軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七章54 『理想郷カオスフレーム』

「う、うぐ、あう……っ」

「ああ、ああ、鼻垂らして泣きやがって、困ったもんじゃぜ」

ズビズビと鼻を啜り、嗚咽が止まらないスバル。それを背中に張り付けたまま、オルバルトは肩をすくめ、手持ち無沙汰に頬を指で掻いていた。

――凄まじい、凄まじい体験だった。

スバルの身に起こった絶望の十秒間と、それを乗り越えた先にあった十一秒から先――そこに辿り着くまでに、いったい何回の『死』を味わっただろうか。

絶望し、心を砕かれ、すり減った魂が消えてしまわなかったのが奇跡に思える。

でも、そんな地獄のような経験の果てに、辿り着いた。

「うあうー」

ぎゅっと泣きじゃくるスバルの腕に縋り付いて、そう唸るのはルイだ。

スバルと同じ体験をしたわけではないが、数えることもできないほど繰り返した試行錯誤の中、ルイは何度もスバルと同じ運命を辿り、命を落とした。

オルバルトの背に飛びつき、言いがかりのような勝利にこぎつけたのも、彼女の存在なくしてありえなかった。

「おれ、には……ホントに、お前がわからない」

「うー」

「でも、お前がいなかったら、無理、だった。……ありがとう」

スバルの心の中は、もうごちゃごちゃのしっちゃかめっちゃかだ。

ルイが何をしでかした相手なのかも、スバルにとってのどんな因縁がある相手なのかもわかっている。わかっているのに、感謝の念が溢れてくる。

そして、溢れたのはスバルの感謝の念だけではなかった。

「うあ、う……」

「ルイ?」

決壊は、突然のことだった。

スバルの、たどたどしい感謝の言葉を聞いたルイ、彼女の大きく丸い瞳にじわりと涙が浮かび、それがあっという間に頬を伝って流れ落ちる。

ボロボロと、ルイの頬を伝い落ちる涙、それは止め方を知らないみたいな勢いだ。

「ルイ、お前、泣いて、泣いてるから……」

「うー、うー!」

ルイも、自分が泣いていることはわかっているだろうに、流れる涙を止めようとも拭おうともしない。その間も、彼女はずっとスバルの腕にしがみついて、涙を拭く間にいなくなるとでも思っているのか、必死な様子だ。

「顔、拭けって、馬鹿、馬鹿ぁ……」

そんなルイの涙を見ていると、感情の波がちょっと落ち着こうとしていたスバルもまた危うくなってくる。流した涙も、こぼした嗚咽も、もう数え切れないのに。

このまま、ルイと二人でずっとずっと、延々と泣きやめないのではないかと――、

「――よく、頑張りんした、二人とも」

「あ……」

「いくら泣いても構いんせん。この魔都の主、わっちが許しんす」

そんなスバルとルイを、後ろから伸ばされた長い腕がそっと優しく抱きしめた。

かけられた言葉の温かさと柔らかさに、スバルは驚いて目を見開き、すぐ傍にある美しい横顔に魅入られる。長い睫毛と朱を引かれた唇、輝いている青い瞳は済み切っていて、どんな悩みも苦しみも、吸い込んでくれそうに雄大に見えて。

その瞳の持ち主が、どんな人柄なのかも、もうわかっている。

だから、その言葉も温もりも、何の裏もない優しさなのだとわかっている。

全部を委ねても、許されてしまうのだと、わかっているから。

「う、ぐ……あ、う、あああぁ」

「うあう……うあうっ、うあ、う、うあう……!」

「よしよし。……童には泣いて、大人の胸に縋る特権がござりんす。わっちの胸でよろしければ、たんと泣き濡れるがいいでありんしょう」

顔を上げて、また涙が流れてくるスバル。そんなスバルに縋り付いているルイ。

二人を優しく抱きしめて、小さな背中を撫でてくれるヨルナ。そんな戦いの果ての一時が、紅瑠璃城の天守閣に展開されて――、

「これ、全部背中でやられてるワシ、どんな顔してたらいいのかわからんのじゃぜ」

「黙りなんし」

と、無粋な怪老の茶々が、魔都の主に黙らされていた。

△▼△▼△▼△

「それで、オルバルト翁は申し開きはありんすか?」

「申し開き? ワシ、なんか言い訳することあったかよ? 自分の気分で殴りかかってきたのは狐娘、お前さんの方じゃろ?」

「――――」

スバルの大泣きからしばらくして、今度こそ落ち着いた話し合いへ突入――と思いきや、天守閣はいきなり剣呑な空気に呑まれた。

原因は言うまでもなく、飄々と悪びれないオルバルトだ。

彼はどっかりと屋根の上に尻を置いたまま、小指で自分の耳の穴を掻いて、

「ワシは一応、言われたことは守っとったし? まぁ、多少の抜け道は使おうとしたが、そこはほれ、そっちの坊主とお相子じゃぜ」

「うぐ……で、でも、それは……」

「まあまあ、聞いといた方が得じゃぜ、坊主。――だって、何でもありって話にしたら、一番得するのはワシなんじゃからよ。かかかっか!」

大口を開けて、呵々大笑するオルバルトにスバルは口ごもった。

実際、オルバルトの言うことは正しい。ここでオルバルトのルールの悪用に物言いをつけて、その結果、ルールを無視した何でもありの状況になったら、シノビのオルバルトを打破する方法なんて、たぶんどこにもないだろう。

オルバルトにはいくつも隠した術技があり、周りを巻き込むことも躊躇わない。そういう相手が一番手強いことを、スバルは帝国にきてから嫌というほど味わった。

「なんかオルバルトさん、俺の知ってる怖い奴と似てる気がする……」

「ホントかよ。だったらそれ、絶対殺しといた方がいいんじゃぜ。碌な奴じゃねえのと、めちゃくちゃ厄介じゃろうからよ」

「それなら、ここでわっちがオルバルト翁の息の根を止めるという考えに、翁も賛成してもらわないと筋が通りんせん」

「おいおい、すげえ嫌われてんじゃぜ。まぁ、当然じゃがよ」

ピリピリとした空気が張り詰めるが、それはヨルナの放つ一方的な敵意が原因だ。

それを向けられる側のオルバルトは、もう全然戦闘態勢を解いてしまっている。もちろんそれが見せかけで、一瞬でスイッチは切り替えられるにしても。

とはいえ、ヨルナが怒るのは当然だし、スバルもオルバルトにはとても強い怒りを覚えている。しかし、怒りのままに動けない理由は大きいものがあった。

他ならぬ、この縮んだ手足や、うまく働かない頭のことだ。

「オルバルトさん、俺たちにかけられてる術のことだけど……」

「おお、それな。もち、ワシが死んだら解けんのじゃぜ。いや、他の方法があるかもしらんけど、解けた奴は見たことねえわ」

「やっぱり……!」

「ま、保険みてぇなもんよな。一応、ワシの里でも秘術ってことになっとるから、基本は死体も跡形もなく処理して、わかんねえようにしてんじゃが」

あっけらかんと、ゾッとしないことを言ってくれるオルバルト。

それと同時に、スバルは本当に危ういギリギリの綱渡りをしたのだと自分を褒める。

もしもヨルナがオルバルトに勝っていても、オルバルトが死んでしまったらスバルたちの『幼児化』は解けないままだった。ずっとナチュキ・シュバルの状態だ。

そんなの、考えただけでもゾッとする。

「詳しい事情は知らぬでありんすが、この子らに無体な仕打ちをしたと聞いておりんす」

煙管を口にくわえ、紫煙を肺に入れながらヨルナがオルバルトを見据える。

彼女に協力を求める際、できるだけ素直な情報を伝えたが、ごちゃごちゃする事情は省いたスバルだ。その省いた内容には、オルバルトの術技の影響でスバルが縮んでいることも含まれている。

オルバルトの手で『幼児化』が解かれれば、スバルは元の体に戻る。

そうなったとき、全力で謝って、ヨルナには許してもらうつもりだ。――さすがに、それで全部の心証がひっくり返るような事態にはならないと思う。

ヨルナは、話せばわかってくれる類の人だと思いたいから。

「オルバルト翁、先の勝負、負けを認めたでありんすね」

「おお、認めた認めた。ああもやられちゃ完敗じゃぜ。負けて死なねえだけ運がいいってもんよ。しかし、負けるにしても予想外じゃぜ」

「予想外、でありんすか?」

「ワシといい勝負するのはてっきり、坊主たちの親玉の方と思っとったからよ」

スバルの心配を余所に、話を進めるヨルナとオルバルト。そのオルバルトの言葉に、ヨルナは「親玉」と小さく呟くと、そっと自分のキモノの胸元に手を当て、

「親書の送り主、でありんすね。会うのを楽しみにしていんしたが……」

そこでふと、ヨルナは言葉を中断し、オルバルトの向ける瞳をスッと細めた。

その視線の鋭さに、オルバルトが「なんじゃい」と首を傾げる。

「美人に睨まれるほどおっかねえことはねえのよ。どしたい」

「どうしたもこうしたもありんせん。使者の方々には城へくるよう、タンザに言伝させたでありんす。――その、タンザはどこへゆきんしたか」

ひゅっと、喉が鳴りそうなぐらい空気が急速に底冷えした。

ヨルナの怒りはいつも、都市の住人や子どもに危害が加えられるときに露わになる。それが、都市の住人と子どもの二つの条件を満たしたタンザならなおさらだ。

とはいえ、タンザはオルバルトと共謀し、スバルたちをヨルナと会わせないようにしようとした疑いがある。接し方には注意がいるだろう。

ただし――、

「俺も、てっきりタンザはオルバルトさんと一緒にいると思ってた。でも、いない……よな? 瓦の下に隠してたりとか……」

「城の中ならわっちの内腑も同然でありんす。入ったもの、隠れたものを見落とすことなんてありえせん」

「そ、そうなんだ。すごいな、ヨルナさんの術……」

自信満々なヨルナの答えを聞いて、スバルは彼女の規格外さにもたじたじする。

たじたじしてから気付いたのは、スバルとルイが紅瑠璃城に転移で侵入して、それからすぐにヨルナに見つかった事実だった。

あのとき、ヨルナは城の中を歩いていて偶然見つけたみたいなことを言っていたが、あれは方便だったのだろう。本当は、スバルとルイが突然城の中に現れたことに気付いて、侵入者を捕まえるために動いたのだ。

すぐにそうしないで、スバルたちをタンザの友達として扱ったのは、あまりに幼いスバルとルイの二人を、どう扱うべきか彼女も決めかねたからかもしれない。

結局、出くわした当初から、ヨルナには守られていたということだ。

「――――」

そのヨルナの人柄に触れれば触れるほど、彼女をヴォラキア帝国の大きな戦いに巻き込むべきなのだろうかと、そんな気持ちがスバルの中に生まれてくる。

途中、スバルたちの道を阻んだ、カオスフレームで暮らす人たちの、有角人種と呼ばれる人たちの気持ちもそうだ。

辛い目に遭って排斥されて、ようやく見つけた安住の地を守りたい。

自分たちの平和な生活を続けたいと、そう願うことの何を責められるだろう。ましてやそこに、自分たちを大切にしてくれる領主がいるとなればなおさらだ。

――それが、スバルの大好きな女の子の望んだ世界と、何が違うんだろう。

「――――」

黙って、スバルは天守閣から城下を、魔都のごちゃっとした街並みを見下ろした。

何もかも雑多で、入り組んで、しっちゃかめっちゃかで統一感のない街。最初、この街にきたときは、その乱雑さに首をひねった。

でも、ほんの短い間でも、この街の人たちとヨルナを見たスバルは思う。

ここには、自由があるのだ。

誰にも縛られず、自分を小さくしていなくていい自由がここにある。だから、この街には自分の思うままを表現し、それを誰も否定しない雑多さが溢れている。

自由で、平等で、公平だ。

ここにはある種の、そんな未来の理想図が描かれているようにも思えて。

そんな場所からヨルナを取り上げるなんて、本当にするべきことなのだろうか。

「翁、答えてくりゃれ。あの子は、タンザはどこにおりんす?」

スバルの葛藤を余所に、オルバルトへの詰問は続いている。

城の中にタンザはいない。まさか、オルバルトが小さくした人間を懐に入れておくなんて技まで持ってはいないと思いたいが。

「そんな怖い顔せんでも、普通に教えてやるわい。あの鹿娘と手を結んだのも、ちょうど勝負に使える条件が揃っとっただけじゃから」

「――どこにおりんす?」

余計な軽口は不要だと、ヨルナの重ねた問いかけがオルバルトに突き刺さる。

それを受け、オルバルトは首を傾けながら、その視線を城下――絶景とばかりに見渡せる魔都の方へと向けて、

「難しいことはねえじゃろ。ワシ、余所者じゃぜ? 娘っ子一人、匿える場所なんて限られとるんじゃからよ」

と、そう答えたのだった。

△▼△▼△▼△

――オルバルトがヨルナの詰問に口を割る、それより少し前。

それは、魔都カオスフレームの中にある一軒の旅宿だ。

さして大きくなく、華美に彩られたわけでもない平凡な宿。――しかしその実、建物の壁や内装は頑健に作られ、滅多なことでは音すら通り抜けられない。

このカオスフレームにおいて、唯一といっていいほどに空気感の異なるその場所は、ありえない万一に備えて用意された、要人用の宿泊施設だ。

舞台となった一室は、内装の関係で壁を取り払い、三つの部屋をまとめてつなぎ合わせた広々としたものとなっている。とはいえ、その広々とした部屋に宿泊するのは、この旅宿を利用する中でもほんの一握りの立場のもののみ。

格調高い調度品も、目を楽しませる芸術品の数々も、舌を和らげる美酒の類も用意されていないのは、利用する人物の多くが実用主義者だからだ。

そういう意味でも、この旅宿の在り方はカオスフレームの中で異質に位置する。

無法地帯という呼び名で『自由』の象徴たる魔都。その混沌たる在り様と裏腹に、魔都の支配者であるヨルナの下、驚くほどに意志の統一されているカオスフレームの住人。

一種の共有幻想を掲げる人々には、外敵に容赦せず、内憂に慈悲ありきの精神が息づいていて、故にこそこの旅宿のような備えなど不要なのだ。

まさしく――、

「――帝国民は精強たれと、その理念に反した魔の都であろうよ」

「あ……」

「ある程度の政策は都市の指導者に委ねる。が、それにも限度はあろう。――その限度を弁えぬ輩故に、このような真似を働いたか?」

そう、腕を組んだ男に問われ、小柄な少女は頬を強張らせて押し黙った。

問いかけた男は、黒と赤を交えた装いに鬼面で顔を隠した人物、アベル。それと相対するのは、美しいキモノに袖を通した、鹿の角を有する亜人の少女、タンザ。

この都市において、敵対する間柄と推測された両者の対面だった。

――否、正確には、対面したのはアベルとタンザの二人だけではない。

「貴公らは、ここが如何なる場所か弁えて踏み込んできたのか……!」

「――――」

「答えよ! 返答によっては、骨も残らぬと思え!」

そう、浅黒い肌を憤怒に赤くする男、帝国二将カフマ・イルルクスが、旅宿の一室に乗り込んだアベルと、その連れの少年と少女を見据えて怒鳴る。

突き出した手には何も持っていないが、彼に武器など必要ない。あらゆる武装は、カフマ自身の体内に文字通り巣食っている。

骨も残さないと、そう宣言したのは脅し文句でも何でもなく、ただの事実だ。

――それが『闘蟲将』、カフマ・イルルクスの真価なのだから。

「おい、アベルちゃん、本気かよ」

そのカフマの気迫を前に、強い警戒に張り詰めた声を出したのは覆面の少年、アルだ。使いこなせない青龍刀を背負う少年、彼の言葉にアベルはちらと視線を向け、

「貴様、いったい何度そう問えば心が決まる?」

「乗り込んでなお、決まってねぇから何度も聞いてんじゃねぇか。つか、正気じゃねぇって意味で言ってんだよ! クソ、オレもなんでついてきたんだ……!」

「決まっていよう。――一人でいるには、今の貴様は臆病すぎるのだ」

「ぐ……っ」

声に詰まり、その先の言葉が出てこなくなるアル。図星を突かれたと一目でわかる反応だが、反論もできなかったのは、アル自身にも自覚がある証拠だろう。

今のアルはどういうわけか、ただ道を歩くだけでも平静ではいられない。

「アベルちん」

その言葉を封じられたアルに代わり、抗議するようにアベルを呼んだのはもう一人の同行者、ミディアムだった。

使い物にならなくなったアルを守りつつ、アベルと共にここまでの道の踏破に尽力したミディアム、しかし、彼女の表情にもいくらか陰りの要素が強い。

それもこれも全て、途中で抜けたスバルとルイのことがあってからだ。

「今の言い方、あんまりよくないって、あたし思う」

「迂遠な言葉を用い、互いの理解を深める場面とでも思うのか? 貴様も道化も、状況を弁えよ。一手過てば、骨も残さぬと宣言された通りになろう」

「だから! そんな言い方、よくないってば!」

「――――」

「アベルちんがそんな言い方するから、スバルちんとルイちゃんも……」

一度、強い声で反論してから、その後の言葉は尻すぼみになっていく。

それは、ミディアムの性格上、仕方ないことだ。起こった問題を全てアベルの責任にしたくとも、思いやり深い彼女にはそれができない。

自分の態度や視線、そういった要素もスバルたちを追い詰めたと、彼女にはちゃんとそれがわかってしまう。そのあたり、あの兄の教育の賜物でもあるのだろう。

いずれにせよ、アルもミディアムもどちらも、機能不全を起こしている。

「故に、こちらも争うつもりはない。その腕を下ろせ、カフマ・イルルクス」

「貴公……正気か? こちらの質問には答えず、自身の意向のみを居丈高に通そうとする。そのような真似、王にでもなったつもりか!?」

「――。当たらずとも遠からず、だ」

「貴公――ッ!」

目を血走らせ、皇帝への忠義を高く持つカフマの怒りが限度へと迫る。

図らずも、アベルの正体の真意に触れつつ、カフマは真実にあと半歩及ばない。シュドラクの集落で入手した鬼面、その『認識阻害』の効果の強さだ。

およそ、被ったものが正体を明かすつもりがある相手と、被ったものの正体に確証のあるもの以外、この仮面の効果を越えることはできない。

つまり――、

「これ以上、子連れの茶番には付き合えん! 昨日のことがあろうと……」

「――静まれ、カフマ・イルルクス」

腕に力がこもり、腕の入れ墨の紋様を蠢かせつつあったカフマ。彼のその衝動が、背後からかけられた声でぴたりと止まった。

目を見開いたカフマが振り向けば、そこには部屋の奥、安楽椅子に悠然と腰掛ける黒髪の美丈夫の姿がある。

黒髪に黒瞳、その凛々しくも類稀なほど整った面貌は、まるであらゆる全てを見通しているかのように透徹し、招かれざる訪客を前にも揺るがない。

全く以て、そちらもよくできた『仮面』だとアベルも感心するほどに。

そのアベルの感心を余所に、奥の美丈夫はアベルたち三人をそれぞれ眺めると、

「そのものらに敵意はない。少なくとも、この状況ではな」

「しかし、閣下! このものは不敬にも、閣下の御前に顔も見せず、ましてや敬服の念の一切を見せない不埒者です! しかも、子連れで……」

「子連れがどうした」

「いえ、子連れであることが、あまりにも意味がわからず……!」

色濃い困惑を隠し切れないカフマ、彼は目元を揉みながら苦悩と戦っている。

元々、このカフマという男は物事を真面目に受け止めすぎる悪癖がある。真剣に取り合うことと、思い煩う余地を増やすこととは別だ。

その生真面目さが理由で、相応しからぬと自ら『九神将』の地位を辞したことすらあるほどに。――故に、その性格を除けば、『九神将』と同等の力量の持ち主でもある。

仮に誰もオルバルトの毒牙にかからず、この場にタリッタが同行していたとしても、カフマ相手には真っ当に戦うことなど不可能だっただろう。

その点、此度の戦いはアベルたちの方に利している。なにせ――、

「寝所を騒がせたことは詫びようが、こちらの用向きはそこの娘にある。現状、貴様らと事を構えるつもりはない」

「な……っ」

「ほう。余を前にして、ずいぶんと大層な口を利く。この顔、この声に覚えはあろう。ましてや、昨日の天守閣で行き合った使者と、貴様らに関係があるならなおさらに」

「ふん」

鼻を鳴らし、アベルは鬼面の顎に触れながら相手――スバルが偽皇帝と呼び、その正体もすでにわかっている人物、チシャ・ゴールドの化けたヴィンセントを睨む。

アベルのすぐ傍らで、アルとミディアムが複雑な渋い顔をしているのは、『認識阻害』の効果の外にある二人には、ヴィンセントとの会話が全く同じ声のやり取りに聞こえることの証左だろう。

『白蜘蛛』たるチシャの化け方は完璧だ。

その声、その振る舞い、ヴィンセント・ヴォラキアの身代わりをさせれば、チシャ・ゴールドほどうまくこなせるものはこの世に二人といまい。

いっそ、アベルよりもヴィンセントらしいと、そんな矛盾した思いさえ生まれる。

だが――、

「部下から挨拶があったと、その件については聞いている。苛烈なヴォラキア皇帝にしては、不躾な女の不敬をずいぶんと寛大に許したものだ」

「余とて、身の程を弁えぬ輩の相手をするほど酔狂ではない。が、相対するものに相応の価値を認めれば、相応の扱いをして然るものだ。なにせ――」

アベルの皮肉に応じるヴィンセント、その言葉に一拍の間が空くと、二人の視線が中空で交錯し、唇が同時に動いた。

「「――帝国民は精強たれ」」

そう、それが神聖ヴォラキア帝国の理念であり、象徴的な在り方だ。

ヴォラキア皇帝たるもの、そうして抗う意思を見せたものに対して、相応の向き合い方をしたとの答え、実に見事なものと言わざるを得まい。

たとえ、同じことを言われたのがアベルだったとしても、同じ答えをする。

それが、如何なる胸中を抱えていようと、だ。

「カフマ、そこな娘だが」

「は。オルバルト翁から、この旅宿にて預かるようにと……その、肝心の翁は街へ出られたまま、戻られておりません」

「なるほどな」

気まずげな顔をしたカフマの返答、その答えにゆったりと顎を引いて、ヴィンセントの視線が今度はタンザの方に向いた。

部屋の隅で小さくなり、せめて匿われる身の義務に徹しようとしていた少女は、帝国の頂から見下ろされる眼差しに肩を震わせ、「あ」と息を漏らした。

そのタンザの怯えとも恐れともつかない反応を、ヴィンセントは必然と受け入れ、

「オルバルトの関与と、昨日のヨルナ・ミシグレとの約定。加えて、昨日の使者と関連したものが貴様を探して現れた以上、おおよその事情は知れる」

「わ、私は……」

「申し開きは不要だ。もっとも、オルバルト・ダンクルケンには真実を語らせるが、貴様の主は余ではない。そして、貴様の敵も余ではない」

「あ……」

「一度始めた戦いならば、終えるときまで懸命に抗うがいい。それが、貴様の選んだ運命を燃やし尽くすか否か、決めよ」

淡々と、ヴィンセントはこれ以上の庇護はしないと、そうタンザに宣言した。

しかし、それがタンザに見捨てられた絶望を与えたかといえば、それは間違いだ。

「――――」

タンザの丸い瞳に宿るのは、おそらくはこの戦いを、この抗いに挑むと決めたとき、そのときに宿ったものと同じ光、同じ覚悟の焔だった。

有角人種であるタンザ、彼女の生涯が決して平坦でも明るくもなかったのは、アベルの想像でも容易に可能だ。まして、カオスフレームの鹿人となれば、以前のヨルナ・ミシグレが起こした反乱の根本的な原因ともなった種族。

あるいはタンザ自身、その犠牲者と関わりがあっても不思議はないが。

「ヴィンセント様、ご迷惑をおかけいたしました。ですが、このたびのこと、全ては主であるヨルナ様に黙り、私が仕組んだことにございます」

「先ほども言ったが、申し開きは不要だ。事実如何は、ヨルナ・ミシグレに問い質す。自らの口で語らんとした、貴様の意思は留めておく」

「はい。ありがとうございます」

居住まいを正したタンザが正座して、深々と腰を折ってヴィンセントに一礼した。それから顔を上げ、タンザの眼差しがアベルたちへと向き直る。

ヴィンセントへ向けたものと違い、明確な敵意を込めた視線を。

「――っ」

その少女の気迫に、後ろで控えるアルの喉が微かに鳴った。

臆病も極まったものだが、そう気圧されるだけの気概が込められていたのも事実。そして、この少女がそうまで思い詰めた背景も、想像はつく。

全ては――、

「――どうか、ヨルナ様を戦乱に巻き込まないでください。あの方はお優しい方、きっと多くの弱者のために戦い、傷付き、すり減っていくことでしょう。そのようなこと、決して見過ごせません。ヨルナ様は、私の全てなんです」

「あ……」

「どうか、どうかお願いいたします。どうか……っ」

小さく声を震えさせ、そう嘆願するタンザの言葉にミディアムが目を見張る。

アルとミディアムには、タンザの抱いた動機は少々予想外だったらしい。概ね、有角人種の立場の維持、それが道中で襲ってきた住人たちの目的だった。

ヨルナ・ミシグレの庇護を失えば、魔都カオスフレームという安住の地を失い、長く荒野を往くような過酷な日々が再開する。それを恐れてのことと。

少なからず、魔都の住民が抱いているのは同じ感情だろう。

だが一方で、大部分の魔都の住人が抱く感情がタンザ寄りのものであろうことは、アベルにとっては想像の範囲内のことだった。

そう確信させたのも、都市の人々に浸透し切った『魂婚術』の存在だ。

あれは、一方的な想いだけでは成立しない秘術。

本来であれば発狂することも厭わないほど、膨大な相手とそれを結んだカラクリ、それ自体はアベルの中で確証を見ていないが、いずれにせよ。

「決めるのはヨルナ・ミシグレであろう。俺に頭を垂れようと、事態は動かぬ」

「――ッ、貴公」

腕を組んだまま、そう答えるアベルに何故かカフマの怒りが増した。

タンザとの関係はないに等しいだろうに、ただ幼いというだけで一定の情を寄せる。その点、大別すればヨルナと同じ人種と言えるだろう男だ。

そして、魔都の本質に関してのみ言えば、カフマには見えていないものがタンザには見えている。それ故に、彼女は頭を下げたまま、こう続けた。

「いいえ、違います。決めるのはヨルナ様ではなく、あなた様の方です」

「――――」

「ヨルナ様の御心は広く深く、お優しい方……そして、私たちではお手伝いできない、途方もなく遠い夢を見られている方。それを叶える術を、お持ちなのでしょう」

「……ヨルナ・ミシグレの親書、その内容を知ったか?」

「いいえ」

首を横に振り、タンザはアベルの疑念を否定した。しかし、タンザは振った首を正面で止めて、ひどく儚げな表情を浮かべて俯き、

「ですが、わかります。――ああも、乙女のような顔をされたヨルナ様をお目にかけるのは、初めてのことでしたから」

「乙女の顔、か」

「ヨルナ様は、向けられた愛情にお応えくださる。でも、あの御方がご自身から、ああも誰かを懸想する姿は……その答えが、あの手紙にある以上」

「ヨルナ・ミシグレは断らぬと、貴様はそう踏んだ。故に」

「――はい。全てを、企みました」

深々と頭を沈めて、タンザが自らの企みを告白する。

全て、というのは正しくあるまい。間違いなく、このタンザの企みにはオルバルトの手が加えられ、その内容をより悪辣なものへ歪めたはずだ。

しかし、タンザは自らが始めたこと、自らの意思がそうさせたのだと、オルバルトの関与した領分まで含め、自らの責と引き取ろうとしている。

それはあまりにも――、

「――美しいな」

と、そう声にならない声が、誰にも聞こえぬ口内だけで形作られる。

当然ながら、それは誰の耳にも聞こえず、頭を下げたタンザも、身構えるアルやミディアムも、怒りを堪えるカフマ、頬杖をつくヴィンセントにも届かなかった。

「貴様の関与については把握した。だが、如何にする?」

「――。如何に、というのは」

「こうして腹の内を明かそうとも、貴様はその気になれば状況を続けられる。たとえ貴様の首が落ちることとなろうとも、魔都の住人に俺たちを狙わせ続けることはできる。――否、そもそも貴様の首が落ちれば、ヨルナ・ミシグレの手は取れまい」

「――――」

「あるいは、貴様自身の首を落とされることまで策の内か」

俯いたまま、微かにタンザの首筋に緊張が走った。それを見取り、アベルはタンザが自分の死すらも奥の手に残していたと確信する。

十分、考えられたことだ。――実行に移すまで、思い詰めるものは少ないが。

「死ぬつもり、だったってことか。……とんでもねぇ嬢ちゃんだ」

「そんなこと! 絶対にさせないよ! させないよね、アベルちん?」

タンザのその覚悟を知って、アルは絶句し、ミディアムがアベルを窺う。

もしもここで、アベルが意に反することを口にすれば、ミディアムは如何なる態度に出るのか、それも一考の余地があるが、無意味なことだ。

「言ったはずだ。自らの死すらも策の内だとすれば、命を奪うことはこの娘の策の成就を意味する。生憎と、そのような策に乗るつもりはない」

「アベルちん……!」

「人とは、もっと効率的に死ぬべきだ」

「アベルちん……」

思惑に従わぬ駒は、それが自陣にあろうと敵陣にあろうと厄介なものだ。

その点を鑑みれば、タンザという存在は持て余す毒でもある。だが、その毒を飲む覚悟がなければ、より大きな毒を取り込むことができない。

そう断じ、アベルは床に座るタンザを見据え、

「貴様の命を奪うつもりはない。ただ、同胞に出した命令は引いてもらう」

「……それでは、先のお願いは」

「ヨルナ・ミシグレを戦乱に巻き込むな、か。――それは不可能だ」

「――ッ」

はっきりと、そう断言するアベルにタンザの喉が詰まった。

彼女からすれば、自分の命を懸けてでも止めたかった事態が起こる予言なのだ。だが、タンザは思い違いをしている。それも、絶望的な想い違いだ。

何故なら――、

「俺がこなかったとしても、ヨルナ・ミシグレは戦乱の渦に呑まれる。それがあれの選び取った立場であり、避け難い在り方だ」

「いったい、あなた様は何を見て……」

「俺の眼に映るものを、余人に語って聞かせるつもりはない。だが、起こり得る以上は対策する。それが周囲に、どのようなものと映ろうとも」

震えるタンザの瞳と声に応じながら、不意にアベルの視線が少女を外れた。

代わりにその黒瞳が向いたのは、部屋の奥に佇んでいる無言のヴィンセントだ。今や皇帝の座に座り、偽りの帝位を主張するヴィンセント・ヴォラキア。

それが、如何なる思惑を以てこの身を排したのだとしても――。

「俺の在り様は変わらぬ。変えようもない。退路は焼かれ、道は一つだ。――それを、魂に焼き付けておくがいい」

「――留め置くとしよう」

アベルの言葉に、ヴィンセントが静かにそう答える。

たったそれだけのことで、室内の空気が焼け焦げ、熱を高めた錯覚さえする。事実、アベルとヴィンセント以外のものは、じっとりと額に汗を滲ませていた。

「娘、タンザよ、顔を上げよ」

新旧の皇帝同士の睨み合いを終えて、アベルが力不足を悔やむ少女を呼ぶ。ゆるゆると顔を上げ、眼に涙を湛えた娘にアベルは吐息をこぼし、

「元より、使い潰すつもりで呼ぶわけではない。あれの使い方は熟考を要するが、貴重な戦力は最適に用いる。――人とは、効率的に死ぬべきだからだ」

「……それを、信じてよろしいのですか?」

「信じずとも、俺のやることは変わらぬ」

芽生えた希望に縋ろうとしたタンザ、そこに降り注ぐ優しくはない答え。

後ろでアルが額に手をやり、ミディアムもため息をつく中、しかし、タンザは幾許かの躊躇いを置いてから、こくんと頷いた。

「わかり、ました。……どうか、ヨルナ様を」

「それに応えるためには、貴様の方でも手を打つことだ。このままでは、碌々都市を出歩くこともままならぬ」

「あ、そうだった。元々、それが目的でここにきたんじゃねぇか」

アベルの提示した条件を聞いて、アルが色めき立ちながら言った。

現状、あらゆる物事に怯えを抱くアルにはまさしく死活問題と言えよう。タンザの呼びかけに従い、アベルたちを追い回すものたちに手を引かせるのは急務だ。

「でも、どうして私がここにいるとおわかりになったんですか?」

「オルバルトであれば、こうすると判断した。もう一つ、紅瑠璃城に隠される可能性も考慮したが、追っ手の配置と、距離の問題で優先したまでだ」

「――ぁ」

「何より、貴様らの手を引かせねば、命の危ういものがこちらには多い」

百人に追われるタリッタと、結果的に別行動となったスバルとルイ。

どちらも、大勢に追われ続ける限り、命の保証のないものたちだ。無論、戦力外となったアルと、戦力半減のミディアムを連れるアベルも、その例外ではない。

オルバルトとの勝負を続けるためには、タンザの攻略が最優先だった。

「……私の負け、ですね」

「知れたことだ。だが、恥じる必要はない」

「え……?」

ぽつりと呟いたタンザの言葉に、アベルはそれだけ応じ、背中を向けた。

その先の答えが聞かれず、タンザは丸い目をぱちくりとさせる。そのタンザの背中に、「娘」と声がかかった。

「ヴィンセント、様……」

「あのものの言う通り、恥じる必要はない」

「で、でも、私は……」

「負けた。だがそれは、挑んだということだ。――余も、そうありたい」

「――――」

頬杖をついたまま、わずかに遠くを見たヴィンセントの言葉にタンザは目を見張る。しかし、ゆっくりとその眦に涙が溜まり、彼女は俯いた。

俯いて涙をこぼしながら、そっと静かに雫を落としながら、

「ヨルナ様、申し訳ありません……私は、未熟でした……」

と、そう涙声で愛する主人に詫びるのだった。

△▼△▼△▼△

そうして、涙をこぼすタンザを背後に置きながら――、

「ひとまず、これで襲ってくる連中は引っ込むって思っていい、のか?」

「そうなろう。無論、タンザがこちらを謀るために涙を流した線もあるが……」

「ないよ。そんなの、絶対ないから!」

頬を膨らませて、仁王立ちしたミディアムがアベルの懸念にそう食ってかかる。

その剣幕にアベルは片目をつむり、鬼面の額を指でなぞりながら、

「それで、貴様の方の状況は改善が見られぬようだが?」

「ぐ……」

「使い物にならなくば、容赦なく捨て置く他にない。貴様がプリシラの道化であろうと、それが免罪符となると思うな。努、心に留めておけ」

「わ、かってる……オレだって、いつまでもこんな様でいたくねぇ」

睨まれ、非情の宣告を受けるアルが歯軋りしながら応じる。

言い返す声に力はなく、アルの怯えは消えていない。しかし、アルの心身がどうであろうと、これで往来を歩くことも可能となるだろう。

「じゃあ、あとはお爺ちゃん探しの再開……ううん、それよりもタリッタちゃんを探す方がいい? それか……」

「合流する目的ならば、こちらから動くのは下策だ。タリッタの目であれば、俺たちよりよほど早くこちらを見つけよう。あのたわけ共のことは……」

「う、うん……」

「――。いずれにせよ、奴らもオルバルトを探す方針は貫こう。なれば、オルバルトを探す過程で見つかるはずだ。『見晴らしのいい奈落』に、当たりが付けばな」

腕を組み、アベルがそう呟くと、ミディアムが「え」と目を丸くした。

「もしかしてアベルちん、お爺ちゃんの隠れてる場所わかったの?」

「少なくとも、二つ目の隠れ場は当たりが付いた。紅瑠璃城だ」

「な、なんだってそう言い切れるんだよ。つか、あの城?」

「タンザの反応だ。城の話題を出したとき、瞳が泳いだ。タンザ自身は旅宿に潜んだが、オルバルトの隠れ場も知っていたのだろう。さすがに、三つ目の隠れ場まで心当たりがあるかは知れんがな」

手順としては、オルバルトとタンザが手を組み、タンザの伝言のあと、オルバルトがアベルたちに勝負を申し込む。そして一度目の隠れ場の発覚後、外へ出たオルバルトがタンザを連れ、旅宿に合流という流れが自然だ。

無論、タンザの身柄が確保されることを念頭に入れ、オルバルトが偽装情報をタンザに呑ませた可能性はありえるが。

「紅瑠璃城に潜むという手口も、オルバルトの好みそうなことだ」

「……うん、わかった。じゃあ、早くお城にいった方がいいね」

「だな。とっとと、あのジジイには体を戻してもらわなきゃならねぇ。……体が戻れば、大丈夫なはずだ。そうすれば、兄弟とあのチビだって」

ぎゅっと拳を握りしめて、アルが呪うように、祈るようにそうこぼす。

自分自身の肉体が縮んだことで、精神的な余裕も失いつつあるアルは、消えたスバルとルイの関係性にもいたく敵愾心を抱いている。

彼としては、スバルにも早々に元通りになり、ルイに対する正常な判断をしてほしいと考えているのだろう。もっとも、元の体に戻ったところで、ナツキ・スバルが正常な判断を下すモノか、アベルは怪しいと思っているが――それ以前に。

「貴様の考えはどうあろうと、オルバルトの術を容易く解かせるつもりはない」

「は?」

「え?」

「正確には、貴様とミディアムは構わぬ。だが、ナツキ・スバルの術を解かせるつもりはしばしない。今しばらく、あの状態でいてもらうのが得策だ」

そのアベルの方針を聞いて、二人が目と口を開けて驚愕する。

それから一拍を置いて、

「ふ、ふざけんじゃねぇ! どういうことだ!? 聞いてねぇぞ!?」

猛然と、怒りに声を震わせるアルがアベルの胸倉――背丈の問題で届かないため、アベルの服の腹あたりを掴み、そう食ってかかる。

しかし、その非力な脅しに表情も変えず、アベルは「聞いての通りだ」と答え、

「あれには、今しばらく幼い姿のままでいてもらう」

「てめ……ッ」

「それって、スバルちんをイジメてたのと関係あるの?」

ぐっと、より強く前のめりになるアル、その肩を後ろから掴んだミディアムが、じっとアベルを見つめながらそう尋ねる。

そう問われ、アベルは静かに吐息し、

「イジメる、などと程度の低い真似をした覚えはないぞ」

「言い方は何でもいいの! ただ、アベルちん、途中でずっとスバルちんを怖がらせて、何か喋らせようとしてたじゃん! それのせい?」

「――――」

「そんなの卑怯だよ! 聞きたいことがあるなら、普通に聞いたら話してくれるよ! だから、そんなこと……」

「――生憎と、そうもいくまいよ」

静かな、その声に込められた静謐な感情を聞いて、思わずミディアムは「え」と言葉に詰まってしまった。

そのミディアムの驚きを横目に、アベルはアルの掴んだ腕をあっさりと払うと、

「俺の考えはミディアムの邪推とは関係ない。ただ、必要なことだ」

「必要!? 何がだよ! なんで兄弟だけ……オレやミディアム嬢ちゃんは!」

「それでは条件に合わん。貴様は片腕、ミディアムは髪と目の色だ」

「ああ……!?」

意味のわからない発言だと、アルの怒りがますます募る。ミディアムも、アベルの真意はわからない顔で、それとは別の驚きに取り残されたままでいる。

そして、肝心のアベルは――、

「依然、状況は変わらずとも、手駒は揃いつつある。故に――」

鬼面越しに、アベルは旅宿の一室、その窓の外を見つめ、紅瑠璃城を瞳に映した。

それは城そのものよりも、もっと象徴的なものを睨むための仕草であり、事実、アベルは届かぬものを掴むように、その手を真っ直ぐに伸ばし、

「――付き合ってもらうぞ、ナツキ・スバル。抗えぬ風の吹く、戦乱の只中へ」

△▼△▼△▼△

「そんなわけで、あの鹿娘なら閣下のとこにおるんじゃぜ」

「――――」

胡坐を掻いたまま、短い腕を組んで平然と答えたオルバルト。その彼の驚くべき答えを聞いて、スバルはとにかく呆れ果てた。

呆れ果てたのは、全く想像の外側だったからではない。

「お城じゃなかったら、自分たちの宿かなって……」

「お、思っとったんか。じゃったら坊主、大した性格の悪さじゃぜ。やっぱり、本気でヴォラキア皇族の血とか入ってね?」

「それ、本当にゾッとするからやめてよ……」

オルバルト流の冗談なのだろうが、彼の冗談は本当に一個も笑えない。相変わらず、当人は「かかかっか!」とご機嫌な様子で、それが長生きの秘訣だろう。

他人を気にせず、ストレスを溜めないでよく笑う。実にいい見本だ。

「俺の地元に、憎まれっ子世に憚るって諺があるんだよね」

「ほう、諺でありんすか。どんな意味でありんしょう」

「嫌われ者ほど長生きするみたいな……」

「かかかっか! それ、言い訳できねえわい。いてっ」

「あう!」

諺の由来に大爆笑するオルバルトを、ルイの怒りの拳が一撃する。肩のあたりをポンと叩いたぐらいのものだが、触るだけの苦労が、この有様だ。

たぶん、オルバルトもこれが敵意や殺意に類するものなら、それこそ帝国最強の一員としての力量でどうとでも対応するのだろう。

そういう意味でも、スバルがルイの転移で仕掛けたのが攻撃ではなく、追いかけっこのタッチだったのは正解だった。そう、自画自賛しておく。

「ともあれ、タンザの居場所はわかりんした。……わっちの街の住人が、主さんらにずいぶんと無体なことをしたそうで、お詫びするでありんす」

「え、そんな、ヨルナさん、よしてよ! 謝ることなんてないって!」

「うー!」

その場に膝を曲げ、謝意を込めた一礼をするヨルナにスバルは慌てる。ルイも思わず飛び上がってしまうぐらい、ヨルナに頭を下げさせる意味は重い。

実際、ヨルナが真剣に話を聞いてくれて、オルバルト相手にも一歩も引かないでくれて、何度も何度もスバルを助けようとしてくれて、それで――。

「う……」

「――? どうしたでありんすか、童。そう顔を赤くして」

「いや、その、ちょっと色々思い出して……」

状況が落ち着いて、悪夢のように降り注いだ痛みや苦しみが遠のくと、あの繰り返しの中で何度もヨルナと口付けを交わしたことが思い出された。

あの記憶はヨルナの中には残っていないし、スバルもキス自体の感覚を覚えていられる状況ではなかったから、あくまであったこととしての覚えしかない。

それでも、死にかけの子どもを助けるために、自分を好きにさせようとキスすることを厭わなかったヨルナのことは、正直、とても尊敬するし、好きになってしまった。

だからこそ――、

「巻き込みたく、ないな」

ヨルナを戦いに巻き込み、帝国全土を揺るがすような戦場へ呼び込むことへの抵抗、それがスバルの中に強く強く湧き上がっている。

これもスバルが幼くなっているのが問題なのか、ちゃんとした体に戻ったら、もっと違う考えが浮かんでくるものなのか、わからない。

でも、仮に元の体に戻ったスバルが違う考え方をするとしても、この幼い体のスバルが感じたことや考えたこと、それが間違っているとも思えなかった。

だって、もしもそうだとしたら――、

「うあう?」

「お前に対する答えを、その相手がでかくなった自分でも、任せきりにしたくないんだ」

手を繋いだ少女、ルイの処遇はスバルの中で答えの出ない問題だ。

アベルたちと合流するなら、それも間違いなく避けられない話題。ただ、一個だけ、あの絶望の十秒間の先で、スバルが感じてしまったことがある。

――ルイに殺させたくも、ルイを死なせたくもないと、それだけは。

「城の修復は後回しにしんす。まずはタンザを迎えにいくでありんすから」

「あ……ヨルナさん、その、タンザのことだけど」

あまり責めないで、ともスバルの立場からは言いにくい。

彼女には彼女なりの主張や考えがあってのことと思っても、その主張をスバルは聞いていないのだから。ただ――、

「言われずとも、頭ごなしに叱りつけはしんせん。元より、あの子が思い余ったんだとしたら、それはわっちの方にも責がありんしょう」

スバルが心配しなくとも、この魔都の女主人はすべきことをわかっていた。

そんな彼女だからこそ、タンザを含めた都市の大勢に慕われているのだろうから。

できれば、スバルが元に戻っても、急に冷たくならないでほしい。

「俺、もしそうなったら泣くかも……」

それはわりと、本気で胸が痛い想像だった。そうならないことを切に願う。

ともあれ、ヨルナがタンザを説得してくれたら、スバルたちを追いかけ回していた住民たちも手を引くはず。スバルの第二の正念場は、そこからだ。

でも――、

「――死ぬより怖いことなんて、ない」

あんなに恐ろしい目に遭ったのだから、ちゃんと大丈夫だと自分に言い聞かせる。

その上で、スバルもヨルナと一緒に城を降りようと――、

「って、待て待て、坊主。戻っとくんじゃねえかよ。それとも、今の自分の方が気に入ってたりするか? 別にワシはそれでも構わねえんじゃけど」

「あ、ごめん、違う違う。ちゃんと戻る戻る、戻ります。いや、この状態にもだいぶ慣れてきたんだけど、着るものとか困りそうだから」

「かかかっか! 図太い心配しやがるもんじゃぜ」

背中をオルバルトに呼び止められ、スバルは屋根瓦を踏んで振り返った。

実際、まだほんの数時間しか縮んでいないわけだが、下手しなくても今までの死亡回数の合計を上回る数、生き死にを共にした体となった。

そのせいとは言いたくないが、小さい体は縁起が悪い気もするので、戻れるなら早々と元に戻っておきたい。

今の、自分の考えが急に変わってしまう可能性、それだけが怖いが――、

「大丈夫だ、ルイ。今度こそ、俺はちゃんとお前と向き合うよ」

「うあう……あう」

スバルの言葉に俯いて、それからこくんとルイが頷いた。そのルイの額を指で押して、スバルは彼女の体をヨルナの方へと預ける。

背中でぶつかるルイを、ヨルナは正面から受け止めて、

「童、オルバルト翁のすることでありんすが……」

「うん、全面的に信用してるわけじゃないけど、せめて勝ち負けの理には従うぐらいの人間性がかろうじて残ってるとは思いたいから」

「おーい、聞こえとるんじゃぜ」

「わかってて言ってるから」

オルバルトの茶々にそう応じて、スバルは苦笑する。そんなスバルの答えに、ヨルナはきゅっとルイを抱きしめながら目を細め、

「それがわかっているなら、わっちから言うことはありんせん。何が起きるかは聞いておりんせんが、童のことはわっちとこの子が見ているでありんす」

「う!」

「ん、わかった。その、このあとの俺とも仲良くしてね、ヨルナさん」

「――? 童は、心配性でござりんすなぁ」

そう微苦笑するヨルナと、ルイの健気な顔に見送られ、スバルはオルバルトの下へ。立ち上がったオルバルトは自分の腰を叩いて、

「またボロクソ言ってくれるもんじゃ。ったく、とっとと済ませちまうんじゃぜ」

「うん。……あの、痛かったりする?」

「縮むとき痛かったかよ? それが答えじゃ、ぜ!」

恐る恐る聞いたスバルに手短に答えて、オルバルトの伸ばした手がスバルの鳩尾のあたりにそっと触れる。

アベルの予想だと、オルバルトの『幼児化』の術技はオドに干渉するものという話だったが、オドは心臓のあたりにあるのかもしれない。

それと同時に、確かに昨日、この足下の天守閣から逃げるとき、オルバルトに痛みのない一発を受けたなと、記憶が蘇った。

あれを切っ掛けにオドに干渉されて、スバルの『幼児化』が起こった。

体が縮んでから、まだほんの数時間なのだろうが、帝国にきて以来、最大の窮地だった気がする。そもそも、帝国では窮地ばかりだが。

あの絶望の十秒間は、帝国を含めなくても最大級の――、

「そういえば」

ふと、考えないようにしていたことを思い出した。

あの絶望の十秒間、無間地獄にも思えるような死と再開を繰り返したあれは、スバルの知っている『死に戻り』と一線を画したものだった。

あれは、いったい何がもたらしたものなのか、そしてスバルに宿った『死に戻り』の権能はどうなって――、

『――見つけた』

△▼△▼△▼△

――刹那、起こった出来事の完全な知覚は、その場にいた全員にすら困難だった。

「ぬ」

と声を漏らし、オルバルトが伸ばした右手をとっさに引っ込める。

が、遅い。オルバルトの皺だらけの右手は、その手首から先が散りと化し、消えた。

そして――、

「童――」

「うあう!!」

目を剥いたヨルナが腕の中のルイを引き寄せ、暴れて飛び出そうとする少女を抱いたまま、大きく後ろへ飛びずさる。

直後、ヨルナとルイの視界一杯を黒い闇が溢れ返り、美しく鮮やかな光彩で知られた紅瑠璃城の天守閣を、城の上部を、中部を、一挙に呑み込んでいく。

そして――、

「閣下! あれは……」

「――――」

遠く、窓の外の光景を目の当たりにし、カフマが鋭い戦意を宿し、守るべき皇帝の傍に侍り、体内の虫たちが一斉に怯えるのを感じ取る。

その間に立ち上がったヴィンセントは、その鋭い眼差しを黒く染まる城へ向け、深謀たる思慮を静謐に走らせ始める。

そして――、

「そんな、城が……ヨルナ様……」

「あ、あああ、あああああああ――ッ!!」

「アルちん!?」

呆然と、幼きものたちは起こった出来事に目を見開き、驚愕する。

タンザは城に残った主を案じ、そしてアルは生じた被害にこの都市の誰より――否、世界中の誰よりも強く、絶叫した。

ミディアムが駆け寄り、アルの肩を支える。彼女も、わけのわからない状況に縋るようにアベルを見つめた。

そして――、

「あーらら、なんという……これはちょっと、詠んでないとこかもですねえ」

「あなたハ――」

黒い影に呑まれ、崩壊する都市を遠目に見ながら、手で庇を作ったウビルクが悠長に呟くのを、彼と対峙する褐色のシュドラク、タリッタが歯軋りしながら聞く。

注意すべきが遠くの影か、目の前の男か判断に迷うように。

そして――、

「――これが、貴様が内に抱えていたモノの正体か」

偽の皇帝と、泣き喚く幼子たちと、同じモノを目にしながら、アベルは呟く。

拳を固く握りしめ、血の滲むほどに噛みしめた唇を鬼面の裏側に隠して、その恐ろしい形相の面もかくやというほどに表情を歪め、アベルは漆黒を睨んだ。

そして――、

△▼△▼△▼△

――愛してる。

――愛してる。愛してる。愛してる。

――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

――愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。

それは、ありとあらゆる次元を超越して、ナツキ・スバルという存在を塗り潰し、決して離れようとしない呪いのような愛情。

愛のない、地獄のような世界を知った。

自分がそれでも愛されていたのだと、ナツキ・スバルは知った。

だが、それと同時に、『愛』の全てが肯定されるべきものでないとも、知るべきだ。

知らずにいたからこそ、報いがある。

それが何故に恐れられ、誰もが忌避するのか知らずにいたからこそ。

――黒い影と化し、あらゆるモノを呑み込み、破壊しながら、喝采する。

再会を、合流を、抱擁を、束縛を、宿命を、邁進を、喝采する。

告解を、後悔を、猜疑を、神秘を、昂揚を、一途を、喝采する。

愛のない、地獄のような世界を知った。

ならば、愛ある世界に訪れる地獄とは、如何なるものか。

スバルにはわからない。何も、わからない。

ただ一つ、誰にも何もわからない状況で、言えることがあるとすれば。

排斥されてきたモノたちの理想郷、魔都カオスフレーム。

――その理想郷の崩壊は、他ならぬナツキ・スバルの因果にもたらされるのだと。