軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

後編

貴族街に異変が訪れたのは、それからほどなくしてのこと――

最初は些細な違和感に過ぎなかった。井戸水の味が変わった、湧水に薄く膜が張っている。そんな話題が広がるうちに煮沸しても腹を下す者が増えた。下町では井戸を封鎖する家が出始め、飲み水を買い求める列が伸びていった。

「最近、水が臭うのよ。とても飲めたものじゃないわ」

「前はこんなことなかったのに……」

王都上層、しかも貴族街ともなれば水路は完璧に整備されているはずだった。治水も浄水も、長年をかけて築き上げられた王国の誇りだ。それにもかかわらず、なぜ今になって。

やがてそれは噂となり、噂は騒ぎへと変わる。

役人は原因究明に走り、神殿は祈祷を行い、王城には陳情が相次いだ。だが、明確な答えは出ない。水質は徐々に悪化し、病に倒れる者は確実に増えていった。

一方で、奇妙な報告も上がり始めていた。

貧民街の水が澄んでいる。悪臭が薄れ、咳き込む者が減った。井戸の水を飲んでも腹を壊さなくなった、と。

「そんな馬鹿な話があるか」

「治水が進んでいるのは、上層の方だぞ」

はじめは誰も信じなかった。

だが報告は重なり、やがて無視できない数になる。憲兵が視察に赴き、記録係が水を汲んで戻ってきた。

結果は王室にとって不都合なものだった。

同じ王都の中で、貧民街の水質の方が明らかに良好だったのだ。

にもかかわらず、その原因は分からない。

浄化の加護を得た娘は、確かにアウレリア家へ戻っている。ならばその恩恵を受けてしかるべきはずなのに――

そのアウレリア家はというと、深い混迷の中にあった。

「まだ見つからないのか!」

怒声が、天井の高い居間に叩きつけられる。

声の主はエヴァン。身なりこそ整えているものの、頬はこけ、目の下には濃い影を落としている。何度目になるかも分からない報告を最後まで聞くことすらできず、苛立ちを隠しもせずに拳で机を打った。

「貧民街はもう何度も調べました。しかし有力な情報は――」

「だったら手掛かりを得るまで探して来い! 金はいくらでも出せと言ったはずだ!」

使用人たちは一斉に視線を伏せる。穏やかで、次期当主然としていたエヴァンの変貌に誰もが戸惑いを隠せずにいる。

それもこれも『偽物の娘』とされたレイチェルが姿を消したことに端を発していた。

エヴァンは昼夜の区別なく捜索を命じ、時には自ら外套を羽織って街へ出た。貴族としての体裁も、次期当主としての立場もすべてかなぐり捨てて。

「ああ、レイチェル……まさか、こんなことになるなんて……」

「どうしてレイチェルは勝手に出て行ってしまったんだ? 視察の日にちは伝えていたはずだろう!」

ソファに身を沈めたアウレリア夫妻もすっかり憔悴しきっていた。セリーヌは項垂れたまま放心し、その肩を抱くテオドアの腕にも力はない。

その様子を横目に、エヴァンは机に手をついたまま喉の奥から絞り出すように呻いた。

「レイチェル……一体、どこへ行ってしまったんだ……」

その焦燥に満ちた背中を、ためらうように見つめる視線があった。シンディだ。彼女は嘆きに沈む室内をぐるりと見渡して、やがて意を決したように小さく息を吸った。

「……あの、エヴァン兄さん。あたし……見てしまったの」

エヴァンが振り返る。こうして真正面から顔を合わせるのは、屋敷に迎え入れられた日以来かもしれない。

彼は彼女をアウレリア家に迎え入れる姿勢こそ見せたが、決してシンディに心を開こうとはしなかった。常に一線を引き、上辺だけの態度で接していたのだ。

そのエヴァンが、今は見たこともないほど感情を露わにしている。

思わず怯みそうになりながらも、シンディは唇を噛みしめて言葉を繋いだ。

「レイチェルがいなくなった翌日。アネッサ義姉さんが……この屋敷の人じゃない男と話しているのを」

「……何だと?」

「裏口の方で。金の話をしていたわ。『殺し損ねたのだから、これ以上は出さない』って……」

息を呑む音が、誰のものとも分からずに響いた。

「シンディ、あなた――」

セリーヌが咎めるように名を呼ぶが、彼女は必死に首を振る。

「嘘じゃない。あたし、怖くて……だってあいつらは貧民街でも汚れ仕事を引き受けるような、一番質の悪いゴロツキだもの。どんなに見た目を変えても、あんな歩き方をする奴はこの辺りにはいないはずよ」

シンディの言葉に部屋の空気が凍りつく。エヴァンが軋むような音を立てて、ゆっくりとアネッサへと振り向いた。

「……アネッサ。今の話は、本当か?」

「あら……盗み聞きだなんてはしたないこと。でも誤解よ。そんなこと私が言うはずないじゃない」

「それならば、シンディが嘘を言っているというのか」

「そうよ。だって本当にそんな話を聞いたのなら、すぐに誰かに言うべきでしょう? きっと気を引きたくて言い出したのよ。最近は皆、レイチェルさんのことばかりですもの」

「すぐに言えなかったのは、あたしも分からなかったからよ!」

そう。シンディは分からなかったのだ。

レイチェルが消えるという不幸は偶然だったのか。

それとも――

「だって……この家の人たち、皆、レイチェルの扱いに困ってるみたいだったから……それが貴族のやり方なんだって思ったの。必要なくなった人はそうやって始末するものなんだって」

「始末って……!」

「貧民街じゃよくある話よ。邪魔になった子どもは追い出すか、金で売るか、殴り殺すの。だから貴族は遠回しにそうするんだって思ったの」

シンディは顔を上げる。

その瞳は、怯えと後悔を滲ませていた。

「でも……父さんも母さんも、兄さんだって……こんなに悲しんでる。だから違うって思ったの。これは、家族の総意じゃないんだって」

ぎゅっと拳を握る。

「……もっと早く言えばよかった。……ごめんなさい」

俯いたシンディをテオドアが抱きしめる。その疑念に満ちた瞳はアネッサに向けられた。

「アネッサ。説明を」

「……嫌だわ。まるで私が悪者みたいじゃありませんか」

悪びれるでもなく、アネッサは微笑を深めた。

「男と話したのは本当よ。でも相手は王城から派遣された兵士さん。事情を聴きに来てくださったから、まだ見つからないとお伝えしただけです」

「嘘よ! 城の兵士は、人の家の庭に唾なんて吐かないわ。あたし見たもの。一緒にいた庭師さんだって!」

シンディがこの屋敷に来たばかりの頃、貧民街で当たり前のように目にしてきた光景は、貴族社会では「はしたないもの」だと教えられた。まるでこれまでの人生を否定されたような気がして不貞腐れてしまったシンディに、少し困ったような顔をしながらも根気強く諭してくれたのがレイチェルだった。

だから分かる。城の兵士が、そんな真似をするはずがないということを。

実際、そばにいた庭師もその様子を訝しんでいた。

だが彼は面倒事を嫌い、結局は口を噤んだ。それを見てシンディもまた、沈黙を選んだのだ。

追い打ちをかけるような告発に、アネッサの整った眉がぴくりと動く。完璧だったはずの微笑が引き攣り、それでもなお、彼女は取り繕うように口角を持ち上げた。

「……私は、汚れ仕事を引き受けてあげただけですわ。鈍臭いばかりか血筋さえも分からない娘。いつまでも置いておけば家の恥になるでしょう? 養女として迎え入れる素振りも無かったということは、きっとそういうことだと思ったんです」

「何を言っているの……? レイチェルが家の恥だなんて、そんなわけないでしょう?!」

セリーヌの激昂に、シンディも思わず目を見張る。淑女の鑑として知られる彼女が、これほど声を荒げる姿を目にするのは初めてだった。

事実、セリーヌはレイチェルを愛していた。シンディと同じように。いや、それ以上に。

少し臆病で、少し要領の悪い娘。失敗すれば人知れず肩を落とし、それでも必死に周囲に追いつこうとする。その健気ささえも愛おしい、かけがえのない大切な娘だった。

だが同時に、セリーヌはシンディのことも大事にしたかった。貧民街で苦労しながら育ったという彼女のことも、レイチェルと同じようにきちんと愛してあげたかった。

だから家族で話し合い、ひとつの結論に辿り着いたのだ。

――シンディが王室入りするまでの間は、彼女に少しだけ多くの時間と愛情を注ぐこと。その間、レイチェルへの配慮とフォローはエヴァンが引き受ける、と。

『母上からは言いづらいでしょう。私に任せてください。レイチェルには、私から上手く伝えておきますから』

仲の良い兄妹だった。

そう信じていたからこそ、セリーヌは安心してエヴァンに任せたのだ。

レイチェルも了承してくれたと、エヴァンは確かに言っていた。

それなのに。

「いいんですよ、お義母様。そんなに取り繕わなくたって。もう、気を遣う相手はいないんですから」

アネッサはどこか憐れむような表情で、くすりと笑った。あまりにも軽やかな声音に、セリーヌは一瞬、何を言われたのか理解できずに言葉を失う。従順で控えめだったはずの嫁の変貌に、ただ戸惑うばかりだ

「あんな娘……もう、どうでも良くなったのでしょう? だって本当の娘が戻ったのですから。しかも加護を持った奇跡の娘が」

慈愛に満ちた響きを含ませながら、彼女は言葉を重ねた。

「お義母様もお義父様も、これでやっと気兼ねなく、シンディさんだけを愛してあげられますわね」

その笑顔は、あまりにも穏やかで。

まるで自分は何ひとつ悪いことなどしていないと、心の底から信じ切っているかのようだった。

「それに、そんなに私ばかりを責めないでくださいませ。……私はエヴァンの代わりを務めただけに過ぎないのですから」

「なんだと? それはどういうことだ!」

「誰があの護衛を手配したか……お忘れですか?」

どこか勝ち誇ったようにアネッサは笑い、身じろぎ一つしないでいるエヴァンの体にそっとしなだれかかった。

「……私も驚きましたわ。でも、この人を責めないであげてくださいな。エヴァンも板挟みにあって苦しんでいただけなんです」

「エヴァン……! どうしてレイチェルを!」

今度はテオドアの怒声が響く。

「お前が! レイチェルを殺すように命じたというのか!」

「そんなわけがないでしょうが!!」

張り詰めた糸が切れたように叫ぶと同時に、エヴァンは机の上の書類や置物を一息に薙ぎ払った。ガシャン、と鈍い音が響き床に何かが砕け散る。遅れて誰かの小さな悲鳴が響いたが、そんなことはお構いなしにエヴァンがアネッサを突き飛ばした。

「アネッサ。確かに私はレイチェルにつけた護衛に命じた。丁重に、私の用意した屋敷に連れて行くようにと。それなのにお前は、何をしたんだ!」

「……本当に嫌になるわ。全部この家の……あなたのためを想ってのことだったんですけれどね」

彼女はそう吐き捨てると、洋装のポケットから一枚の紙を取り出して躊躇なく放り投げた。

四つ折りにされたそれは空を切ってひらひらと舞い、やがて絨毯の上に沈む。

「夫が大罪を犯そうとしたのですから、妻の務めとして私が正して差し上げたまでのこと。……それの何が悪いと言うのかしら?」

テオドアが拾い上げた紙は、簡素な地図だった。

だがそこに引かれた赤い線は、憲兵の巡回路を巧みに避け、裏路地だけを繋ぎ合わせた歪な経路を描いている。

その余白には、短く、感情の欠片もない文字が並んでいた。

――指定の刻限までに、指定の場所へ。

――傷一つ付けるな。

それを読み取った瞬間、テオドアの顔から血の気が引いた。

「……これは……」

「ああ、悍ましい!」

言葉を遮るように、アネッサが甲高い声を上げる。

震える指でエヴァンを指差すその瞳には、憤りと嫌悪が渦巻いている。

「実の兄妹として育ちながらふたりで陰でこそこそと……! この私というものがありながら!」

彼女は息を荒げたまま、まくしたてる。

「こんなことが公になればアウレリアは指を差されるでしょう。血の繋がりがないからと言って、世間がそれを許すわけがありませんもの。……だから、私が手を回しました。あの娘さえいなくなればエヴァンも諦めがつくでしょうから。そうすれば、あなただって私のことを――」

「……ふざけるな……」

地を這うような低い声が、エヴァンの喉から零れ落ちる。

「私が愛したのは、昔からずっと……レイチェル一人だ……!」

顔を上げたその瞳には、狂気にも似た光が宿っていた。

「血の繋がりなどという下らないしがらみから、ようやく解放されたというのに……! この薄汚い女が、私のレイチェルを……!」

「お前は……! だからあの子を養女にすることにも、あんなに反対していたのか!」

レイチェルとの養子縁組の話が持ち上がるたび、エヴァンは静かに首を振ってきた。

今は、その時ではない、と。

シンディの気持ちを思うのなら、もう少し様子を見るべきだ、と。

「当たり前じゃないですか。せっかくウィンストン家との婚姻もなくなったというのに。養女として正式に迎えれば……また、どこに嫁がされるとも分からない」

「……なんということなの……」

セリーヌが、蒼白な顔で声を震わせる。

『レイチェルのことは私に任せて、父上と母上はシンディに気を配ってやってください』

その真摯な言葉を信じたというのに――

「十八年も兄妹として過ごしてきたではありませんか! 妹に対して貴方はなんてことを……!」

「理屈の話じゃないんですよ、母上。それに……私は当主としての立場も、きちんと理解していたつもりです。幼いころからずっと、自分を律してきたのですから。だからあなた方も気付かなかったではありませんか」

物心ついた頃から、ずっと。

ずっと、ずっと好きだった。

盲目的に自分を信じるその姿も。

劣等感に苛まれながらも、それでも必死に努力を重ねる姿も。

己の価値に気付かぬ、その哀れさすらも。

――ずっと、愛していたのだ。

近親婚が禁忌とされるこの国で、血の繋がりがないと知ったとき、どれほどの喜びに打ち震えたことか。

だが同時に、これまでの関係性を思えば、両親も世間もふたりの仲を許すはずがないことも分かっていた。法が許しても、倫理が許してはくれないと。

ましてや万が一にも彼女の能力が公になれば、レイチェルはたちまち手の届かぬ存在になってしまう。

……それならば仕方ない。

彼女は死んだものとして扱い、密かに用意した屋敷で囲う。

それが最善であり、ふたりの未来のためには必要な選択だと、そう結論づけた。

これでようやく彼女を手に入れられると思ったのに。

それなのに、レイチェルが待っているはずの屋敷へ何度足を運んでも、彼女は現れなかった。

待てど暮らせど姿はなく、かといって、この家に戻ってくる気配もない。

清廉に育てられたエヴァンは知らなかったのだ。

金に目が眩んだゴロツキが、容易く雇い主を裏切るということを。

政略結婚だと割り切っていたはずの妻が、抑えきれない嫉妬心をレイチェルに募らせていたことも――

壁に掛けられた剣へと、エヴァンの手が伸びる。

その動きが何を意味するのかアネッサはすぐには理解できず、ゆらりと不自然に揺れるその背中を、ただ呆然と見つめていた。

「無知で……愚かで……それでも可愛い。私だけの、レイチェル……」

低く、これまでに聞いたこともない陶酔した声。

――まずい。

そう思った時には、もう遅かった。

小さな悲鳴が喉からこぼれ、アネッサは思わず一歩後ずさる。

足が縺れ、扇を取り落とした音がやけに大きく室内に響いた。

「……あなた、落ち着いてください」

声が震える。

必死に、いつもの微笑みを貼り付けようと顔を歪ませる。

「私が……私が、間違っていましたから……どうか、ゆるして……!」

その言葉は確かに心からのものだった。

アネッサは見誤っていたのだ。

エヴァンの、レイチェルに対する想いの深さを。

「――そのレイチェルに、お前は!」

エヴァンが、腕を振り上げる。

悲鳴が上がり、何かが割れる音が、屋敷に響き渡った。

その日、アウレリア家で起こった顛末は――

偽りの娘が姿を消し、次期当主の妻が瀕死の重傷を負って運び出されたという形で社交界の噂に上った。

名門アウレリア家に何が起きたのか。

閉ざされた屋敷と、忽然と消えたままの令嬢はどうなったのか。

憶測と悪意を孕んだ囁きは、人々の口を駆け巡った。

けれど、それも長くは続かなかった。

第五王子が暗殺されたからだ。

血と陰謀の匂いを帯びたその報せは貴族たちの関心を一瞬で塗り替えて、皮肉にも、アウレリア家を襲った不幸は取るに足らぬ話題として押し流されたのだった。

*

貴族街では水が濁り、貧民街では水が澄む。

姿を消した少女を探す男が街を彷徨い歩き、残された本物の娘は、力が著しく減退した手を見つめて混乱していた。

「……どうして。あたしは加護を持っているはずなのに、どうして何も起きないの……」

シンディの祈りは応えを返さない。

それでも彼女は、血塗られた屋敷を後にしたアウレリア夫妻の庇護のもとで、静かに暮らしている。

自分の手の届く範囲だけ、空気をわずかに清めながら。

一方で、王国の外れへ向かう街道は静かなものだった。

ネスは荷を背負い、隣を歩く少女の歩幅に合わせて歩いている。舗装はまばらだが、足取りは軽い。少し離れた場所では、先ほど少女が祈りを捧げていた小川がさらさらと音を立てて流れていた。

ネスは足を止め、川面を覗き込む。澄んだ水が陽光を反射して煌めき、手を浸せばひんやりと心地よく、水底まではっきりと見通せた。

――やっぱりな。

誰に語るでもなく独りごちる。

貴族街の水が濁り、貧民街の水が澄んだ理由など、最初から分かりきっている。

答えは今、隣を歩いているのだから。

ネスは視線を横にやった。

レイチェルは、まだ自分の加護の価値を正しく理解していない。ただ「水をきれいにするだけ」と思い込み、どこか申し訳なさそうにすらしている。兄だという男――エヴァンとやらに刷り込まれた言葉を、疑うこともなく信じたまま。

『王都では治水が進んでいるから、この力は不要なものなんだ』

『この程度の力だと知られたら、アウレリア家が侮られるかもしれない』

『だから隠した方がいい。……誰にも言ってはいけないよ』

ぽつりぽつりと語られた言葉の数々を思い出し、ネスは舌打ちを噛み殺した。

レイチェルの加護は『水の浄化』だ。

整備が進んだ貴族街では価値が見えにくいかもしれないが、治水が行き届かず、放置され続けた場所では命そのものになる力と言えよう。

だからこそ、王室に知られれば囲われる。

その価値をエヴァンも即座に見抜いたからこそ、彼は隠したのだろう。レイチェルという存在を、誰の手にも渡さないために。

そこにどんな感情があったのかまではネスには分からない。だが、理由はなんとなく分かってしまう。

隣を歩く少女はどこか儚げで、守ろうとした者の手を知らず知らずのうちに絡め取ってしまう――そんな危うさを秘めていた。

ネスは歩きながら、ふと空を見上げた。

……この世界を創り出したのは、三つ子の女神だったか。

それならば、加護を持つ者が三人いたとしても何らおかしな話ではない。

シンディの加護は『空気の浄化』だった。

だから、誤解された。

シンディは強力な加護を持っていると。

貧民街を救った、奇跡の娘だと。

……その傍にいた保護者気取りの男には、何の価値もないのだと。

ネスは『増幅』という、単体では何の役にも立たず、他者の力があって初めて意味を持つ半端な加護を持っていた。

シンディの能力が過大に評価されたのも、傍にネスがいたからに過ぎない。

だが、それを口外するつもりはなかった。せっかく貧民街で育ったのだ。政争に巻き込まれるのは、真っ平ごめんだった。

もしかしたら、女神の暇つぶしとされた入れ替わりも、女神なりにレイチェルの身を案じてのことだったのかもしれない。

もし彼女が貧民街で生まれ育っていたなら――能力が芽生えたその瞬間に、きっと諍いに巻き込まれていたことだろうから。

レイチェルのことは、アウレリア家だから守れた。

エヴァンのやり方はともかくとして、あの家が彼女の庇護者たり得たのは事実だったのだ。

……それならば最初から入れ替わりなどせずに、シンディに強大な加護を与えておけばよかったものを。

その理不尽さこそが、女神の暇つぶしと呼ばれる所以なのかもしれない。

答えの出ない問答を胸の奥へ押し込み、ネスは、遠く離れた王都を見つめるレイチェルの手をそっと取った。

「……行こうぜ。お前の力を必要としてる連中が、あちこちで待ってる」

レイチェルは少し驚いたように目を瞬かせ、それから恥ずかしそうに、小さく頷いた。

「はい」

彼女は、まだ何も知らない。

自分がどれほどの価値を持つのかも。

どれほど歪んだ愛情に晒されていたのかも。

それでいい、とネスは思う。

馬鹿な男の偏愛も、王都の混乱も、もう追ってはこない。

――だから、もう大丈夫だ。

少なくとも俺は、彼女の価値を見誤らない。

誰かさんの代わりに生き長らえたのも、きっと彼女と出会うためだったのだから。

ネスは小さく嗤い、彼女の手を引いて歩き出した。

王都はまだ、この混乱の本当の理由を知らない。

ただ、各地の貧しい村々では――

ふたりの旅人が訪れると井戸水が甦り、喜びに沸く人々を前にして、彼女は幸せそうに笑っていた。