軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第39話 凡人の仕事

赴任十八ヶ月目。

秋。

朝。

目が覚めると、窓の外で子供たちの声がする。噴水の前で遊んでいる。帰還民の子と残留民の子が混じって走り回っている。——もう、区別はつかない。

パンの匂い。マリアが朝の仕込みを始めたらしい。風に乗って、小麦の焼ける匂いが執務室まで届く。

広場に出ると、レイガスが魔動灯を点検している。脚立に登って、光魔晶の出力を確認している。日報帳を小脇に抱えたまま。——もう、「仕様書外」の仕事も自然にやっている。

「レイガスさん。おはようございます」

「……おはよう」

(この男が「おはよう」と返すようになったのは、いつからだったか。最初は無視だった。次に「……ん」になり、やがて「おう」になり、今は「おはよう」だ。——挨拶の進化は、社会性の進化だ)

学校の前を通りかかると、フィーネが窓を開けているところだった。レイガスが壁のひびを確認していた手を止めて、フィーネを見た。

「……フィーネ」

「はい?」

「あの猫。——まだ、持ってるのか」

フィーネがポケットから木彫りの猫を出した。角が少し丸くなっている。毎日握っているからだ。

「お守りです」

レイガスが黙った。壁に手をあてたまま、口が動いた。声が出なかった。もう一度。

「……ありがとう」

フィーネが目を見開いた。——その言葉を、この男が口にするのを、俺は初めて聞いた。

「……捨てなかったんだな。あんな雑な猫」

「雑じゃないです。——これは、レイガスさんがこの領地で最初に作ったものです」

レイガスの口元が、かすかに動いた。笑顔ではない。でも、笑顔の一歩手前だった。

フィーネがその木彫りの猫を、両手で包むようにポケットに戻した。大事なものをしまう手つきだった。帳簿を抱く時と、同じ手つきだ。

(「ありがとう」。——この男がその言葉を返すまで、一年半かかった。フィーネが「ありがとう」と言ったのは、この男が出ていく日だった。あの日と今日では、同じ言葉でも重さが違う。あの日は受け取れなかった言葉が、今日は返ってきた。——言葉が、往復した。行政の書類と同じだ。送って、受け取って、返送されて、初めて手続きが完了する。人の心も、きっと同じなのだろう)

エルザが薬草園で水をやっている。朝露に濡れた薬草の葉が、光を反射している。

「エルザさん。おはようございます」

「おはようございます、ナカムラさん。——今朝、薬草園に新しい芽が出てました。リーザ先生が植えた種です」

「報告書に入れておいてください」

「はい。——四半期報告、今日中に出します」

(四半期報告。——エルザが自発的に期限を宣言した。前世の優秀な部下でも、これができる人間は少ない。自分から締切を切る。それは「仕事が自分のものになっている」証拠だ)

「リーザ先生はお元気ですか」

「はい。昨日も『この薬草は北方の山にしか自生しない』って、嬉しそうに語ってました」

(リーザ先生の薬草愛は相変わらずか)

アルノルドが広場のベンチに座っている。煙草を吹かしながら、子供たちを見ている。

「アルノルドさん。おはようございます」

「おう。——今日は議長の仕事はないぞ」

「知ってます。今日は休息日です」

「休息日に挨拶して回るのは、お前の癖か」

「公務員の習性です」

アルノルドが苦笑した。それから、前を向いたまま、ぽつりと言った。

「……悪くない街になったな」

(アルノルドがそれを口にしたのは、初めてだ。この男の「悪くない」は最上級の褒め言葉だ。——弁当のカブと同じだ)

◇ ◇ ◇

執務室に戻ると、デスクの上に書類が積まれていた。

一番上に、フィーネの来期予算案の素案。二番目に、レイガスの巡回報告書。三番目に、エルザの薬草園四半期報告。四番目に、アルノルドがまとめた五人組からの要望書。

全員が、自分の仕事をしている。

(——自分がいなくなっても回る仕組みを作る。それが公務員の仕事だ。俺はそう思って赴任してきた)

フィーネの予算案を開いた。

(予算案を開いた。——一年半前、帳簿を開いて三秒で閉じた。今日は、三十秒見つめた。足りない箇所を探したのではない。足りない箇所が見つからなかったからだ)

次期予算案には新しい柱が追加されていた。

柱六——「住民自治費」。

寄合の運営費、五人組の連絡費、議事録の保管費。全部入っている。——俺が教えていない項目だ。フィーネが、自分で考えて、自分で追加した。

(三本柱を五本に拡張した子が、今度は六本にした。——この子は、もう俺がいなくても予算を組める)

レイガスの巡回報告書を開いた。巡回中に住民から「ありがとう」と声をかけられた、と書いてあった。事実のみ。感想なし。だが、書いたこと自体が感想だ。

最後の行に、一文だけ追記されていた。「グリフォンは、もしかしたらオフ会に来てくれていたのかもしれない。俺が行かなかっただけで」

(「ありがとう」を記録し、同じ日に「受け取れなかった過去」にも向き合った。——この男は、受け取り方がわからなかったのではない。受け取ってもいいと、自分に許可が出せなかっただけだ。今日、許可が出た)

◇ ◇ ◇

午後。フィーネが執務室に入ってきた。

「ナカムラさん。来年の作付計画なんですが」

「はい」

「三圃制を、四圃制に移行したいんです」

「四圃制?」

「はい。前に教えてもらったクローバーです! あれを組み込んで、休む区画をなくすんです。小麦、カブ、大麦、クローバーの四つで回せば、地力が落ちないって——ナカムラさんの農業の覚書に詳しい手順が書いてあったので!」

(クローバーの使い方は以前教えた。それを覚えていて、さらに俺のメモから四圃制というシステム化の手順を自分で見つけた。——この子は、もう「教わる」段階を超えている。「学ぶ」段階に入った)

「フィーネ様。四圃制の移行計画書を作ってください」

「はい!」

「条件が二つあります。一、アルノルドさんと農業の実務者に事前に相談すること。二、来年度予算案に必要な費用を組み込むこと」

「わかりました。——あ、計画書のフォーマットは、予算案と同じでいいですか」

「同じで構いません」

フィーネが走っていった。——まだ走る。この子は、嬉しい時に走る癖が直らない。

(走っていく背中を見る。——一年半前、ボロボロの帳簿を抱えて泣きそうだった子が、今は「四圃制の移行計画書を作る」と言って走っている。……成長なんて言葉では足りない。これは、革命だ。静かで、地味で、誰にも気づかれない革命だ。——でも、俺の目にはちゃんと見えている)

◇ ◇ ◇

夕方。

執務室の窓から、広場を見下ろす。

噴水がきれいな水を吐き出している。排水溝は詰まっていない。子供たちが噴水の前で遊んでいる。パンの匂い。魔動灯が一つずつ点灯していく。レイガスが巡回を始めたのだろう。

フィーネが学校に向かっている。明日の授業の準備だ。小脇にメモ帳と、新しい計画書の紙を抱えている。ポケットからは木彫りの猫の角が、少しだけはみ出していた。

この街は回っている。

デスクの上に、フィーネの四圃制移行計画書の表紙だけが置いてあった。

表紙の下に、メモが一枚。

「ナカムラさんへ。四圃制、来年が楽しみです。——フィーネ」

その横に、小さな猫の絵。メモ帳に描かれた「きろくのねこ」と同じ猫。万年筆を持っている。

来年か。

(来年。——前世なら、来年にはもう異動していたかもしれない。「お世話になりました」の紙コップ一杯で、次の部署に行って、また一から仕組みを作って、また去る。三十二年、それを繰り返してきた。一度も、「ここにいたい」と言ったことがない。異動の辞令に逆らったこともない)

(でも——)

窓の外で、魔動灯が灯る。レイガスの巡回ルートに沿って、一つ、また一つ。灯りが灯るたびに、通りを歩く住民の影が長く伸びた。その影が、別の影と重なった。帰宅する親子だ。子供が笑っている。

(ここでは、誰も俺に「お世話になりました」とは言わない。代わりに「来年が楽しみです」と言う。——来年も、ここにいることが前提の言葉だ)

(ツクヨさんに聞かれた。「本当に不要なのか、それとも、ただ怖いだけなのか」と。——正直に答えよう。怖くない。怖かったのは「ここにいたい」と口にすることだった。前世では、居場所を作っても、そこに自分を置く勇気がなかった。異動のたびに、「仕組みが完成したから」と自分を騙した。——全部、言い訳だ)

(最後の異動の日、上下水道課の後輩が紙コップのコーヒーを渡して「お世話になりました」と言った。俺は「こちらこそ」と答えた。本当は「もう少しいたかった」と言いたかった。言わなかった。——あの紙コップの温度を、まだ覚えている)

(ここにいたい。——三十二年分の異動を経て、初めて、そう思う)

(来年が楽しみだ。——俺も)

デスクの上の湯のみが、まだ温かかった。付箋に「おつかれさまです」と書いてある。猫の絵つき。

俺はその付箋を、台帳の表紙の裏に貼った。——はがれないように、丁寧に。

台帳を閉じようとして、やめた。明日も開くのだから。

窓を開けた。

夕焼けの向こうに、来年の作付けに向けて深く耕された、豊かな黒い土の畑が広がっている。来年には、あの黒土が四つの区画に分かれて、クローバーの緑が混じるだろう。

風が吹いた。秋の、少し冷たい風。畑の土の匂いと、遠くのパンの匂いが混じっている。

凡人の仕事は、地味だ。

チートのように空を飛べない。剣聖のように敵を斬れない。勇者のように世界を救えない。

できるのは、台帳を作ること。予算を組むこと。日報を読むこと。席を混ぜること。名前を呼ぶこと。パンを運ぶこと。種を蒔くこと。——そして、来年を楽しみにすること。

この街は回っている。

凡人が作った仕組みで。

窓の下を、フィーネが走っていった。メモ帳を抱えて。——まだ、走っている。

噴水の水音がした。——あの日、枯れていた噴水が、今は子供たちの笑い声と一緒に鳴っている。

明日も、この窓を開ける。

「チートで荒らされた領地に赴任したら、前世が地方公務員だったので普通の行政で立て直すことにした」完