軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 凡人枠、荒廃領に立つ

死んだのは、市役所のトイレだった。

五十六歳没。脳出血。

健康診断の「要再検査」を三年連続で無視した結果だ。再検査に行く暇がなかった。正確に言えば、再検査の予約を入れようとするたびに住民課の窓口が修羅場になって、後回しにしていた。

民間企業で十二年。三十六歳で社会人経験者採用の試験に受かって公務員に転じ、そこから二十年。都市計画課に始まり、税務課、上下水道課、住民課——異動のたびに「地味ですね」と笑われ、「公務員って楽でいいよな」と言われ続けた人生だった。

最後の仕事が「トイレの個室で意識を失うこと」だったのは、公務員としていかがなものかと思う。

——気がつくと、真っ白な空間にいた。

これは、何だ。死後の世界か。それとも、意識が消える前の幻覚か。

周囲を見回した。安っぽいカウンターが一脚、雑に積まれた書類、飲みかけの紙コップ。——待合室? いや、窓口か。

事務的な死後の世界だな。市役所の窓口と大差がない。

——待てよ。これ、もしかして。

俺が勤めていた市役所の近くに、あるラノベ作品の聖地になった書店があった。休憩時間にふらっと寄ったとき、「この辺のお勤めですか? 最近は異世界転生ものが人気で」と店員に勧められて、一冊だけ買ったことがある。死んだら異世界に飛ばされて、神様からチートとかいう、とんでもなく強力な能力をもらって大活躍(無双、というらしい)するやつ。面白かったが、まあフィクションだと思っていた。

まさか、自分が当事者になるとは思わなかったが。

「はいはい、ご愁傷様でした」

目の前のカウンターに座っていたのは、とんがり帽子に星柄マントの青年。手には「MAGIC」と刺繍されたチープな杖。

「転生窓口の担当、ツクヨです。……この衣装は上層部の指定なので突っ込まないでください」

「はあ」

「さっそくですが、中村さんの案件です。今、辺境の公爵領から人材の要請が来ておりまして」

「辺境の公爵領?」

「ええ。異世界です。剣と魔法のファンタジー。——で、そこの領地が、ちょっと問題を抱えてまして」

ツクヨが書類をめくった。目の下にクマがある。神様も過労らしい。親近感がすごい。

「何年か前にA級チート転生者を送り込んだんですよ。剣聖タイプの。そしたら——」

「そしたら?」

「魔物は片っ端から斬って、ダンジョンは力づくで攻略して、土地は魔法で無理やり開拓して——で、飽きたらふらっといなくなった」

「……迷惑な人ですね」

「ちなみに、その転生者の前世はニートのゲーマーです。RPGのソロプレイ特化型。人生で一度も税金を払ったことがない」

「一番行政に向いてないタイプじゃないですか」

「ええ。でもA級チートなので、上層部は通しちゃうんですよね。戦闘力さえ高ければ何とかなるだろうって。——なりませんでした」

ツクヨが苦い顔をした。

「ところで中村さん。ヴァレスティアという家名なんですが」

「初耳です」

「建国期から続く名門なんですがね。辺境防衛の要として王家から公爵位を賜った由緒ある一族です。——ただ、実態は辺境の小領でして。『爵位だけが立派な小領』というのが王都での評判です」

「名家でも人が少なければ回らないでしょう。公務員の数は人口に比例しますから」

「話が早い。——で、先代の急死後、十三歳のお嬢さんが継いだんですが、教育係もいない、側近も解雇された。形式上の摂政はいるんですけど、王都に住み着いてまったく動かない叔父さんでして」

(上司が現場に来ないパターンか。前世でも見たことがある)

「A級チートの後始末って、いつもこうなんですよ。派手にぶっ壊すのは得意なくせに、維持管理には一切興味がない。——で、凡人枠の人にフォローを頼むしかない」

「凡人枠というのは」

「チートなしの転生枠です。特殊能力は付与されません。ただし、前世の知識と経験はそのまま持ち越せます」

ツクヨが宙に光る文字を浮かべた。

『中村修一 前世:地方公務員(民間12年+公務員20年) 付与チート:なし 補助スキル:言語理解(標準装備のみ)』

「……本当に何もないんですね」

「予算がないんです。A級に使いすぎて。——正直に申し上げますと、中村さんへの期待値は低いです。上層部的には『まあ、現地で死なない程度に頑張ってくれれば』くらいの温度感でして」

「死なない程度」

「ええ。でも——」

ツクヨが少しだけ真面目な顔をした。

「個人的には、あの領地に必要なのはチートじゃないと思ってます。チートで壊れた場所を、チートで直すのは無理です。必要なのは——」

「普通の仕事、ですか」

ツクヨが目を瞬いた。

「……話が早いですね」

「三十二年やってきましたから。民間も合わせれば。上下水道の修繕も、住民台帳の整備も、税務の適正化も——やり方は知ってます。地味ですけど」

「地味、結構です。では、行ってらっしゃい。——ああ、その前に一つ」

「なんですか」

「チートは付与できませんが、転生時の身体調整は標準サービスに含まれてます。五十六歳没、少し不摂生気味だったようですし——二十歳ぶん、若返らせておきますね。凡人枠も勇者枠も全員同じ調整です。差がつくのは身体ではなく、中身のほうですから」

「……は?」

「三十六歳の健康な身体でお届けします。肩こりも腰痛もなし。老眼もリセット」

「それはチートとは言わないと思いますが」

「健康な身体は最強のスキルです。——あ、それと」

「まだあるんですか」

「この衣装は私の趣味じゃありませんからね。次に会う時までに着替えの予算が通ることを祈っています」

「二回も言わなくていいです」

ツクヨが「上層部への要望書」と書かれた紙を一枚だけ見せた。『制服デザインの刷新について(第47回)』。四十七回目。採用される気配はなさそうだ。

(神様の業界もブラックなのか……)

光が溢れた。

◇ ◇ ◇

目を開けると——悪臭がした。

壮絶な悪臭。

生ゴミと下水と動物の糞が混ざったような、鼻の奥を直接殴られるような臭い。

(——本当に来たのか。異世界に)

自分の手を見た。皺がない。腰が痛くない。視力がクリアだ。——三十六歳の身体、というのは本当らしい。あの書店で買ったラノベの展開が、現実になった。

俺は石畳の広場に立っていた。

周囲を見回す。

——ひどい光景だった。

建物は半壊したものが多く、屋根のない家も目立つ。道の真ん中に排水溝があるが、完全に詰まっていて、茶色い水が溢れている。

(古代ローマのクロアカ・マキシマ——下水道は文明の基盤だ。紀元前六世紀から排水の重要性を理解していた連中がいたのに、チート転生者はそれすら知らないのか)

広場の中央にはルーン噴水があるはずだが、完全に停止していた。浄水結界が切れているのだろう。水が腐り、緑色の藻が覆っている。

畑は——あるにはある。だが、土が妙に焦げている。

(魔法で無理やり耕したのか。土壌の微生物も養分も全部吹き飛ばしてる。前世の知識では、土壌の回復には数十年から数百年かかる。まずは三圃制だ。畑を三つに分けて、一年目は小麦、二年目は豆、三年目は何も植えずに休ませる。休ませている間に土の養分が回復する——中世ヨーロッパの農民が何百年もかけて確立した、地味だが確実な方法だ。チートで壊したものは、チートでは直せない。時間と手間をかけるしかない)

通りを歩く住民たちは、やせ細り、疲れ切った顔をしていた。子供が水たまりの汚水で遊んでいる。

俺とすれ違っても、誰も目を合わせない。横目でちらりと見て、すぐに伏せる。

(A級チートが暴れて、飽きて去った後——か)

チート転生者がいた頃は、魔法で全部回していた。浄水も害虫駆除も開墾も。全部一人で。

だが、その一人がいなくなれば——すべてが止まる。

(魔王よりタチ悪いだろ、これ)

「——あの、もしかして」

声がした。か細い、でも必死に張った声。

振り向くと、少女が一人立っていた。

ツクヨから渡された資料には「領主フィーネ・ヴァレスティア、十三歳、先代急死により十歳で家督相続」とあった。資料の活字から想像していたのは、もう少し気丈な少女だった。

——目の前の子は、十三歳のはずだが、もっと幼く見える。肩まで伸びた赤毛は泥仕事のあとに払った手で雑に束ねていて、結び目から毛先がはねている。そばかすの散った頰は日に焼けて、貴族より農家の子に見えた。大きな琥珀色の瞳が、不安と決意の入り混じった光でこちらを見つめている。

服装は貴族の令嬢のものだが、裾が泥で汚れ、袖口はインク染みだらけだ。手にはくたびれた帳簿を何冊も抱えていた。小さな身体には重そうで、肩が少し傾いている。

目の下にクマがある。ツクヨと同じ過労の顔だ。——資料の活字と、目の前のこの子が、うまく繋がらない。

「転生者の方……ですか? その、神托があって——『今日、広場に新たな転生者が降り立つ』と」

(神托。ツクヨの仕事か。預言書というより、人事異動の内示みたいなものか)

「ナカムラ・シュウイチです。——あなたが領主様ですか」

「は、はい。フィーネ・ヴァレスティア。この公領の——一応、領主です」

フィーネは俺を上から下まで見た。その目に、期待と不安が混ざっている。

「あの……チートは?」

「ありません」

「……え」

「凡人枠です。剣も振れません。魔法も使えません」

フィーネの顔から血の気が引いた。その帳簿を抱える手が、かすかに震えていた。

「で、でも——前の転生者の方は、聖剣が使えて——」

「前の方がいなくなったから、こうなったんですよね?」

「……はい」

「じゃあ、同じタイプが来ても、また同じことになりますよ」

フィーネが口をつぐんだ。

抱えていた帳簿を、ぎゅっと胸に押し当てた。帳簿の角が顎に当たっている。本人は気づいていない。

(……泣くな。泣くなよ。情は移さない。自分が去った後でも回る仕組みを作る。それが仕事だ)

俺は広場を見回した。詰まった排水溝。止まったルーン噴水。焦げた畑。どれも放置された課題だ。前世なら五つの部署に分けて同時進行するレベルだが、ここには部署もなければ職員もいない。

「フィーネ様。まず現状を把握させてください。台帳はありますか」

「だ、台帳?」

「住民の名簿です。名前、住所、家族構成、職業——」

「そういったものは……レイガスさんが、頭の中で全部管理して」

(頭の中で管理。最悪のパターンだ。その一人がいなくなったらすべて消える)

「では、帳簿を拝見できますか」

「え? これ……ですか? 今期の税収記録ですけど——」

受け取り、最初のページを開いた。

——三秒で閉じた。

「ひどいですね」

「え?」

「同じ住民から二回税を取ってます。住所の記載がないから誰から取ったか本人にしか分からない。合計額も合っていない。——これは帳簿じゃなくて、メモ帳です」

フィーネの顔が真っ赤になった。

「す、すみません! 前の転生者の方が『税金とか面倒だから適当でいい』って——」

フィーネが帳簿をひったくるように取り返して、両手で抱きしめた。ボロボロの表紙が壊れそうなくらい、ぎゅっと。

「こ、これでも頑張って書いたんです……! 父が残した帳簿を真似て——」

(父の帳簿を? ——つまり、教わったわけでもないのに、独学で書いていたのか。公爵家の令嬢なら、本来は家庭教師が付いて、帳簿の書き方も礼儀作法も一通り叩き込まれるはずだ。それが——独学。言い換えれば、「教えてくれる大人」が一人もいなかったということだ)

「フィーネ様。その帳簿、捨てないでください」

「え? ひどいって言ったじゃないですか」

「中身はひどいです。でも、独学でここまで書こうとしたこと自体はすごいです。——直し方を教えますから、一緒にやりましょう」

フィーネの目がじわっと潤んだ。慌てて帳簿で顔を隠す。帳簿の隙間から、鼻の頭が赤くなっているのが見えた。

「……はい。お願いします」

俺は止まったルーン噴水を見た。

「チートは一日で奇跡を起こせますが、一日でいなくなります。行政は一日では何も変わりませんが、十年後も二十年後も動き続けます」

フィーネが噴水を見た。排水溝を見た。焦げた畑を見た。

その目に——何かが宿った。

「……お願いします、ナカムラさん」

「では、明日から始めましょう。まず必要なのは——」

「なんですか?」

「あなたの足と目です。領地を歩いて、見て回ります。一緒に来てもらえますか」

「わ、私がですか?」

「領主ですから。この領地のことを一番知っているのは、あなたのはずです」

フィーネが泣きそうな顔をした。が、小さく頷いた。

(よし。——まずは歩くところからだ)