軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

アデリア・ウィルソンは喜ぶ

「お前との婚約は無かったことにしてもらいたい」

この言葉を耳にした時の喜びを、アデリアは生涯忘れないだろうと思う。

何度この瞬間を夢に見ただろう。

今の心境を言葉に表すなら、間違いなくMMU(マジ、めっちゃ、嬉しい)だ。

しかしまだ終わりではない、十八年の人生で今この瞬間こそが最大の山場である。

「承知いたしました…今までありがとうございました」

少し顔を背け、寂しげな顔をするのも忘れない。

そんなアデリアに、目の前のルドルフ・コーエン伯爵令息は、満足気な視線を寄越した。

自分が発した言葉が、格下の相手を打ちのめす様子を、舌なめずりをする様に味わっているのだった。

つくづくクズの見本の様な男である。

(地獄に堕ちろ)

「お前が「では、」

ルドルフが更に言い募ろうとした瞬間を見逃さず、言葉を重ねる。

「早急にお暇し、必要な書類を揃え、今日にでも国に提出いたします」

暇を告げる言葉は、最上位のカーテシーに乗せ、頭を上げると同時に素早く踵を返し、淑女としてギリギリの素早さで、本日の茶会の場であったコーエン家のサンルームを後にする。

隅に控えていた自家の侍女に目配せするのも忘れない。

「おい、待っ

閉めた扉の向こうで途切れた声には、一切、全く、気が付かなかったことにしておく。

十一で成った、長かった婚約がようやく終わった。

アデリアの生家であるウィルソン子爵家にとっては、格上からの断れない婚約だった。

歴史ばかりが古い、名前だけの爵位持ちのウィルソン家、そこいらの商家よりも貧乏で、アデリアも小さい頃から、少ない使用人の子供達とあまり変わらない環境で育った。

アデリア自身、特にそれを不満に思ったことはない。

むしろ伸び伸びと、太陽の下を駆け回り、川で遊び、近所の子供達と喧嘩をし、皆でご飯を食べ、屈託なく笑って過ごす日々に満足していた。

それでも、時にはこの国で何代も続く子爵家としての社交もあり、また守るべき伝統があり、貴族としての体面もあり、それなりの淑女教育と領主家としての義務と務めがあった。

婚約もその義務の一つだった。

十歳前後で婚約が結ばれるのは我が国では珍しくなく、金の唸っている伯爵家が次男の婿入り先として、伝統だけはある子爵家の、同じ年齢のアデリアに目をつけるのは当然の流れだった。

そうして結ばれた縁だったが、両家の領地には距離もあり、まだ幼い者同士、交流らしい交流もなく、この頃のアデリアにとっては事実、紙の上でだけの婚約だったのだ。

ところでウィルソン家には一つの特技があった。

その歴史の長さ故、家格の釣り合わない高位貴族に囲まれがちな、子爵家ならではのお家芸である。

代々培ったノウハウを駆使し、社交の場で猫を被ることにかけてはなかなかのものだった。

アデリアの幼い妹ですら、社交の場では格上の令嬢を相手に堂々としたものだった。

まさか先週領地で、牛の背によじ登ろうとして落ち、泣いていた子供とは誰も思わない。

アデリアもウィルソン家の血を存分に発揮し、王家主催の子供達の披露目の場でも、他の子供達よりやや日に焼け過ぎていることを除けば、高位貴族と見紛うばかりの毛並の良い猫を被ってみせたのだった。

その披露目の場で事件は起こった。

きっかけが何だったのか、今となってはわからない。

大人達とは離れた子供たちだけの会場で、アデリアの名ばかりの婚約者、コーエン伯爵令息ルドルフが、ある令息の髪の毛を一房、鋏で切り落としたのである。

その時の自分のドレスの色や、参加者の顔ぶれ、食べたものなどは何も覚えていないのに、その時ルドルフが浮かべていた表情だけは、アデリアの脳裏に、楔の様に焼き付いている。

その時感じたのは吐き気のするような 悍(おぞ) ましさだった。

死者に石を投げる様な、猫を井戸に落とす様な。

そういった行為に対して感じる、顔が歪むような嫌悪感。

その時ルドルフは確かに悦びを持って、その行為を行なっていた事実を、ルドルフの笑みにアデリアは見たのである。

これは単に子供が、幼い精神で過ちを犯した、と言うだけのことかもしれない。

この事件は、公には誰が咎められることもなく収束した。

どう言う話し合いが持たれたのか、伯爵家が何かしらの賠償を果たしたのか、アデリアは知らない。

ルドルフ達が正式なデビュタント前の子供であったことも、やはり大きかっただろう。

でも、とアデリアは思う。

身体が成長しても、自分の心が、あの頃と変わらずにあの 悍(おぞ) ましさを畏避するように。

あの身体に宿る、邪悪な本質だって変わらないのではないかと。

事実、成長しても、ルドルフの本質は何ら変わらなかったのだ。

自分より格下の者達を蔑む目付き、彼らを詰る際の悦びに歪んだ声。

格上の者や年長者達の前では決して見せないその精神は、ルドルフ自身と一体となり生き続けているのだ。

つくづく、この世に放流するには罪深い男である。

婚姻は貴族としての義務だが、人として軽蔑している相手を、この家に縁づかせるわけにはいかない。

ここまで育ててくれた両親や領民達には心底申し訳ないが、あの男の血をこの身体で繋ぐくらいなら、喜んで修道院にでも行くつもりだった。

幸い分家には優秀な従兄が育っており、そして直系の妹もいる。

とはいえアデリアも、何もせずに手をこまねいていた訳ではない。

要はこちらの有責にならず、ご退場願えればいいのである。

その為に少しずつ、種を蒔いてきた。

婚約者としての交流が始まった頃から、細心の注意を払って、気に入られないように務めてきた。

赤い色が似合う大人っぽい令嬢が好きだと聞けば、あえて派手な化粧でフリルだらけの赤い色のドレスを着て夜会に臨んだり。

手作りの菓子が食べたいと言われれば、食べられるが美味しくはない、という絶妙な不味さを狙って菓子を量産したり。

束縛されるのは面倒だと友人に漏らせば、令息達の社交場に、年嵩の侍女達を引き連れて乗り込んだり。

嫌われるのは厄介なので、嫌がられる塩梅を狙い続けたのだった。

あくまでやりすぎてはいけない。

万が一アデリアの瑕疵を理由に、花嫁がすげ替えられ、妹の婿になる様な事態は避けなければいけないからだ。

同時に、財政が厳しい家のご令嬢達に、いかに伯爵家が金満家であるかを吹聴するのも忘れない。

中身にどれだけ問題があろうとも、見た目にはそれなりの容姿を持つ伝統ある伯爵家、お金持ちの伯爵令息である。

その上、自分たちよりも貧乏でセンスの悪い子爵令嬢が婚約者風を吹かせ、自分の浅慮を振り撒いている、と言うトッピング付きである。

獲物としては、なかなかの仕上がりだったろう。

結局、婚約は解消となった。

あちらが言いかけた言葉をことごとく遮ったため聞かずじまいだったが、どうやら複数の女性と関係があったらしい。

何が理由で破棄してくれたのかはもう、永遠に、謎のままで良い。

言い出した非はあちらにあれど、これ以上望まぬ縁を繋ぐよりはマシだと、両親は長年の支援金を賠償金と相殺して早々に話をまとめ、不出来な娘の責任を取ると言う名目で領地に引っこんでいった。

従兄が疲れた顔で爵位を継ぎ、当主となった。

残ったのは、センスが悪く、空気の読めない、目立ちたがりで婚約破棄された悪名高い子爵令嬢である。

使用人に混ざって働く事は苦ではないが、家としての体面も外聞もある。

いよいよ修道院行きか、とも思うが、今でも毎日欠かさずに(地獄に堕ちろ)と祈っているので、そんな私に神の道は難しいかもしれない。

腐っても子爵令嬢、この私にまだ使い道があるのなら、家のために嫁ぐのは吝かではない。

金持ちの後妻か訳アリか、どうせなら自領にとってプラスになる相手であれば良い。

弱い者を虐めて悦を覚えるような人間性に比べれば、若い女が好きという方がいっそ清々しい気さえする。

そう告げれば、疲れた顔の従兄が、透かし柄入りの見るからに格の違う封筒を差し出してきた。

受けた場合のデメリットが未知数ゆえに、断っても構わないとの言葉付きで。

…どういうこと?

差出人はなんと、我が国に一家しかない公爵家からだった。

家格が違いすぎて眩暈がする。

嫁いだ後、私が引き起こしかねないあれこれを天秤にかけて、断りたい従兄の気持ちがよく分かる。

我が国の王族に連なる証、黄金の瞳が楽しそうに 笑(え) んでいる。

「あまり乗り気ではないと顔に書いてあるね」

こう見えて、元婚約者の前では一度だって本音がバレたことのない、ポーカーフェイスが自慢だったんですが。

「それは余程その相手が間抜けだな」

あの時髪を切られたのは、殿下の乳兄弟だったそうで。

今も側近として殿下に仕える彼からは、数年越しにお礼の言葉を頂戴した。

そうして知った衝撃の事実が二つ。

「あの時君が修羅の如くアレを殴ったろう?結果としてそれが、アレの命を救ったんだ」

あの時の君が忘れられなくて、という嬉しくもない告白と、まさかの事実にものすごく複雑な気持ちになった。

確かに当時のアデリアは、野山を駆け回り、体格の違う従兄にもよく手が出ていたことを思い出す。

ルドルフの記憶に残っていないことを思うと、背後から初手の一撃でもって相手を沈めていたのだろう。

やらかした令息が、婚約者である格下の令嬢に処されたとあっては、公にはできない顛末かもしれない。

しかし元婚約者の処罰をアデリア自身が阻止していたとは…この数年の努力は何だったのだろう。

でもきっと、あの時そうなっていたら、それはそれで後味が悪かっただろうとも思う。

連座で当主の首くらいは飛んでいただろうから。

「そばに居てくれるなら、形は問わないよ」

侍女でも、小間使いでも、相談役でも、側近でも何でも構わないと高貴な口が 宣(のたま) う。

「どの道、手は出すから」

それは結局、愛人なのでは。

「それなら妻の方がいいと思うけれどね」

側近と執事が教育係を手配する声を遠くに聞きながら、眦を眇めて笑う金色が。

(あまりにも嬉しそうで)

絆されたのだと、あの頃とは見違える様な姿で高貴な笑みを浮かべ、アデリアは従兄に告げたという。