軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 公爵領の残骸

翌朝。フィーネが用意してくれた執務室で、俺は領地の現状を紙に書き出した。

公領の名はヴァレスティア公領。リオガル王国配下。

建国期から続く由緒ある名門——だが、辺境の小領。「公爵」の爵位は家格と歴史への敬意によるもので、実際の国政への発言力は乏しい。

「フィーネ様。いくつか確認させてください」

「は、はい」

フィーネは対面の椅子に正座のように座っていた。帳簿を膝に抱えている。

「この領地の旧人口は」

「父の記録では……約三万人です」

「今は」

「五千人、くらいだと思います」

八割以上が離散。公爵領の名が泣く数字だ。

フィーネが、正座の膝の上で帳簿をぎゅっと抱え直した。帳簿の角が顎に当たっている。またこの構えだ。初日もこうだった。不安な時は帳簿を盾にする癖があるらしい。

(帳簿を抱きまくらにするな。いや、公爵令嬢に「抱きまくら」は失礼か)

「離散の経緯を聞かせてください」

フィーネが視線を落とした。

「三年前に、A級チート転生者のレイガスさんが赴任しました。父が亡くなった直後で……叔父様が手配してくださったんです。当初は順調で、魔物の討伐やダンジョン攻略で領地に金が入って——」

「チートの力で一気に回したわけですね」

「はい。でも、レイガスさんは……全部自分でやってしまう方で。住民の仕事がなくなって、だんだんと人が離れていきました。そして二年前にレイガスさんが飽きて去ったあと——」

「チートに依存したインフラが全部止まった」

「……はい」

フィーネの声が小さくなった。

「ご両親は」

「母は——私が小さい頃に病気で。父は私が十歳のときに急死しました」

十歳で孤児同然の領主。教育係もなく、側近は「チートがいるなら不要」と解雇された。

「摂政の方はいらっしゃるんですよね」

「叔父様は……王都にいます」

フィーネはそれだけ言って黙った。

その沈黙が、すべてを語っていた。

(形式上の後見人。毎月の書簡は「特に問題なし」の定型文だけ。上司が現場に来ないのは、前世と同じだな)

「レイガスの派遣も、叔父上が手配を?」

「はい……。叔父様が王宮にお願いしてくださったと聞いています」

(問題を理解せずに、とりあえずチートを送り込んだわけだ。前世で言えば、予算を付けずにコンサルだけ呼ぶパターン)

「なるほど。状況は把握しました」

俺は紙に五つの項目を書き出した。フィーネが対面から身を乗り出し、逆さまの文字を必死に読もうとしている。首が九十度に傾いている。

「フィーネ様。こちら側に来て読んでください」

「あ、はい!」

椅子ごと横に移動しようとして、椅子の脚がデスクに引っかかった。がたん。帳簿が落ちた。メモ帳も落ちた。ペンが転がった。

「す、すみません!」

(悲惨だが、動こうとしたこと自体は評価する)

一、上下水道——ルーン噴水停止。浄水結界なし。住民は川の水を直接飲んでいる。

二、農業——チート転生者の土魔法で焼かれた土壌。作物が育たない。

三、税制——住民台帳なし。税の記録は徴税官の記憶頼み。二重課税と横領の温床。

四、衛生——排水溝が詰まり、街中に汚水。ゴミの収集システムなし。

五、治安——魔物除けの結界がレイガスの魔力頼み。周辺に小型魔物が出没。

フィーネが五つの項目を見て、目を見開いた。

「こ、こんなにあるんですか……」

「三十二年の社会人生活で、これより多い課題を抱えた部署もありました」

「三十二年……。ナカムラさん、おいくつなんですか?」

「見た目は三十六歳です。中身は五十六歳です」

「……どっちですか」

「どっちもです」

フィーネは困った顔をしたが、メモ帳に「ナカムラさん 36さい(56さい??)」と書いた。疑問符が二つ付いている。妥当な反応だ。

「フィーネ様。今日は領地を歩きます。人口、建物の状態、住民の暮らしぶり——自分の足で見ないと始まりません」

「わ、わかりました。案内します」

◇ ◇ ◇

領地を歩いて回った。

最初に気づいたのは、住民の反応だった。

フィーネと俺が通りを歩くと、住民たちは戸口から顔を引っ込める。すれ違っても目を合わせない。子供だけが好奇心で振り返るが、親に手を引かれてすぐに連れ去られた。

「……皆さん、いつもこうですか」

「はい。レイガスさんがいた頃は——レイガスさんに近づくと、たまに巻き込まれて怪我をする方がいて。それから、みんな転生者を怖がるようになりました」

(学習性無力感だ。何度も嫌な経験をすると、「何をしても無駄だ」と思い込む。動物実験で有名な概念だが、人間にも起きる。この領地の住民は、チートに振り回され続けた結果、権力者に近づくこと自体を避けるようになっている)

「フィーネ様ご自身には」

「……私にも、あまり。お恥ずかしい話ですが」

十三歳の少女領主。両親を失い、側近も去り、摂政は不在。住民との信頼関係もない。

(この子は——誰にも頼れなかったんだな。「由緒ある名家」の名前だけが、重くのしかかっている)

南区に差しかかった。

道の端にパン屋がある。看板は出ているが、扉は閉まっていた。

「あのパン屋は」

「マリアさんのお店です。小麦粉が手に入らなくて、もう半年以上焼いていないと思います」

記憶にメモする。パン屋。マリア。再開の可能性あり。

東区では、倒壊した家屋の瓦礫がそのまま放置されていた。危険だが、片付ける人手がない。

北区では、魔動灯が全滅していた。夜は真っ暗らしい。

「光魔晶が切れているだけなら、交換すれば点くはずです。——先ほどの倉庫に在庫はありませんか」

「さっき見た帳簿には——あ、帳簿がないんでした」

「明日、倉庫の棚卸しをしましょう」

「た、棚卸し?」

フィーネが小さなメモ帳を取り出して、まじめな顔で「たなおろし」と書いた。

(メモを取る。いい性格だ。教わっていないだけで、素質はある)

夕方、執務室に戻った俺は、一日の所見を紙にまとめた。

「フィーネ様」

「はい」

「この領地は——壊れてはいません」

「え?」

「壊れていたら、五千人も残っていない。人がいるということは、暮らしがある。暮らしがあるということは、直せるということです」

「でも、チートがないのに——」

「チートがなくても。いいえ、チートがないからこそ、直せるんです」

フィーネは不思議そうな顔をしていた。

だが、メモ帳にはしっかり「チートがないからこそ」と書かれていた。

その隣に小さく「(なぜ?→あした聞く)」と追記されている。

(メモに質問まで書くタイプか。……前世の新人研修でこういう子がいたら、上司は大喜びだ)

ふと見ると、メモ帳の別のページが開いていた。こっそり覗く——と、箇条書きで「ナカムラさんについてわかったこと」と書いてあった。

・チートなし

・丁寧語

・排水溝に詳しい(?)

・帳簿を三秒で読む(こわい)

・優しいかもしれない(まだわからない)

(人物観察もしているのか。……「こわい」は少し傷ついたが)