軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第26話 一人プレイの終わり

——俺の名前はレイガス。

前世の名前は覚えていない。覚える必要がなかった。誰にも呼ばれなかったから。

——いや、違う。母親は呼んでいた。「ごはんよ」と。俺は返事をしなかった。ドアの前に置かれた皿を、母親がいなくなってから取る。毎日それだけの接触だった。

◇ ◇ ◇

前世。俺はニートだった。

高校を中退して、以来ずっと部屋の中にいた。六畳一間。カーテンは閉めっぱなしで、昼と夜の区別がない。モニターの光だけが世界の全部だった。

RPGだけが俺の世界だった。ソロプレイ特化。パーティーは組まない。NPCの仲間すら外す。一人のほうが効率がいい。一人のほうが気を遣わなくていい。レベルを上げて、装備を揃えて、ボスを倒す。その繰り返しが心地よかった。誰にも邪魔されず、誰も待たせない。

唯一のオンラインフレンドがいた。ハンドルネームは「グリフォン」。深夜のチャットで攻略情報を交換するだけの関係だったが、三年間続いた。

グリフォンは俺のプレイスタイルを笑わなかった。「ソロで全クリとか、すげーな」と言ってくれた。嘘か本気かわからなかったが、嬉しかった。——嬉しいと感じたことに、自分で驚いた。人の言葉で嬉しくなるなんて、忘れていた感覚だった。

ある日、グリフォンがオフ会に誘ってきた。

『今度の土曜、秋葉原で飯でも食わないか。話してみたいんだよ、リアルで。別に重い話じゃなくて、ゲームの話とか』

——行けなかった。

行きたくなかった、のとは違う。行き方がわからなかった。電車に乗る方法は知っている。秋葉原の場所もわかる。でも、「人に会う」という行為の手順がわからなかった。何を着ていけばいいのか。何を話せばいいのか。沈黙になったらどうすればいいのか。目を合わせるタイミングは。笑うタイミングは。「また会おう」のイントネーションは。

全部わからなかった。RPGには選択肢が出る。「はい」か「いいえ」を選べばいい。でも現実には選択肢が出ない。台本がない。ガイドがない。チュートリアルがない。

返事を打った。

『ごめん、その日は用事がある』

用事はなかった。部屋の中にいただけだ。カーテンの隙間から差す光を見ていた。土曜日の昼下がり。秋葉原は混んでいるんだろう。グリフォンは一人で飯を食ったのだろうか。それとも、行かなかったのだろうか。

グリフォンは何も言わなかった。次の日もチャットに来て、いつも通り攻略情報の話をした。——そして一週間後、ログインしなくなった。二度と。

最終ログインのメッセージが残っていた。『じゃあまた。いつでもいいから、気が向いたら飯行こうぜ』

——いつでもいい、と書いてくれた。

「いつでもいい」はずだった。でも俺は、一度も「気が向い」たことにしなかった。気が向かなかったんじゃない。向いていたのに、向いていないふりをした。

◇ ◇ ◇

異世界に転生した時、俺はチートをもらった。

剣聖タイプ。あらゆる武器を使いこなし、魔法で土地を開墾し、ダンジョンを一人で攻略できる能力。

最高だった。

——最高だと、思った。

前世で一度も味わったことのない「万能感」が、ここにはあった。剣を振れば魔物が倒れる。魔法を使えば土地が開ける。ダンジョンを潜ればレアアイテムが手に入る。何でもできた。何でも一人でできた。

一人で何でもできた。誰にも頼らなくてよかった。誰とも関わらなくてよかった。ダンジョンに潜って、魔物を斬って、戦利品を持ち帰る。それだけで領地は回る——と思っていた。RPGと同じだ。モンスターを倒して、宝箱を開けて、街に戻る。それだけでいいはずだった。

住民が怯えていることに、気づいていた。畑が焦げていることも、排水溝が詰まっていることも。子供が噴水の前を通るたびに走り去ることも。でも、気づかないふりをした。そういうのは、俺の仕事じゃない。俺は「戦う」担当だ。

——嘘だ。

本当は、どうしていいかわからなかっただけだ。住民に話しかける方法がわからなかった。「何か困っていますか」の一言が出なかった。グリフォンに「その日は用事がある」と嘘をついたのと、何も変わらない。

一人で全部やるのは、誰とも関わらずに済む装置だった。

倉庫で猫の木彫りを彫った。夜。一人。魔動灯の薄い光の中で。——前世で3Dモデリングを独学した。ゲームのキャラクターを自分で作りたかったからだ。結局プロにはなれなかったが、立体の形を頭の中で回す感覚だけは残っていた。チートの力じゃない。前世の、誰にも褒められなかった趣味だ。何を作っているのか自分でもわからなかった。ただ、手が動いた。——あの猫は、グリフォンのアバターに似ていた。猫耳のグリフォン。くだらないカスタマイズだったが、あいつはそれが気に入っていた。

◇ ◇ ◇

——飽きた、と言って出ていった。

飽きてなんかいない。逃げたのだ。自分が壊したものを見るのが、耐えられなくなったから。

フィーネが「ありがとう」と言った。

あの子だけは、怯えずに俺を見ていた。小さな手でボロボロの帳簿を抱えて、そばかすの散った頬で笑って。——あの笑顔が、一番きつかった。

俺はあの子の目をまっすぐ見られなかった。あの子が「ありがとう」と言うたびに、俺の中で何かがきしんだ。グリフォンの『じゃあまた』と同じだ。返せない言葉を投げられている。感謝されるようなことは、何もしていない。畑を焼いた。水を汚した。住民を怯えさせた。それなのに「ありがとう」。

半年、あてもなくさまよった。ダンジョンをいくつか回った。魔物を斬った。でも、どのダンジョンも同じに見えた。いつからか、剣を振る腕が重くなった。

ある町の宿で、商人が噂話をしていた。

「ヴァレスティア公領が復活しているらしいぞ。噴水が直って、排水溝がきれいになって、パンの匂いがする街に戻ったんだと」

「誰が直したんだ? あそこはチートの後始末で誰も手を出さなかったろう」

「新しく赴任した行政官がいるらしい。チートなしの。凡人枠だとか」

——チートなしで、あの領地を。

心臓が跳ねた。チートなしで、俺が壊したものを直した人間がいる。

止められなかった。足が、あの領地に向かっていた。途中で何度も引き返そうとした。俺が戻ったら迷惑だ。住民が怖がる。フィーネが困る。——でも、足が止まらなかった。

戻ってきたら、噴水が回っていた。水がきれいだった。排水溝から悪臭がしなかった。子供が笑っていた。噴水の前で、怯えずに遊んでいた。

——俺がいた時には、なかった風景だ。

これを作ったのが、「凡人枠」の行政官だという。チートなしの、普通の行政で。

(……俺は、何をしていたんだ。チートで何でもできたはずなのに。——いや、何でもできたから、何もしなかったのか)