軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十九幕 セイレーンの真実②

精霊様の力を貸してもらうためには、まずイグレーテを知ってもらわなければならない。アンジェリーナは立ち上がった。

「そうだ、行く前に準備をしておきたいのですが」

「何を準備するの?」

「この近くに実のなる木や、花は咲いていませんか? 精霊様はお供え物があるとより効果的なのですけれど……って、あれ?」

周囲を見回したアンジェリーナの視線が、芝生の上に転がる赤いものに釘づけとなった。いつの間にかリンゴが二つ、芝の上にコロンと転がっていた。

リンゴに気がついて、イグレーテは目を丸くする。

「すごい偶然ね。それにしても、こんな近くにリンゴの木なんてあったかしら?」

誰の仕業か、心当たりしかないアンジェリーナは転がったリンゴを拾い上げる。

「たぶん私のおやつなんですよ、……ありがとうございます!」

アンジェリーナは誰もいない空間にお礼を言った。すると近くの茂みがほんの少しだけ揺れる。

「……あそこで見守っているのか」

「なんのこと?」

「なんでもありません。さあ、行きましょうか!」

リンゴを二つ手に持って、アンジェリーナは小川の脇にある道を歩いた。

隣にはイグレーテがいて、ケルピーは小川を器用に泳ぎながらイグレーテの後ろをついてくる。

ケルピーの上半身は馬だから、こうして泳いでいるときは普通の馬が川を泳いで渡っているようにしか見えない。

「こうしていると、セイレーンに見間違えたというのが不思議ですよね」

「この国では圧倒的にセイレーンのほうが有名だからかしら。人は一度そうだと思い込むと、考えを変えるほうが難しいのよ。そうは思わない?」

ケルピーを視線で追いながら、イグレーテは苦笑いを浮かべる。

アンジェリーナは自分がかつて無能で役立たずと呼ばれていた過去を思い出した。どれほど努力しても認められなかった過去の自分のことを。

「なんとなくわかりますねー」

「私もそうだったもの。公爵令嬢だから、できてあたりまえ。国のため、テオドーロ様のために生きるのが当然と言われて育ってきたわ。どれほどつらいと嘆いてもテオドーロ様ができない仕事は全部私に割り振られた。人の命がかかっているような一刻を争うものもあって、やるしかなかったのよ」

できないなんて、言える状況ではなかった。

暗い眼差しをして、イグレーテは深々と息を吐いた。

「アンジェリーナ、あなたは知っていて? セイレーンが精霊から魔物に堕とされたのは、神の娘を守り切れなかった罰だという説があることを」

話題が唐突に切り替わる。記憶を探って、アンジェリーナは神殿で読んだ古い書物の一節を思い出した。

「たしか、冥府の神に娘を奪われた母神が罰としてセイレーンを魔物に変えたという記述があったような気が」

「ええ、それよ。はじめて聞いたときは残酷だと思ったわ。だって精霊が神に抵抗するのは命がけでしょう。それでも命をかけるのはあたりまえだと、生き残ったことが罪だということでしょう?」

遠い過去の自分を見るような眼差しで、イグレーテはつぶやく。そして寄り添うように近づいたケルピーに手を差し出した。

「救われないまま、きっと今でも嘆いているわねセイレーンは。そう思うと私は魔物であっても憎めないのよ」

憂いを帯びたイグレーテの横顔を眺めながら、アンジェリーナは言葉を探した。けれど見つからなくて、結局開きかけた口を閉じる。

本当に、噂とは当てにならないものだ。ラグイアーナオペラに登場する傲慢で他人の心を踏みにじる意地悪な悪役令嬢が、実はこんなにも優しい人だったなんて。

アンジェリーナは人を魔のつくものから守る。だけどもし彼女がケルピーを操り、第二王子や取り巻き達を襲ったとしたら……アンジェリーナに、それを止めることはできるだろうか。

今のアンジェリーナには、できると言い切れるような自信がなかった。

アンジェリーナと視線が合うと、彼女は夢から覚めたような顔で笑った。

「ごめんなさい、つい愚痴が出ただけなの。だからつらそうな顔をしないで」

顔を上げて、怯むことなく前を向くイグレーテの横顔は公爵令嬢にふさわしい威厳と自信に満ちていた。

「失ったものはあるけれど私は不幸ではないわ。だって大切なものは全部手元に残っているもの。これからはこの子と領地を守りながら、湖のほとりで静かに暮らすわ」

それでもイグレーテの心に、傷は今も癒えないまま残されているのだろう。

たくさんの人を救っても、救いたいと願うたった一人が救えない。

こういうときにアンジェリーナは自分が無力だと思うのだ。

ーーーー

聖なる果樹にたどり着くと、アンジェリーナは祭壇にリンゴを置いた。興味深く眺めていたイグレーネは目を丸くする。

「もしかして、この朽ちた石組みが祭壇ということ?」

「はいそうです。ここに果物やお花、たまにお酒なんかを供えるといいですよ。精霊様が力を貸してくださいます」

「不思議なものね、あなたが言うと精霊様が本当にいるみたいだわ」

「いますよ、呼べばたぶん来てくださいます」

アンジェリーナは聖なる果樹を見上げた。

浄化の力が働いて、アンジェリーナがいることに気がついたのだろう。いつかと同じように木の葉が動く。

ザラッという柔らかな鱗がすれる音がして、アンジェリーナの前に蛇が姿を現した。赤い木の実のような目が「どうしたー?」とでも聞くようにぱちぱちと瞬きをする。

イグレーテの口から、ひゅっと息を呑む音がした。

彼女の呆然としたような顔が内心の混乱を物語っている。

「嘘でしょう、本物?」

「ね、いたでしょう。もちろん本物です」

アンジェリーナはニヤリと笑って、精霊様にイグレーテとケルピーを手で示した。

「近くの湖に住むイグレーテと、お友達のケルピーです。ごあいさつに来ました」

知ってるー、と言葉を返すように精霊様はまばたきをする。

精霊様はお供え物のリンゴをおいしそうに完食した後、しっぽを枝の間に伸ばした。赤い果実を一つもぐと、ポンとイグレーテの手の上に落とす。

受け止めたイグレーテの手が震えた。

「た、大変だわ。こ、これ、聖なる果実……」

イグレーテに視線を合わせて、精霊様はちょいちょいと尻尾の先を使い、ケルピーを指す。アンジェリーナには、その仕草がまるで「ケルピーに食べさせろ」と言っているように見えた。

「ケルピーにこれを食べさせればいいみたいです。『それで落ち着くから』と言ってますねー」

のほほんとした顔で、アンジェリーナは精霊様の代わりに伝えた。

聖なる果実を見たケルピーが瞳を輝かせて身を乗り出す。まるで、「食べたい」と催促するように鼻を鳴らした。イグレーテは混乱した顔で果実を掲げる。

「でも、聖なる果実は王家に献上するという決まりが……!」

「いいんですよー、もう。今のイグレーテは貴族でもないし、婚約は破棄されたのです。これ以上、尽くす義理はありません!」

イグレーテは幼いころから王家に尽くすよう刷り込まれて育った。だから考え方の癖は簡単には治らない。かつて聖女だったころの自分の姿と重なって理解ができるからこそ、アンジェリーナは慎重に言葉を選んだ。

「そもそも前提が違うのです。もとは精霊様が祓いの儀式のたびに、そのときの王家に必要な効果を見極めて聖なる果実を落としていました。ところが時間経過とともに儀式だけが廃れてしまい、『落ちた果実は王家に渡す』という部分だけ残ったのが今の形です」

「では落ちた果実は祓いの儀式の報酬ということなのね」

「聖なる果樹の恩恵は精霊様が必要と認めた者に与える。これが正しい形なので、イグレーテは遠慮なく受け取って大丈夫です!」

アンジェリーナの視線の先では、精霊様が首をカクカクさせてうなずいている。

「ついでにこれは独り言ですが、今後もお供え物をすれば、必要に応じてこんなふうに果実を分けてくださることもあるかもしれませんねー」

いい笑顔を浮かべて、アンジェリーナはそそのかした。

そのぶん王家に渡る恩恵は減るが、婚約破棄の代償と考えたら安いものだろう。

「そういうことでしたら、ありがたくいただきます」

精霊様に向かって、イグレーテは首を垂れた。

イグレーテは振り向いて川岸に膝をつき、ケルピーに果実を差し出すとケルピーは瞬く間に完食する。するとどこか不安定だった荒ぶる気配が落ち着いた。

おだやかな表情をしたケルピーが甘えるように膝へ鼻先をすりつけると、イグレーテは優しく頭をなでる。

「ふふ、甘えん坊なころに戻ったみたいだわ。こうしていると、すごくかわいいでしょう?」

「おっかしいなぁ……ケルピーには何度か食われかけたのですけどねー?」

イグレーテとは対照的に、アンジェリーナは顔色を悪くした。

別の個体にだが、冗談抜きで死闘を繰り広げた相手だ。アンジェリーナがあんな無防備な状態で手を差し出したら最後、間違いなくかじられる。それが目の前にいるケルピーは同種とは思えないほど、イグレーテにかわいらしく甘えているのだ。

「直感で天敵だとわかるのかしら? 大変ね、魔除けのお仕事も」

イグレーテはアンジェリーナに労わるような眼差しを向ける。そして聖なる果樹と、枝に絡みつく精霊様を見上げた。

「これからは私がお供え物をするわ。儀式のことも、知識のある人に相談します」

「それが最善ですね。今後は精霊様をよろしくお願いします!」

これで聖なる果樹の次の管理者が決まった。精霊様も満足そうだし、もう一つのお仕事も片付いてアンジェリーナは一安心だ。

「ちなみに今の王家で、こういう儀式関係は誰の担当なのです?」

「……今代は、エリティア様ね」

意外な名前が出て、アンジェリーナは目を丸くする。

イグレーテは深いため息をついた。

「あの方も昔はもう少しまともだったのよ。だけど魔獣に襲われて婚約者を亡くしてから、うまくいかないことが増えたの。そのせいで性格もずいぶんと歪んでしまった」

イグレーテの話を要約するとこんな感じだ。

婚約者を亡くしたけれど、エリティアには王女として果たす義務がある。国は喪が明けたところで、エリティアとの婚約を他国に打診したそうだ。

けれど、どうにもうまくまとまらない。

なぜなら今度は間隔の短くなった魔獣の大移動のせいで、他国に王女をめとるような余裕がなくなってしまったからだ。

「具体的には、婚約の話が持ち上がっても結納金や持参金で折り合いがつかないの。同じ年頃の王子や高位貴族の子息はすでに婚約しているから、相手は歳上で、後添えや離婚歴のあるような人物ばかり。輿入れに際しての条件や待遇も一国の王女に対するものとは思えないほど悪かったのよね」

エリティアの気持ちは後回しにして、ふたたび魔のつくものが彼女の人生に暗い影を落とす。結果、エリティアは婚約者を失っただけでなく、魔獣の大移動という大変な時期に適齢期を迎えて、婚約すらできなかった。

「このころから急に性格が変わってしまったのよ。自暴自棄というか、注意しても人の言うことに耳を貸さなくなってしまったの。彼女がすっぽかした公務の穴埋めに駆り出されて私も大変だったわ」

当時を思い出したのか、イグレーテは深々と息を吐く。

話を聞いて、アンジェリーナはようやく納得できた。

「王女殿下に婚約者がいないのは、裏にそういう事情があったからなのですね」

「そうよ。あの方は極端に魔のつくものを嫌っているの、だから気をつけてね」

「どういうことです?」

「 魔(・) 除けの聖女――――あなたも魔のつくものでしょう。逆恨みとか、嫌がらせされてない?」

少しためらって、言いにくそうにイグレーテは答えた。

意味を理解したアンジェリーナはその場に膝から崩れ落ちる。

アンジェリーナの中で、エリティアの意味不明な行動のほとんどに理由がついてしまった。もちろん納得したからと言って、許せるかは別の問題だけど。

突然崩れ落ちたアンジェリーナにイグレーテは目を丸くする。

「ちょっとどうしたの、大丈夫?」

「それ、もう少し早く知っておきたかったなと思いまして」

イグレーテは悪くない、悪くないのだけれど。

……ちょっとくらい教えてくれても良さそうなものなのに。

アンジェリーナは崩れ落ちたまま、うらめしそうに天を仰いだ。