作品タイトル不明
第59話 歴史の残響と、極東の悪魔の決意
鋭利な破片が皮膚を切り裂き、赤い血がポタポタとデスクの上に滴り落ちる。だが、私はその痛みに顔をしかめることすらなく、モニターに映し出された『赤い線で四分割された日本地図』を、極寒の瞳で睨みつけ続けていた。
「……ボス、お怪我が」
傍らに控えていた橘玲奈が、すぐに救急箱を手に歩み寄ってきた。
彼女は私の手から無言で陶器の破片を取り除き、消毒液を含ませたガーゼで手際よく傷口を拭っていく。
「すまない、玲奈。……少し、力が入った」
「いいえ。彼らのあの醜悪な皮算用を聞かされれば、怒りを覚えるのは当然です」
玲奈は包帯を巻きながら、氷のような冷たい声でモニターの大国たちを蔑んだ。
「イージス社を排除した後の、利権の分割。そして日本という国家の分割統治による永遠の隷属化。……彼らの頭の中にあるのは、常に自分たちが支配者であるという傲慢な前提だけです」
「ああ、その通りだ」
私は包帯を巻かれた右手を軽く握り込み、痛みが確実に存在することを確かめた。
その痛みは、私が今、過去の無力な幻影ではなく、血の通った現実を生きているという何よりの証だった。
私の脳裏には、前世の2065年の光景が、まるで昨日のことのように鮮明にフラッシュバックしていた。
日本の近海資源を強奪するために結託した、アメリカ、中国、ロシア、欧州連合。
彼らは『平和維持』という大義名分を掲げ、私が開発した衛星投下型爆弾『神の 雷(トール・ハンマー) 』を使って日本の主要都市を火の海に変えた。
政府機能が崩壊し、無政府状態に陥った日本列島へ、彼らは何万という軍隊を送り込んだ。そして、スイスの古城で彼らが引いたあの『赤い線』と全く同じように、日本を四つの領域に分割し、同胞たちの富と尊厳を徹底的に蹂躙したのだ。
爆心地となった新宿のマンションで、声を発する間もなく炭と化した、愛する娘のサチコと孫のユウキ。
私はアメリカの地下研究所のモニター越しに、燃え盛る祖国の空を悠々と飛び交う大国どもの軍用機を見上げ、己の傲慢さと無力さを呪って自ら命を絶った。
「……大国どもは、一ミリも進化していない」
私は、低く、這うような声で呟いた。
前世では「日本の資源」を奪うために手を組んだ彼らが、今世では「イージス社という特異点」を排除するために手を結んだ。
私がどれほど未来の知識で防壁を築こうとも、彼らの軍事プロジェクトを自滅に追い込もうとも、歴史の修正力は、大国どもを再び『最終同盟』へと向かわせた。
大義名分が変わっただけで、彼らが人類の総意として結託し、極東の島国を暴力で叩き潰しに来るという『歴史の 結末(ゴール) 』は、一ミリも変わっていなかったのだ。
「……だが、一つだけ違うことがある」
私は立ち上がり、壁面に展開された宇宙空間の軌道図と、地球全体を覆う監視網のデータを見上げた。
「今の私には、彼らの希望を根底からへし折るだけの『力』がある」
前世の私は、ただの利用される老学者に過ぎなかった。
だが今世の私は違う。世界の経済を意のままに操る莫大な資金力、すべての情報を筒抜けにする『神の目』、そして宇宙から絶対的な死を突きつける『神の雷』。
これらすべてのトリガーは、私の手の中にのみ存在している。
「ヴィクトル、クリス。聞こえているな」
私が暗号化回線に向けて声を放つと、モニターの分割画面に二人の腹心の姿が映し出された。
『はっ、ここに』
『おう、ボス。いつでもやれるぜ』
「大国どもが立案した『G4・極東制圧シナリオ』の全容は完全に把握した。彼らは三ヶ月後、太平洋上で大規模な合同軍事演習を行い、我が社の衛星網にジャミングをかける。そしてその通信の死角を突き、四ヶ国合同の特殊部隊を日本国内へ降下・潜入させる計画だ」
私は、冷酷に作戦の要点を整理し、彼らに絶対零度の命令を下した。
「ヴィクトル。お前の率いる 暗殺部隊(シャドウ) に、これまでの監視任務から『迎撃態勢』への完全移行を命じる。彼らが事前に日本国内へ潜伏させる連絡員、武器の隠匿場所、ダミー会社の拠点を、すべて『神の目』で特定し、マーキングしておけ」
『……泳がせるのはここまでとし、作戦決行日に合わせて一網打尽にするのですね』
ヴィクトルの火傷の痕が残る顔に、獰猛な狼の笑みが浮かぶ。
「そうだ。連中が宇宙へのジャミングを開始し、作戦の成功を確信して特殊部隊を動かしたその瞬間……日本国内に潜むすべてのネズミの巣穴を強襲しろ。イージス本社、深海プラント、そして私の家族の半径十キロ以内に、武装した敵対者を一人たりとも生存させるな」
『御意。大国どもの特殊部隊が、いかに時代遅れの脆弱な存在であるか。我がシャドウの精鋭たちが、物理的にお教えいたしましょう』
「そして、クリス」
私は、モニターの向こうで血走った目をギラつかせている狂気の天才へ視線を向けた。
「彼らの作戦の根幹は、太平洋上に集結させる『G4の全航空戦力と艦隊』による絶対的な武力威嚇だ。彼らは最新鋭の電子戦機とステルス戦闘機で空を埋め尽くせば、私を屈服させられると信じている」
『ヒャッハー! 笑わせるぜ! 電波でジャミングをかけるなんざ、狼煙を上げて通信してるような原始時代のアプローチだ!』
クリスは腹を抱えて嗤った。
「彼らが演習という名目で空へ飛び立ち、意気揚々とジャミングを開始したその瞬間に……お前の創り上げた『神の雷』の力を見せつけてやる。プラズマ電磁パルス(EMP)照射のターゲット・ロックオンを準備しろ」
『任せとけ、ボス! 太平洋上のG4艦隊の上空、高度一万メートルを飛ぶ航空機群の座標は、常に計算し続けてる! ジェネレーターの出力を極限まで絞って、プラズマのEMPだけをピンポイントで照射すれば、地上の民間人には一切被害を出さずに、空を飛んでる最新鋭のオモチャの電子頭脳だけを一瞬で黒焦げにできるぜ!』
クリスがキーボードを叩くと、メインモニターに太平洋のシミュレーションマップが展開された。
宇宙空間の『神の雷』から放たれる不可視のパルスが、空を飛ぶ無数の戦闘機群に降り注ぎ、すべての機体がコントロールを失って海面へと墜落していく映像。
「パイロットの命は奪うな。機体だけを全滅させろ」
私は、冷徹に付け加えた。
「彼らを皆殺しにすれば、それはただの虐殺となり、大国どもは『殉教者』を掲げて狂信的な聖戦に突入してしまう。……私が求めているのは殺戮ではない。彼らが国家の威信と莫大な予算を懸けた最強の兵器が、私の前ではただの『空飛ぶ棺桶』に過ぎないという、絶望的な無力感の植え付けだ」
『わかってるぜ、ボス。 射出座席(イジェクションシート) のアナログな火薬機構までは焼かねえよ。……連中のエリートパイロットどもには、自慢のステルス機が鉄屑に変わって海に落ちていく様を、パラシュートに揺られながら特等席で見物させてやるさ!』
「頼んだぞ。……玲奈、彼らの作戦データをすべてメインフレームに回せ。クリスとヴィクトルの迎撃システムと完全に連動させる」
「了解しました。……G4合同作戦の予測ベクトル、すべて抽出完了」
玲奈の指が滑らかにキーボードを叩く。
コントロールルームの巨大モニターに、大国が三ヶ月かけて実行するはずの軍事シナリオが、無数の赤い矢印となって日本へ向かう映像が展開される。
そして数秒後、イージス社のスーパーコンピュータが、それをすべて叩き潰すための『迎撃アルゴリズム』を完成させた。
『――カウンター・プロトコル、構築率100%。全防衛システム、スタンバイ』
無機質な電子音だけが、静まり返った部屋に冷たく響き渡る。
「……完璧だ」
私はレザーチェアに深く腰掛け、目を閉じた。
脳内のナノマシンを通じて、遥か四百キロメートル上空で待機する『神の雷』のジェネレーターの、微かな鼓動が伝わってくる。
太平洋上空でのEMP照射準備。そして日本国内での防衛網の再構築。
イージス社とヴァルハラの持つすべての機能が、目前に迫る『国家の総力戦』に向けて一切の無駄なく組み上がっていく。
大国どもは、自らが引いた四分割の日本地図を見て、勝利の美酒に酔いしれているだろう。
だが、彼らが思い描く未来は、永遠に訪れることはない。
歴史の修正力が生み出した最悪の同盟は、私が放つ宇宙からの見えざる光によって、彼らの傲慢な心ごと完全に粉砕されるのだ。
サイバー・コントロールルームのモニター群が、青白い光を明滅させながら、粛々と膨大なデータを処理し続ける。
そこには、高ぶった感情も、不要な言葉も存在しない。
歴史の修正力と、極東の悪魔。
相容れない二つの運命が激突するその日に向け、絶対の自信に裏打ちされた静かなるカウントダウンだけが、無慈悲に時を刻み続けていた。