軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第二話 「お前は強いから大丈夫」

第二話 「お前は強いから大丈夫」

春先だというのに、その日は冷たい雨が降っていた。

ベランダの窓を叩く雨粒の音を聞きながら、凛子は味噌汁の火を止めた。白い湯気がふわりと立ち上り、出汁と味噌の柔らかな香りがキッチンに広がる。

午後八時。

本当なら、もう拓也が帰ってきてもいい時間だった。

食卓には、鯖の塩焼き、小松菜のおひたし、だし巻き卵。それから、拓也の好きな肉じゃがも並べてある。

どれも少しずつ冷め始めていた。

凛子はエプロンの紐をほどきながら時計を見る。

その時、玄関の鍵が開く音がした。

「おかえり」

声をかけると、拓也が濡れた肩を払いながら入ってくる。

グレーのスーツは雨で少し湿っていて、額に張りついた前髪から水滴が落ちた。

「腹減ったー」

「ちょうど今できたところ」

凛子はほっと息をつく。

こうして普通に帰ってきてくれるだけで安心してしまう自分が、少し悔しかった。

拓也はネクタイを緩めながらテーブルにつく。

「うまそ」

「今日は早く帰れるって言ってたから」

「悪い悪い。部長に捕まってさ」

拓也は箸を伸ばし、肉じゃがを口に入れた。

「あー、やっぱ凛子の飯うまいわ」

その言葉に、胸の奥が少しだけ緩む。

けれど次の瞬間、テーブルの上のスマートフォンが震えた。

拓也が画面を見る。

「あ」

その声だけで、誰かわかった。

真央だ。

拓也はすぐ電話を取る。

「もしもし?」

凛子は黙って湯呑みにお茶を注いだ。

『ごめん拓也、引っ越し業者がまだ帰らなくて……』

甘えるような声が漏れ聞こえる。

拓也が立ち上がった。

「え、まだ終わってないの?」

凛子の動きが止まる。

「……行くの?」

拓也は当然みたいな顔をした。

「だって女一人じゃ大変だろ」

「今から?」

「すぐ戻るって」

その“すぐ”が信用できなくなっていることを、拓也は知らない。

結局その夜、拓也が帰宅したのは深夜二時だった。

「悪い悪い、荷解きまで手伝ってた」

眠気で掠れた声で謝りながら、拓也はベッドへ倒れ込む。

凛子は暗い天井を見つめたまま、小さく目を閉じた。

それから数日後。

休日の昼下がりだった。

カフェオレ色のニットを着た凛子は、ソファで資料を広げていた。以前勤めていた会社の元同僚から、新しいプロジェクトの相談を受けている。

久しぶりに数字へ触れる時間は、少しだけ心を落ち着かせた。

その時、また拓也のスマホが鳴る。

「真央?」

拓也は眉を下げた。

「転職の相談したいんだって」

「今から?」

「ちょっとだけ行ってくる」

凛子は資料から目を上げた。

「……今日、映画予約してたよね」

拓也が「あ」と声を漏らす。

「ごめん。でも真央、かなり落ち込んでるみたいで」

「最近ずっと真央さん優先だね」

言った瞬間、空気が冷えた。

拓也は露骨に嫌そうな顔をする。

「またそれ?」

「また、って……」

「凛子さ、真央のこと敵視しすぎじゃない?」

その言葉に、胸の奥がじくりと痛んだ。

敵視なんてしていない。

ただ、自分の夫がいつも別の女を優先することが苦しいだけだ。

けれど拓也には、それが理解できない。

「お前は強いから大丈夫じゃん」

軽く言われたその一言が、妙に耳に残った。

強いから。

一人でも平気だから。

だから後回しでいい。

そう言われた気がした。

五月に入った頃、凛子は風邪をこじらせた。

朝から熱っぽかったが、拓也は仕事で遅くなると言っていたため、一人で病院へ行った。

夕方には三十九度近くまで熱が上がり、頭がぼんやりする。

暗くなった部屋の中、凛子は厚手のカーディガンを羽織り、毛布にくるまっていた。

エアコンの音だけが静かに響く。

玄関が開いたのは夜九時過ぎだった。

「ただいま」

拓也がコンビニ袋を提げて帰ってくる。

「大丈夫か?」

「……熱、上がっちゃって」

「うわ、顔真っ赤」

拓也は袋からスポーツドリンクとゼリーを取り出した。

「なんか食える?」

「少しなら……」

凛子は弱々しく起き上がる。

喉が焼けるように痛かった。

拓也が珍しく優しい手つきで額に触れる。

「病院行った?」

「うん……薬もらった」

「今日はもう寝ろ」

その声に、少しだけ安心する。

やっぱり拓也は優しい。

そう思いかけた、その時だった。

拓也のスマホが光った。

拓也は何気なくSNSを開く。

次の瞬間、小さく舌打ちした。

「真央、また病んでんな……」

凛子はぼんやりした頭で聞き返す。

「……何?」

「ほら」

拓也が画面を見せる。

『ひとりって寂しいな』

短い投稿だった。

暗い部屋の写真付きで。

拓也は立ち上がる。

「ちょっと様子見てくる」

凛子は理解できなかった。

熱で頭が回らないせいかもしれない。

「……え?」

「すぐ戻るから」

「待って」

思わず声が出る。

拓也が振り返る。

凛子は毛布を握り締めた。

「私、熱あるんだけど……」

「だから飲み物買ってきただろ?」

「そうじゃなくて……」

言葉が詰まる。

苦しい。

惨めだった。

拓也は困ったように眉を寄せた。

「真央、一人なんだよ」

「私は?」

その問いに、拓也はため息をついた。

「凛子は強いじゃん」

静かな一言だった。

けれど、その言葉は熱よりも鋭く胸へ刺さった。

拓也はコートを羽織り、そのまま出ていく。

ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。

部屋が静かになる。

冷蔵庫の低い駆動音だけが聞こえる。

凛子はゆっくり横になった。

視界が滲む。

熱のせいなのか、涙なのか、自分でもわからなかった。

枕元のスポーツドリンクはまだ冷たい。

けれど、その冷たさだけが妙に孤独だった。

窓の外では、雨が降り始めていた。

細い雨音を聞きながら、凛子はぼんやり理解する。

もう自分は。

拓也にとって、“最優先”の相手ではないのだと。