軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第四話 「悪妻」

第四話 「悪妻」

十月に入ったばかりだというのに、その日は妙に肌寒かった。

灰色の雲が空を覆い、昼間なのに街全体が薄暗い。

凛子は駅前のカフェの前で立ち止まり、小さく息を吐いた。

ガラス窓に映る自分の顔は、思った以上に疲れて見える。

ベージュのロングコートの襟を整えながら、凛子は店内へ入った。

コーヒーの香りと、人の話し声が一気に押し寄せる。

待ち合わせ相手は、高校時代からの友人の由香だった。

「こっちこっち」

窓際で手を振る由香は、キャメル色のニットを着ていた。テーブルにはすでにカフェラテとチーズケーキが並んでいる。

「ごめん、待った?」

「ううん。凛子、大丈夫?」

その言葉に、凛子は曖昧に笑った。

「何が?」

「いや……最近ちょっと元気ないから」

席に座ると、温かな暖房が冷えた指先をじわじわ溶かしていく。

店員が運んできたカフェオレの甘い香りが鼻をくすぐった。

由香は少し言いづらそうに視線を泳がせる。

「ねえ、怒らないで聞いてね」

「うん」

「真央ちゃん、ちょっと可哀想かなって思った」

凛子の指先が止まる。

由香は困ったように笑った。

「この前相談されたんだよね。“凛子さんに嫌われてるみたいで怖い”って」

胸の奥が、すうっと冷えていく。

「……そう」

「いや、私は凛子の味方だよ? でもさ、真央ちゃん結構メンタル弱そうじゃん」

凛子は何も答えなかった。

由香は続ける。

「拓也くんも板挟みで大変そうだったし」

その瞬間、胃の奥が重く沈んだ。

——板挟み?

苦しんでいるのは自分じゃなかったのか。

凛子はカップを持ち上げる。

けれどカフェオレはもうぬるくなっていて、甘さだけがやけに喉へ残った。

その日の夜、拓也の実家へ呼ばれた。

「たまには顔見せなさい」

義母からそう連絡が来たのだ。

住宅街にある藤崎家は、いつ来ても綺麗だった。

玄関には季節の花が飾られ、廊下には微かに線香の香りが漂っている。

義母はエプロン姿のまま笑顔で迎えた。

「いらっしゃい。ご飯できてるわよ」

食卓には煮込みハンバーグ、ポテトサラダ、コーンスープ。昔ながらの家庭料理が並んでいた。

義父はテレビを見ながらビールを飲んでいる。

拓也はすでに席についていて、当然のような顔で言った。

「腹減ったー」

凛子は黙って席へ座る。

食事が始まってしばらくした頃だった。

義母がぽつりと言った。

「真央ちゃん、大丈夫なの?」

凛子の箸が止まる。

拓也は苦笑した。

「最近ちょっと不安定でさ」

「可哀想に……あの子昔から繊細だものねぇ」

義母は心配そうに眉を下げる。

そして次の瞬間、何気ない口調で言った。

「凛子さんも、もう少し優しくしてあげたら?」

空気が止まった。

凛子はゆっくり顔を上げる。

「……私がですか?」

義母は悪気なく笑った。

「拓也は優しいだけなのよ。昔から困ってる人放っておけない子だったし」

「そういう問題じゃ……」

「でも、夫を束縛しすぎるのも良くないわよ?」

凛子の喉が詰まる。

拓也は何も言わない。

庇いもしない。

ただ気まずそうに味噌汁を飲んでいるだけだった。

「真央ちゃん、泣いてたのよ? “私のせいで夫婦仲悪くなったらどうしよう”って」

義母のその言葉に、凛子は理解した。

真央は、自分を“被害者”として周囲へ見せているのだ。

自分は、幼馴染をいじめる冷たい妻。

そういう役にされている。

帰宅後、凛子は静かな部屋で一人ソファに座っていた。

照明を落としたリビングは薄暗い。

キッチンには、朝作ったままのマグカップが置かれている。

拓也はネクタイを外しながらため息をついた。

「今日さ」

「……なに」

「母さん、結構気にしてたぞ」

凛子はゆっくり顔を上げる。

「私が悪いってこと?」

拓也は苛立ったように髪をかき上げた。

「そういう言い方やめろって」

「じゃあどういう意味?」

「真央、精神的に弱ってんだよ」

「だからって」

「だからって何?」

拓也の声が強くなる。

「なんでお前はそんな責めるわけ?」

凛子は言葉を失う。

責めている?

本当に?

自分はただ、夫に自分を見てほしかっただけなのに。

「私は……」

「お前さ、最近本当に変わったよな」

拓也は疲れ切った顔をしていた。

心底うんざりしたみたいな表情だった。

「前はもっと余裕あったじゃん」

凛子の胸が痛む。

余裕。

その言葉が苦しかった。

余裕があったんじゃない。

我慢していただけだ。

寂しくても。

苦しくても。

笑っていただけだ。

「お前といるとさ」

拓也が低く言う。

「息が詰まるんだよ」

その瞬間だった。

凛子の中で、何かが静かに止まった。

涙は出なかった。

悲鳴も。

怒りも。

何も。

ただ、冷たい水が胸の奥へ流れ込むみたいに、感情だけがゆっくり凍っていく。

拓也はまだ何か言っている。

「俺だって大変なんだよ」

「板挟みで」

「少しは理解してくれても——」

でももう、言葉が頭に入ってこなかった。

凛子は静かに立ち上がる。

「……寝るね」

それだけ言って寝室へ向かった。

鏡台の前に座る。

ぼんやり映る自分の顔は、驚くほど無表情だった。

泣いていない。

苦しくないわけじゃない。

でももう、涙を流す場所すら失った気がした。

窓の外では、冷たい雨が降り始めていた。

細い雨音を聞きながら、凛子はそっと目を閉じる。

そして静かに、自分の心へ蓋をした。