作品タイトル不明
第37話 世界同時のサイバー侵攻と、量子防壁の絶対領域
極東の島国が黄金の海を開き、世界のエネルギー覇権が崩壊し始めたその裏側で、人類史上かつてない規模の「見えない戦争」が火蓋を切ろうとしていた。
中国、北京。国家安全部(MSS)地下サイバー司令室。
「――目標、東京・六本木のイージス・イノベーションズ本社メインサーバー。世界中に仕掛けた五千万台のボットネット、 一斉起動(アクティベート) 完了しました。国家級スーパーコンピュータの演算リソースも接続済みです」
数百人のハッカーたちがひしめく薄暗い部屋で、作戦指揮官が血走った目でモニターを睨みつけていた。
「よろしい。深海プラントの制御コードを奪取し、神盾宗一という男からすべてを奪い取れ! 総攻撃(DDoS)開始!」
同じ頃、ロシア、モスクワ。連邦保安庁(FSB)サイバーテロ対策本部。
「中国の部隊が動き出しました。凄まじいトラフィックです」
「ふん、粗暴な力技だな。我々はあの隙を突く。中国の攻撃でイージスのサーバーが処理落ちを起こした瞬間に、独自のゼロデイ(未発見の脆弱性)攻撃プログラムを流し込み、深海プラントを制御不能の暴走状態に陥らせろ。……極東の海を、死の海に変えてやるのだ」
ロシアの司令官は、ウォッカのグラスを傾けながら冷酷な命令を下した。
そして、この混乱を地球の裏側から傍観しているだけの国ではなかったのが、アメリカ合衆国だ。
メリーランド州、国家安全保障局(NSA)本部。
「長官、中露のサイバー部隊がイージス社への総攻撃を開始しました」
「馬鹿どもめ。極東の企業一つに、国家の威信をかけてムキになりおって」
NSAの長官はせせら笑いながら、部下に指示を出した。
「だが、これは好機だ。イージス社の防壁が中露の攻撃で手一杯になっている隙に、我々もこっそりとバックドアから侵入し、彼らの持つ次世代技術の特許データや、宇宙開発の設計図を根こそぎコピーしてこい。彼らが我々の通信網を支配する前に、首根っこを押さえるのだ」
中国の暴力的な飽和攻撃。ロシアの破壊工作。アメリカの狡猾な情報窃取。
イージス・イノベーションズというたった一つの民間企業に対し、世界を牛耳る超大国のサイバー部隊が、一斉にその牙を突き立てたのだった。
* * *
「――ボス。来ました」
東京、六本木ヒルズ。
イージス・イノベーションズ本社の地下深くに構築された、巨大なサイバー・コントロールルーム。
防音ガラスの向こうで無数のサーバーラックが青白い光を放つ中、ヴァルハラのサイバーセキュリティチームを統括するチーフが、緊張と興奮の入り混じった声を上げた。
「現在、中国方面からのトラフィックが急増。秒間数テラビットという、観測史上最大規模のDDoS攻撃です。さらに、その通信の裏に隠れるようにして、ロシアとアメリカからの高度な侵入プログラムが、当社のファイアウォールの脆弱性を探るように這い回っています」
「ご苦労。……だが、無駄な努力だ」
私は特注のレザーチェアに深く腰掛けたまま、壁一面に展開された世界地図のモニターを冷徹に見つめていた。
地図上には、赤、青、白の光線が、世界中から日本(東京)の一点へ向けて雨霰のように降り注いでいる。通常であれば、いかなる巨大企業のサーバーであろうと一瞬でパンクし、すべてのデータが引き抜かれるか破壊される絶望的な光景だ。
だが、私には何の焦りもない。
私の胸の奥にあるのは、家族の平和な日常を土足で踏みにじろうとした大国への、底知れぬ静かな怒りだけだ。
物理的な刺客を送り込んできただけでなく、今度はサイバー空間から私の会社とプラントを破壊しようとする。その傲慢さが、歴史の分岐点を超えても変わらないことに、私は深い絶望と、確かな殺意を抱いていた。
「チーフ。防壁の状況は?」
「まったく問題ありません。稼働率わずか三パーセントです」
チーフが、自信に満ちた笑みを浮かべて答える。
当然だ。彼らが相手にしているのは、2016年のIT技術などではない。
私が五十数年先の未来から持ち込み、構築した『量子暗号アルゴリズム』と『多次元AIによる動的ファイアウォール』だ。
現代のハッキング技術は、膨大なデータを送りつけて処理を麻痺させるか、プログラムの構造的な 穴(バグ) を突くという手法に依存している。
しかし、我が社のファイアウォールは、攻撃を受けた瞬間にAIが自らのプログラム構造を『秒間数千回』の速度で自己書き換えを行い、常に形を変え続ける。さらに、外部からの不正なアクセスは量子レベルで暗号化・遮断されるため、パスワードの解読はおろか、扉の鍵穴を見つけることすら不可能なのだ。
「中国のボットネットの攻撃は、すべて虚空のダミーサーバーへ誘導され、文字通りブラックホールに吸い込まれています。ロシアの破壊プログラムも、侵入した瞬間に論理迷路に閉じ込められ、自壊しました。……アメリカのNSAに至っては、入り口の扉をノックした瞬間にハニーポット(囮)に捕まり、身動きが取れていません」
オペレーターたちが、次々と無慈悲な結果を報告する。
世界最高のハッカーたちが何万人がかりで棍棒を振り下ろしても、未来の防壁には傷一つ、かすり傷すらつけられない。
「さて、ただ防御して終わりでは、彼らも学習しないだろう」
私はゆっくりと立ち上がり、コントロールデスクへと歩み寄った。
「彼らは自分たちの安全な本国から、キーボードを叩くだけで私からすべてを奪えると考えている。……その傲慢な首根っこに、見えないナイフを突き立ててやる必要があるな」
「 逆流(リフレクション) ですね、ボス」
チーフが、悪魔のような笑みを浮かべてキーボードに指を走らせた。
「そうだ。彼らが全力で攻撃を仕掛けてきている今、彼ら自身のサーバーとの間には太く確固たる『通信の道』が築かれている。……その道を利用させてもらう」
私はモニターに映る中南海、クレムリン、そしてペンタゴンの位置を示すポイントを冷酷に睨みつけた。
「我が社の防壁をほんの少しだけ下げ、彼らの攻撃プログラムを内部に『招き入れろ』。彼らが『突破した』と錯覚して歓喜した瞬間に、そのプログラムに未来の逆探知アルゴリズムを 寄生(パラサイト) させ、そのまま彼らの本国の中枢ネットワークへと送り返せ」
「了解しました。……セキュリティレベル、一時的に低下。囮の制御コードを敵のパケットに噛ませます。……食いつきました! 中露米の部隊が、一斉にデータを引き抜こうと帯域を全開にしています!」
「愚か者どもめ。……道は開いた。行け」
私が冷徹に命じた瞬間。
イージス社の地下に眠る、未来の演算能力を持ったスーパーコンピュータが、静かに、だが圧倒的な暴力性をもって牙を剥いた。
攻撃トラフィックの逆流。
中露米のハッカーたちがイージス社から「盗み出した」と思い込んで持ち帰ったデータは、彼らの本国の最高機密ネットワークの内部で、瞬時に凶悪な『トロイの木馬』へと変貌を遂げた。
現代のセキュリティソフトでは絶対に検知不可能な未来の自己増殖型ウイルスが、国家のファイアウォールを内側から食い破り、軍事システム、情報機関のデータベース、そして首脳陣の個人的な通信記録まで、あっという間にその根を張り巡らせていく。
「――侵入完了しました。ペンタゴン、クレムリン、中南海。三大国の最高機密ネットワークへの『マスター 権限(バックドア) 』、完全に掌握しました」
チーフの報告が、静寂のコントロールルームに響き渡った。
「ご苦労。……これで、極東の狩り場の最終幕の舞台は整った」
私は、完全に制圧を示す緑色に染まった世界地図を見上げ、極寒の笑みを浮かべた。
物理的な暴力で私の家族を脅かそうとした彼らから、今度は私が、彼らの国家そのものの『命殺与奪の権』を握り潰した瞬間だった。