ。

彼らは魔都の支配者であるヨルナの居城がみすぼらしくあってはならないと、それぞれで話し合って貴石を集め、あの美しい城を築き上げた。

希少な貴石だ。扱いも難しく、どれだけの苦難が城を建てたか余人には想像もできまい。それはヨルナも同じで、苦難を想像したことなどない。

想像するまでもなく、ヨルナは城が建つのを一部始終見ていた。

だから――、

「わっちの愛を呑みんしたな、この狼藉者――!!」

城を呑み込む影に向け、ヨルナがその細く長い指を伸ばした。

そこから何かが発されるわけでも、必要な動作でもなかった。ただ、これが自分の怒りの現れだと、そう思い知れと影に向かって突き付けたかっただけだ。

――刹那、紅瑠璃城を呑み込んだ巨大な影が、内側から猛烈な衝撃に撃ち抜かれる。

「――――」

影に実体があるのか、ましてや意思があるのかヨルナにも知りようがない。

しかし、確かな痛打となったと、そう確信できる手応えがヨルナにはあった。

影が呑み込んだのは紅瑠璃城――その城壁を形作る石の一個に至るまで、全てに住民たちがヨルナへの愛を込めた代物だ。

それをただの城だと、何故思えよう。

何故、愛さずいられよう。

爆ぜる城の衝撃波が、内側から黒い闇の勢いを猛然と削いだ。

その証拠に、ヨルナに追い縋らんとした黒い腕がことごとく霧散し、宙へ逃れるヨルナに追いつくものがいなくなる。

腕の中、身じろぎするルイも、ヨルナの愛の炸裂に目を丸くして驚いている。

しかし、称賛と言い換えてもいい少女の反応に、ヨルナは喜ぶことができない。

「所詮は城、作り直せばいいと言うものもありんしょう。で、ありんすが」

「うー?」

「新たな城を建てようと、あの日々を愛した城はあの城のみ……潰える愛を呪わしく思うのは、わっちの想いが至らぬせいでありんしょうか」

影に半分以上を呑み込まれ、もはや原型をとどめていない紅瑠璃城を見下ろし、ヨルナの胸は痛痒さに打たれる。

しかし、感傷に浸っている暇はヨルナにはない。

追い縋る影の腕は消えようと、あの闇の大元が消え去ったわけではないのだ。

ましてや――、

「わっちの白い肌が、あれの脅威は消えていないと言うでありんす」

呑んだ紅瑠璃城が爆ぜた衝撃は、そのまま城一つをぶつけられるような威力だったことは相違ない。にも拘らず、それを受けて勢いを減衰しながらも、黒い闇から感じる圧迫感は微塵も揺らいでいない。

影は健在、ならば当然、その脅威も変わらず健在ということだ。

つまり、触れられない条件は変わらないまま、なんとしてもあの漆黒を打ち払う術を構築し、あるいは見つけ出さなくては――、

「――ヨルナ様ぁ!」

そうして神経を昂らせるヨルナの鼓膜を、地上からの声が遠くから打った。

見れば、ヨルナを呼ぶのは倒壊した城へ集まろうとする魔都の住民たちだ。彼らは城の崩壊に巻き込まれ、瓦礫から這い出す城兵に手を貸し、救出を手伝っている。

それはあまりにも、黒い影からすれば垂涎の獲物に見えたことだろう。

「主ら、逃げなんし――!」

沸き立つ危険信号に促され、ヨルナが眼下の住人たちに退避を呼びかける。

しかし、彼らの下へ飛び込むには高く空へ上がりすぎた。距離が遠く、手が届かない。そしてヨルナの抱いた危機意識を、彼ら全員に抱けというのも無理な話。

――結果、ヨルナの眼下で、魔都の主である彼女を案じ、城へ集まってきた住民たちへと溢れ出る影が押し寄せるのをヨルナには止められない。

それが――、

「――容易くさせると思うな!!」

立ち尽くす住民たち、その一人一人へ伸びた黒い影の腕、それが永遠の虚空へと彼らを呑み込む寸前、横合いから彼らの体がかっさらわれた。

それを果たしたのは、遠方から住民たちの下へ届いた深緑色の茨だった。

ヨルナも目にしたことのある茨、猛烈な勢いで伸びるそれが影より早く、住民たちの体を棘に引っかけて外へと逃がした。

それをやってのけられるのは、奇々怪々な生態の持ち主が揃った魔都にあっても、ヨルナの思い当たる人物は一人だけ。

「カフマ・イルルクス、皇帝閣下の命にて助太刀する――!」

伸ばした両腕から茨を生やし、その背の透明な翅を羽ばたかせる男――カフマ・イルルクスが事態の中心に現れ、ヨルナは目を見張った。

その珍妙な姿にもそうだが、彼がヨルナの住民たちを守ったことも驚きだったのだ。

過去、ヨルナの謀反を鎮圧する名分で、皇帝のヴィンセントはカオスフレームを制圧せんと軍を差し向けたこともある。

カフマはその軍勢の中、カオスフレームで暴れ回った一人だったのだ。

それが、ヨルナの住民を守る行動をするというのは――、

「たとえ誰に仕えていようと、等しく帝国臣民なれば」

「――――」

「ヨルナ一将! 貴公と考えは相容れないとわかっているが、これを放置することはあってはならない! 協力させていただく!」

ヨルナの注視にそう答え、羽ばたくカフマが猛然と空を飛び回る。

自在に宙を舞い、紅瑠璃城を取り込む影の注意を自らに引きつけるカフマは、その機動力と制圧力を駆使して時間を稼いでくれるつもりの様子だ。

問題は、その稼いだ時間を使ってどうするか、だが。

「う! あーうー!」

「童?」

「う!」

直後の行動選択に思案するヨルナ、その胸に抱かれるルイがまた暴れる。が、その暴れ方は先ほどまでの、破れかぶれの衝動的なものではなかった。

少女はヨルナの腕の中で身を回し、地上の一点を指差して唸っている。

そのルイの指差した先に目をやり、ヨルナは彼女が何を言わんとしていたのかを察した。

そして――、

「カフマ二将、しばし主さんに場を預けるでありんす」

「それが必要ならば、心得た!」

「それと……」

「なんだろうか!」

伸びてくる影を旋回しながら回避し、強敵との対峙に集中したいだろうカフマがヨルナの言葉にわずかに声を荒らげる。

その邪魔をするつもりはないまでも、伝えそびれては事だとヨルナは考え、

「先の、わっちの子らを守ってくれたこと、感謝するでありんす」

「――。『将』として、当然のことをしたまでだ!」

ヨルナの感謝にわずかに戸惑い、しかしカフマはそう答えた。

そのまま自らの役目に戻り、必要な時間を稼ぎ出す彼の評価をヨルナは改める。

堅物で融通の利かない人物、その印象は覆らないものの、その一念も貫き通すならいっそ美徳だ。状況と事情が許せば、彼も愛せる一人だろう。

もっとも、それでもヨルナの一番は永遠に覆らないが――。

「下に降りんす。しっかり掴まっていなんし」

ぎゅっと、しがみついてくるルイの握力を返事と受け取り、ヨルナは宙に浮かべた建物の残骸、剥がれた地面、果ては土くれまでもを足場に、目的の場所へ。

途中、状況を知りたがる住民たちに、とにかく紅瑠璃城――否、城の跡地から離れるよう指示をしながら、その足が向かうのは城を遠方へ置いた家屋の上だ。

そこで、悠然とヨルナの到着を待っていたのは――、

「てっきり、皇帝閣下がくると思っていたでありんすが」

「ふん」

腕を組み、そこに堂々と立っていたのは顔を鬼面で覆った黒髪の男だった。

その男の目の前にヨルナが着地すると、待ってましたとばかりに腕を離れ、ルイがその男の下へと駆け寄っていく。

そして、ルイは男の腕を掴むと、長い金髪を躍らせながら城の方を指差し、

「うあう!」

「皆まで言わずともわかっている。そも、貴様の処遇を巡って、あれとは意見を違えた。よくも俺の前に顔を出せたものだな」

「うー! う!」

「俺に従うつもりがあるのか? ならば、数に加えるとする」

腕を引っ張られながら、男はルイの訴えに淡々とそう応じる。彼の答えにルイはじれったそうな顔をしたが、やがて仕方なさそうに彼の腕を放った。

それでも駆け出していかないのは、少女なりに考えてのことなのだろう。

――あの黒い影に呑まれた少年を、なんとしても取り戻さんと。

「ヨルナ・ミシグレ、事情はわかっているな。あれは放置できぬ大災だ」

「同感、でありんす。触れるだけで全てを無に帰す漆黒の闇、魔都の主として捨て置く選択肢はありんせん。まして、あれはわっちの城を飲み干しんした。――まさか、あのようなことが起こると知っておりんしたか?」

「何かあるとは考えていた。何があるかまでは、俺の推測の外側だ」

「――――」

目を細め、ヨルナは目の前の男の真意を測ろうとする。

だが、男の心中は鬼面の裏に隠れ、見通そうにも見通せない。もっとも、仮に仮面がなかったとしても、その心の内を見透かすことはできなかっただろう。

誰にも自分の考えを、心中を、思惑を悟らせない孤高の存在――それこそが、この神聖ヴォラキア帝国七十七代皇帝の在り方。

すなわち――、

「――閣下」

「不用意に俺をそう呼ぶな。親書の望みを破り捨てられたくなくばな」

「それは失礼を。……いったい、どこでわっちの望みを知りんした」

「確証はなかった。貴様が、俺からの使者を無事に帰すまでは」

その答えを聞いて、ヨルナは目の前の男の考え方に感服し、同時に呆れもした。

昨日の使者との接見、あそこから使者が無事に戻るかどうかで、自分の考えが正しいかどうかも測るつもりだったというわけだ。

その点、まんまと彼の掌の上で踊ってしまったと、ヨルナも苦い思いがある。

だが、それ以上に――、

「使者の子らに、閣下は一度は叱られるべきでありんしょう」

「それも、全ては事を収めてからだ。ヨルナ・ミシグレ、俺の指示に従え」

「――。それが最善なら、わっちも従う他にありんせん」

高圧的な男の物言いに、しかし、躊躇いと抵抗は刹那のものだった。

ヨルナには守るべきものがある。魔都カオスフレームとその住人たちだ。それを守るために必要なのは、この事態を正しく収める能力の持ち主。

戦う力という意味ではなく、治める力というべきものだ。

ヨルナにも、その力の自負はある。だが、比べる相手が悪い。

誰が、この世界で最も大きな国土を持っている大帝国、それを支配し、治めるような男との力比べに敵うだろうか。

「それで、どうするつもりでありんすか」

魔都を守るためならば、どんな策にも乗らんとする覚悟でヨルナは問いかける。

いつの間にか隣に並んだルイも、ヨルナの意思に賛同するように目を光らせていた。

そんなヨルナとルイ、二人の視線を受け止め、男――否、帝国の支配者は頷いた。

そして――、

「――都市を放棄し、撤退戦を行う。魔都は、あの影に呑ませる以外にない」