軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第八話 「プレゼント」

第八話 「プレゼント」

その夜の料亭は、冬の空気を忘れさせるほど暖かかった。

玄関を入ると、磨かれた木の床からほのかな檜の香りが立ち上り、奥の座敷からは賑やかな笑い声が漏れていた。廊下には小さな庭が見える窓があり、石灯籠の上には薄く雪が積もっている。

凛子は、深い紺色のワンピースを着ていた。首元には細い銀のネックレス。髪は低くまとめ、口紅はいつもより少しだけ赤い。

鏡で見た自分の顔は、不思議なほど穏やかだった。

座敷にはすでに人が揃っていた。義父母、拓也の会社の同僚、共通の友人たち。そして当然のように、真央もいた。

真央は淡いピンクのニットに白いスカートを合わせ、拓也の隣で小さく笑っている。その距離は近かった。近すぎるほどに。

「凛子さん、遅かったですね」

真央が柔らかく言う。

声だけ聞けば、何も知らない人には可憐に聞こえるだろう。

凛子は微笑んだ。

「準備に少し時間がかかって」

「準備?」

真央が首を傾げる。

「ええ。大事な日ですから」

拓也は上機嫌だった。

昇進祝い。

ようやく課長から次の役職へ進めるかもしれないと、数日前からずっと浮かれていた。

「凛子、こっち座れよ」

拓也が軽く手招きする。

その横には、真央。

凛子は一瞬だけその席を見て、静かに答えた。

「私はこちらで」

義母の隣へ腰を下ろすと、畳の感触が足元に柔らかく沈んだ。

食事は華やかだった。先付けには菜の花のおひたしと白子豆腐。椀物からは柚子の香りが立ち、刺身の皿には透き通るような鯛と鮪が並んでいる。焼き物の銀鱈は甘い味噌の香りをまとい、湯気を上げていた。

けれど凛子は、ほとんど味を感じなかった。

拓也は酒が進むにつれ、声が大きくなっていった。

「いやあ、ここまで来るの長かったよ」

同僚の一人が笑う。

「藤崎さん、面倒見いいですもんね」

「そうそう。困ってる人放っておけないタイプだから」

真央がその言葉に、わざとらしく目を伏せる。

「拓也は昔からそうなんです。私も何度助けてもらったか」

義母が嬉しそうに頷いた。

「拓也は本当に優しい子なのよ」

凛子は箸を置いた。

陶器の皿に、箸先が小さく触れる音がした。

誰も気づかない。

拓也は日本酒の杯を持ち上げ、真央の方を見て笑っている。

「まあ、俺がいないと真央は危なっかしいからな」

「もう、そんな言い方ひどい」

真央が軽く拓也の腕を叩く。

周囲が笑う。

その笑い声の中で、凛子だけが静かに息を吸った。

「拓也さん」

凛子が声をかけると、座敷の空気が少しだけ変わった。

拓也が振り向く。

「ん?」

凛子はバッグから白い封筒を取り出した。

厚みのある、上質な封筒だった。

「昇進のお祝いです」

拓也の顔が明るくなる。

「え、マジ? 何?」

「開けて」

真央が興味ありげに覗き込む。

「奥様からのプレゼントなんて素敵ですね」

凛子は静かに真央を見る。

「ええ。あなたにも関係があります」

「……私?」

その一瞬、真央の笑顔が揺れた。

拓也が封筒を開ける。

中から出てきた紙を見た瞬間、彼の表情が凍った。

座敷のざわめきが、すうっと遠のく。

「……なんだよ、これ」

凛子は立ち上がった。

「離婚届です」

義母が息を呑む。

「凛子さん?」

「それから、慰謝料請求に関する通知書。不適切な関係の証拠一覧。共有財産の使用明細も入っています」

拓也の顔が赤くなる。

「おい、こんな場で何考えて——」

「安心して」

凛子は静かに遮った。

「感情論を話す気はないから」

その声は、驚くほどよく通った。

凛子はバッグから数部の資料を取り出し、座卓へ置いた。

「皆さんにも同じものを用意しています」

友人たちが戸惑いながら手を伸ばす。

義父は無言で眼鏡をかけた。

義母の手は震えていた。

資料には、日付順に整理された支出履歴が並んでいた。ホテル名、飲食店名、タクシー利用、ギフト購入、温泉宿の宿泊日。すべて色分けされ、誰が見ても流れがわかるように整理されている。

「これは、過去一年半の共有財産の使用履歴です」

凛子は淡々と言った。

「赤が真央さん関連。青が拓也さんの私的支出。黄色が会社経費との重複が疑われるものです」

真央の顔から血の気が引く。

「ち、違います。私、そんなつもりじゃ……」

「つもりの話はしていません」

凛子は真央を見た。

「事実の話をしています」

拓也が資料を握り潰す。

「ふざけんなよ。こんなの、ただの食事とか相談だろ」

「では、温泉宿の宿泊履歴も相談ですか?」

空気が凍った。

真央が小さく息を呑む。

凛子は続ける。

「私の最終面接の日、あなたは“真央さんがトラブルに巻き込まれた”と言って出かけました。でも実際には、二人で温泉街にいました」

由香が小さく呟いた。

「やっぱり……」

拓也が怒鳴る。

「お前、俺を監視してたのか!」

「記録を整理しただけです」

凛子は少しも揺れなかった。

「あなたが残したものを」

義母が震える声で言う。

「でも、拓也は優しいだけで……」

凛子は義母の方を見た。

「お義母さん」

その声は柔らかかった。

「優しさで、妻を記念日のレストランに置き去りにしますか」

義母は黙った。

「優しさで、高熱の妻を一人にして別の女性の元へ行きますか」

誰も答えない。

凛子はもう一枚の資料を出した。

「そしてこちらは、拓也さんが会社の未公開情報を真央さんへ漏らしていた記録です」

拓也の顔色が変わった。

「おい、それは」

「“ちょっとくらい平気”。あなたはそう言いましたね」

同僚たちが互いに顔を見合わせる。

座敷の温度が一気に下がったようだった。

真央は涙を浮かべた。

「凛子さん、ひどいです……私、ただ拓也に相談してただけなのに」

凛子は静かに笑った。

「ええ。いつもその言い方でしたね」

真央の唇が震える。

「でも、もう通用しません」

拓也が立ち上がる。

「凛子!」

「座ってください」

その一言に、拓也が止まった。

凛子は封筒を指差す。

「署名は私の分だけ済ませてあります。あなたが拒否しても構いません。その場合は、弁護士を通します」

「そんな……」

拓也の声が急に弱くなる。

さっきまでの威勢は消えていた。

凛子は最後に、拓也を見た。

「あなたはずっと、私より真央さんを優先しました」

座敷は静まり返っている。

外の庭で、雪が枝から落ちる小さな音がした。

「だから私も、今日から自分を優先します」

拓也は何も言えなかった。

真央も。

義母も。

友人たちも。

誰一人、反論できなかった。

凛子は深く一礼し、バッグを手に取る。

そして、静かな座敷を後にした。

廊下へ出ると、冷たい空気が頬に触れた。

それがひどく心地よかった。