作品タイトル不明
第七話 「一線」
第七話 「一線」
十二月の空気は冷たく乾いていた。
駅前のイルミネーションが青白く光り、吐く息が白く滲む。
凛子はマフラーを軽く巻き直しながら、会社帰りの人波を静かに抜けていった。
新しい職場には、もう慣れ始めていた。
財務部へ正式復帰して二週間。
以前の感覚は驚くほど身体に残っていて、数字を見るたび頭が澄んでいく。
「朝倉さん、助かりました」
若い男性社員が頭を下げる。
「資金繰り表、めちゃくちゃ見やすかったです」
「ありがとう」
凛子は淡く微笑んだ。
以前なら、その一言だけで嬉しかった。
必要とされること。
信頼されること。
けれど今は、感情がひどく静かだった。
会社を出る頃には、外はもう夜になっていた。
スマートフォンが震える。
拓也からだった。
『今日、真央も一緒に飯なんだけど来る?』
凛子は数秒だけ画面を見つめた。
それから短く返す。
『行かない』
すぐ返信が来る。
『最近ほんと理解あるよな』
凛子は返信しなかった。
その代わり、駅ビルの地下へ降りる。
食品売り場にはローストチキンの香りが漂い、クリスマス用のケーキが華やかに並んでいる。
凛子は小さな総菜パックと、赤ワインのミニボトルをカゴへ入れた。
一人用で十分だった。
もう誰かに合わせる必要はない。
帰宅すると、部屋は暗かった。
拓也はまだ帰っていない。
凛子はコートを脱ぎ、ダイニングテーブルへノートパソコンを開いた。
そこには、ここ数ヶ月で整理した資料が並んでいる。
共有財産。
送金履歴。
クレジット明細。
そして最近、新しく加わったもの。
——会社関連の資料。
凛子は画面を見つめる。
きっかけは、ほんの違和感だった。
拓也は最近、やたら真央へ仕事の話をしていた。
「今うち、大きい案件動いててさ」
「まだ公表前なんだけど」
「競合がどうとか」
以前の凛子なら聞き流していたかもしれない。
けれど今は違う。
その軽率さが、異様に目についた。
玄関のドアが開いたのは夜十一時近くだった。
「ただいまー」
拓也は上機嫌だった。
頬が少し赤い。
酒が入っているのだろう。
「まだ起きてた?」
「うん」
凛子はお茶を淹れる。
ほうじ茶の香ばしい匂いが湯気と一緒に広がった。
拓也はネクタイを緩めながら笑う。
「今日さ、真央めっちゃ喜んでた」
「何が?」
「転職うまくいきそうなんだって」
「そう」
「俺が色々相談乗ってた会社」
凛子の手が止まる。
「……相談?」
「うん。業界の話とか」
拓也はソファへ座り、何気なく続けた。
「まあ、ちょっと内部事情も教えたけど」
凛子はゆっくり振り返る。
「内部事情?」
「いや、大したことじゃないって」
拓也は笑った。
「今どこの会社が動いてるとか、その程度」
「それ、話して大丈夫なの?」
「平気平気」
軽い声だった。
あまりにも軽く。
「真央、身内みたいなもんだし」
その瞬間だった。
凛子の中で、静かに何かが定まる。
——ああ。
——終わった。
拓也は、自分で一線を越えたのだ。
社会人として。
会社員として。
そして夫として。
凛子は感情を表に出さない。
代わりに、淡々と聞く。
「会社の情報って、どこまで?」
拓也は警戒もせず答えた。
「次の提携先とか、新規案件とか?」
「それ、守秘義務あるよね」
「だから大袈裟だって」
拓也は呆れたように笑う。
「お前ほんと真面目だな」
凛子は静かに湯呑みを置いた。
陶器が小さく音を立てる。
「もし誰かに知られたら?」
「だから誰にも言わねーって。真央だぞ?」
その“真央だぞ”の意味が、凛子にはもうわからなかった。
信頼?
特別?
それとも、ただの甘さ?
けれどどちらでもよかった。
重要なのは、“証拠になる”ということだけだった。
その夜。
拓也が寝静まった後、凛子は静かにパソコンを開く。
画面の光が暗い部屋を照らす。
凛子はイヤホンを耳へ差し込んだ。
再生。
小さく聞こえてくる拓也の声。
『今うち、大きい案件動いててさ』
『まだ公表前なんだけど』
『真央、転職先探してるだろ? 今この業界動くぞ』
淡々と流れる会話。
数日前、拓也が真央と電話していた時の録音だった。
凛子は静かに停止ボタンを押す。
証拠保存。
フォルダ分け。
日時記録。
冷静な作業だった。
感情は邪魔になる。
数字も、記録も、履歴も。
人間が感情で動くほど、綺麗に残る。
凛子は昔、監査業務で何度も見てきた。
「バレないと思った」
そう言う人間ほど、痕跡を残す。
なぜなら感情は、人を油断させるから。
一方で、壊れた側は冷静になる。
守るものを失った人間は、恐ろしいほど理性的になる。
深夜二時。
外では風が強く吹いていた。
ベランダの手すりが小さく鳴る。
凛子は温くなったコーヒーを飲みながら、静かに目を閉じた。
拓也はまだ気づいていない。
自分がどこまで踏み込んだかを。
そして。
凛子がもう、“許す側”の人間ではないことを。