軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

前編

隙間風が吹き込む襤褸い小屋の中。

粗末な椅子に座らされたレイチェル・アウレリアは、使い古しのマグを両手で包みながらぼんやりと床を眺めていた。

「……なるほどな。だから、アウレリア家は金を出さないと。そういうことか」

壁に寄りかかる男の問いかけに、レイチェルは小さく頷いた。

なにせ護衛として付けられた男に殺されそうになったのだ。ネスと名乗ったこの青年に間一髪で救われこそしたものの、彼の口にした「謝礼」など、到底望めるはずもない。

「あの、せっかく助けていただいたのに、本当にごめんなさい……」

「あぁ……いや、いいんだ。謝礼なんて冗談だったしな。でもまさか、天下のアウレリア家でそんな騒動になってるなんて思わなかった」

頭を掻き、困ったように呟くネスにレイチェルは何も返せなかった。

貴族街ではそれなりに話題になっていたのだが、ここまで話が届くことはなかったのだろう。貴族の家の醜聞など、日々を生き延びるのに精一杯なこの場所では噂する余裕さえないはずだ。

刃傷沙汰も日常茶飯事なのだろう。

事実、レイチェルはこの貧民街の奥で殺されかけたのだが、その騒動が憲兵の耳に届いた様子はなかった。

*

王都に激震が走ったのは、つい先日のこと。

王室の覚えもめでたい名門アウレリア家に『強力な女神の加護を持つ本物の娘』が帰還したという話は、数日もすれば社交界では知らぬ者もいないほどに広まった。

「まさか生まれてすぐに入れ替えられていたなんて……」

「でも、こう言ってはなんですけれど、お一人だけ毛色が違いましたよね」

「女神様もなんて酷なことを。ご当主様はどうなさるおつもりなのかしら?」

この世界の祖である三つ子の女神。彼女たちは慈愛深く残忍で、何よりも気まぐれだと言われている。だから、生後間もない貴族と平民の子が入れ替わるような出来事が起こっても、『いつもの女神の暇つぶし』として理解され、誰もその事自体に疑問は抱かなかった。

なにせ女神たちは何の前触れもなく特別な加護を授けることもあるのだ。

時には無双の力を授かった幼女が戦争を一日で終わらせたことがある。時には幸運を与えられた奴隷が金の鉱脈を見つけ出した例もある。

その力は計り知れず、いつからか加護を持つ者が現れれば、王室に囲われるのが通例となっていた。

それならばアウレリア家の娘として育てられたレイチェルはどうなのかといえば――慎ましく物静かな何の変哲もない貴族令嬢であった。強いて言うなれば、アウレリアの人間にしては華がない。そんな評価だろうか。

それでも彼女は両親から慈しみ深く育てられてきた。兄のエヴァンもまた、レイチェルを大切にしてくれた。

幼いころ、ふたりきりで水遊びをしている最中。不思議な現象が起こった時も、エヴァンは難しい顔でこう言ったのだ。

「この事は誰にも言わない方がいい。仮に加護だったとしても……これでは、皆を失望させてしまう」

優秀な兄がそう言うのだからそうなのだろう、とレイチェルは納得した。

そうして誰にも告げられぬまま、その出来事は胸の奥に仕舞われた。エヴァンもそれ以上は何も言わず、両親にも口を閉ざしてくれた。

そうやって、レイチェル自身は十人並みではあるが、幸せな日々を送っていた。

――その日々が、突然終わりを告げたのは。

司祭がひとりの娘を連れてきた、あの日のことだった。

屋敷を訪れた娘の名はシンディ。

貧民街で育ったという彼女こそが、アウレリア家の血を引く正統な娘であると告げられた。

この日を境に、ふたりの娘の運命は大きく変わった。

――いや。本来あるべき姿に戻った、と言うべきなのかもしれない。

屋敷の中を見渡すシンディは粗末な服を身に纏っていたが、太陽を思わせる金色の髪と、アウレリアの血筋の証である澄んだ青色の瞳をきらきらと輝かせていた。場違いな身なりでありながらも、その存在そのものがこの屋敷にふさわしいと主張するかのように。

金色になり損ねたくすんだ髪を頼りなく揺らしたレイチェルはと言えば、淀んだ水底を思わせる瞳をそっと伏せた。

眉目秀麗な家族とは異なる容姿に、幼い頃から密かにコンプレックスを抱いてきた。目を引くような特技もない。ただ与えられる教育に応えるだけで精一杯だった。

だからだろう。

所在なさげに佇むシンディの姿を見た瞬間、母セリーヌが真っ先に駆け出しても、父テオドアが涙を浮かべながら抱きしめても、胸に浮かんだのは「やっぱり」という静かな納得だけだった。

レイチェルの隣に立つエヴァンだけは、呆然と二人を見比べていたが――

「……なんということだ。レイチェルが、私の妹ではなかったなんて……」

自分を見下ろす気配だけは感じ取れたが、レイチェルは怖くて俯いたまま、エヴァンの顔を見上げることができなかった。

シンディは詐欺師でも、成り済ましでもなかった。

貧民街で彼女を育てていた家族が亡くなり、その後始末の過程で加護の力が顕現したのだという。そして神殿の詳細な鑑定を経て、彼女は正式にアウレリア家の血を引く娘と認められた。

だから戻ってきたのだ。正しく、然るべき場所へと。

そして――アウレリア家に「本物の娘」が戻ってきたその日から、レイチェルはどこにも属さない存在になった。

アウレリア夫妻は、レイチェルを即座に追い出すようなことはしなかった。

実の両親も既に亡くなっている以上、再び入れ替えるという選択肢はない。それに、十八年という歳月を家族として過ごしてきたのだ。簡単に切り捨てられるものではなかったのだろう。

「どうするかは、もう少し考えましょう」とセリーヌは言い、「アウレリアの名を汚すような扱いはしない」とテオドアも約束してくれた。

「安心して。血の繋がりはなくとも、私たちが家族であることに変わりないわ。ねぇ、エヴァン?」

「……ええ、もちろんですとも」

だが、その優しい言葉の裏には、世間の目を量る視線が透けて見える気がしてならなかった。

養女として籍を残すのか。

それとも、別の道を探すのか。

その話題はいつも先延ばしにされ、レイチェルという存在は宙に吊られたまま、答えの出ない時間だけが過ぎていった。

屋敷の空気は、目に見えない膜が張られているようにレイチェルを避けて流れていた。

話しかけられないわけではない。邪険に扱われることもない。けれど、名前を呼ばれる機会は確実に減り、使用人たちの視線はシンディにばかり注がれるようになった。

そして、半年後にレイチェルが嫁ぐ予定だったウィンストン家との婚約は、正式に解消された。

「レイチェルのことが嫌いになったわけじゃない。むしろ、僕はこのままでもいいと思っていたんだ。……でも、君の兄上に『これは家同士の繋がりだから』と説得されてしまってね。両親からも、血筋の分からない者を妻として迎えるわけにはいかないと……」

そう言って、元婚約者の青年は口惜しそうに唇を噛んだ。

――それも、そうだ。

これまでの情だけで迎え入れてもらえるほど、貴族の婚姻は甘くない。

彼自身はレイチェルで構わないと言ってくれたけれど、両親も、そしてエヴァンも、後々問題が起こることを恐れたのだろう。

家同士の繋がりを思えば、それは当然の帰結だった。

それならば代わりにシンディが彼の隣に立つのかと思えば、そうではないとエヴァンが教えてくれた。

「加護を持つ者は国の威光のために王族と婚姻することになっている。……おそらくは、第五王子だ。暴れ馬だの問題児だのと評判は悪いが、政略的にも丁度良い相手だろう」

決して王室に輿入れしたかったわけではないけれど、未来が決まっているシンディを羨ましいと思うことくらいは、どうか許してほしい。

レイチェルは物分かりの良い令嬢を演じるように、その思いを胸の奥へと押し込めた。

「……嫌だわ。何の血が流れているかも分からない人間が同じ屋敷にいるなんて。いつまでこの家に居座るつもりなのかしら」

エヴァンの嫁であるアネッサからは、陰でそんな言葉を投げかけられ続けた。同じ屋敷の中で得体の知れない女と同じ空気を吸うことなど耐えられないと。態度の端々でそう示すかのように。

貴族としての責務を果たすでもなく、嫁入りするわけでもない。ただ家の空気を悪くするだけの穀潰しだと思われているのかもしれない。

元より、彼女との関係は決して良好とは言えなかった。

やはり一刻も早くこの家から離れるべきなのだろう。

そう決意を固めて両親に今後のことを相談しようとするたびに、エヴァンにやんわりと制された。

「ふたりは今、シンディのことで手一杯なんだ。あまり煩わせてはいけないよ」

そんな言葉で返されたら、レイチェルはそれ以上何も言えなくなってしまう。

「お前は何も気にしなくていい。……ただ、騒動が落ち着くまでは、あまり外に出ない方がいいだろう」

――兄様、それは私の存在が、アウレリア家の恥だからでしょうか?

喉元までせり上がった問いを、レイチェルは言葉にすることなく飲み込んだ。

当のシンディもこの屋敷にうまく馴染めずにいた。

貴族としての礼儀作法も、生活も、教育も。貧民街で育った彼女にとってはすべてが重荷だったのだろう。

最初こそ期待に胸を膨らませていた表情は、日を追うごとに陰りを帯びていった。

両親は申し訳なさそうにしながらも、レイチェルにシンディの世話を頼んだ。

「あなたたちにも仲良くなってほしいの。少しだけ、助けてあげて」

レイチェルは頷いた。頷くしかなかった。

本来であればいつ追い出されてもおかしくない身の上だ。それでも、こうして屋敷に置いてもらえている。

自らの処遇が定まるまで、返せるだけの恩を返す。それが今のレイチェルにできる、唯一の務めだった。

それなのに。シンディはレイチェルを見るたびに、苛立ちを剝き出しにした棘のある言葉を投げかけてきた。

「レイチェルはいいわね。あたしだって幼いころからきちんとした教育を受けられていたら、こんな恥はかかなくてすんだのに!」

そう言われても、レイチェルには否定も肯定もできなかった。自分がこれまで受けてきた待遇を思えば、きっと何を言っても彼女の癇に障ってしまうと思ったから。

発端は、女神の気まぐれだ。

だから誰も悪くない。悪くないからこそ、誰も責められない。

表向きはうまく取り繕えているつもりだった。けれどレイチェルの足元は、常に不安定なまま揺れ続けている。

その小さな揺らぎが、じわじわと心まで蝕んでいくようだった。

そんな神経が摩耗していく日々が続いた、ある日のこと。

居間に集められたのは、アウレリア当主のテオドアとセリーヌ夫人、エヴァンとその妻アネッサ、そしてシンディとレイチェル。本来なら家族の団らんに使われるはずの場所には、どこか張りつめた空気が漂っている。

最初に口を開いたのは、テオドアだった。

「……王城から正式な通達が来ている。次の月の奉仕視察、アウレリア家が担当だ」

「奉仕視察……?」

聞き馴染みのないものだったのか、シンディが小首を傾げて小さく繰り返した。

奉仕視察。

女神信仰に基づく王国の政策の一環として設けられた制度で、貴族家が持ち回りで貧民街や下町を訪れ、現状を確認し、必要な支援を報告するというものだ。表向きは慈善活動だが実際には貴族としての義務であり、断れば王室からの心証を損ねかねない。

そしてこれは「女神の慈悲を示す役割」とされ、原則として貴族家の女性が担うことになっていた。

「本来であれば、我が家からは――」

テオドアが言葉を区切る。

その視線が無意識のうちにレイチェルへ向いたが、ついと逸らされると同時にシンディが勢いよく立ち上がった。

「あたしが行くわ! 元々あの場所で育ったんだもの。あたしにピッタリじゃない!」

喜色を浮かべるシンディに、セリーヌが即座に顔色を変える。

「何を言い出すの。貴女は戻ってきたばかりでしょう」

「でも、あたしの加護の力が役に立つかもしれないわ。元にいた場所だもの。きっと前みたいに……」

シンディは浄化の加護を持っていた。貧民街では彼女を中心に空気が澄んでいたのだという。

ただ、この屋敷に迎えられてからというもの、その力を思うように発揮できずにいるらしかった。慣れない環境に心労が重なっているのかもしれない。だからこそ、彼女もまた焦っていたのだろう。

シンディがアウレリア家の正当な娘であることはもはや疑いようのない事実だ。けれど、あるはずの力が発揮されないと分かれば、噂好きの貴婦人たちの憶測を招くことになる。

それは貴族社会において決して無視できるものではなかったが――

「……なりません。貴女はまだ貴族教育を受けている身です。今は表に出る時期ではありません」

セリーヌの言葉に、テオドアも重く頷いた。

「シンディ、焦る必要はない。加護のことも気にするな。アウレリアの人間としての役目は別の形で果たしてもらう」

シンディは唇を噛みしめたが、それ以上は何も言わなかった。

代わりにその様子を眺めていたアネッサが、柔らかな声音で口を挟む。

「でも……奉仕視察は原則として『家の女性』が務めるものですわよね。シンディさんは戻られたばかり。私は実家にいた頃に義務を果たしておりますし……お義母様もお身体が弱いのですから、貧民街の空気なんか吸っては病気になってしまいますわ」

そこで、アネッサはゆっくりと首を傾ける。

「――となると。残るのはレイチェルさん、ではありませんか?」

空気が、ぴんと張りつめる。

視線が一斉にレイチェルへと向けられた。

「貴族の娘として育てられてきたんですもの。それに、私も赴いたことがありますが……奉仕視察は決して過酷な役目ではありませんわ。シンディさんが知らなかったように、直接住人とやりとりをすることなんてないですから」

アネッサは、薄く微笑みながら「それに、」と続けた。

「シンディさんがどんな環境で育ったのかを知れば、ふたりの仲も深まるのではないかしら。レイチェルさんも家のために出来ることを示す良い機会ではなくて? ……ふふ、いいことずくめではありませんか」

両親の表情が、悩ましげに揺らいだ。

彼らがレイチェルを案じていないわけではないことは、分かっている。

けれど同時に、シンディが元の生活を恋しがって戻りたいなどと言い出さぬように、貧民街という場所から出来る限り遠ざけておきたい、という思惑もはっきりと透けて見えた。

「……当然、護衛は付ける」

珍しく逡巡している様子だったエヴァンが、決断する。

「優秀な者を選ぶ。短時間で戻れるよう手配もする」

「兄様……」

「くだらない慣習ではあるが、断れば目をつけられかねない。……どうか、頼まれてほしい」

次期当主としての正しい判断だ。レイチェルは、ゆっくりと胸の奥で息を整えた。

――アウレリアの役に立ちたい。それは、ずっと願ってきたことだった。

ここにいてもいい理由が少しでも欲しかった。

必要とされていると、思いたかった。

「アウレリア家のお役に立てるのなら、奉仕視察、務めさせていただきます」

セリーヌは何かを言いかけて、結局、口を閉ざした。

テオドアは目を伏せ、エヴァンはどこか安堵したような表情を浮かべている。

シンディは不満げに唇を尖らせ、アネッサだけが扇の向こうでほんのわずかに笑っていた。

「……無理はしないでちょうだい。遠くから、眺めるだけ。それで役目は果たしたと言えるはずよ。あんな制度……もはや形だけなんですから」

「憲兵も常駐しているはずだ。危険はない。……大丈夫だ。レイチェルならやり遂げてくれると信じているよ」

誰もがレイチェルを慮ってくれている。

それが手に取るようにわかってしまうから、今の自分の立場が苦しくて仕方がなかった。

――ああ。

こんな思いをするくらいなら、最初から生まれてこなければよかったのに。

その夜、レイチェルは初めて女神を恨んだ。

*

貧民街へ向かう馬車の中で、レイチェルは窓の外を眺めていた。

既に現地には複数の護衛が待機していると聞かされている。馬車にも護衛が二人付き添っている。どちらも表情のない顔で必要以上の会話はなく、守られているはずなのにどこか距離を測るようにも感じられた。

街に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。

重く、湿り、荒れている。肺に吸い込むだけでざらつくような感覚がある。

シンディがいた頃は、この空気が澄んでいたのだという。ならば彼女が離れたことで女神の加護が薄れているのかもしれない。

辺りを見渡していたレイチェルがふと違和感に気付く。

……あまりにも、人の気配が少ない。

入り口で待機しているはずの護衛の姿が見当たらない。そもそもここは正規の出入り口なのだろうか。馬車が止まった場所も、聞かされていた位置とは違っていた気がする。

胸の奥で、言葉にならない疑念が膨らんでいく。

その感覚に足を止めた、まさにその瞬間。背後で剣が抜かれる音がした。

振り返るよりも早く、護衛の一人が低い声で言う。

「おっと、逃げるんじゃねぇぞ」

同時に、もう一人の男に腕を強く掴まれた。

――彼らは護衛などではない。

最初から、その役目ではなかったのだ。

驚きよりも先に理解が訪れる。

大好きだった両親と、兄の顔が脳裏をよぎる。

もしも彼らがこの結末を望んだのだとしたら。

これが、自分の処遇に対する答えなのだとしたら――

甘んじて受け入れるべきなのだろう。

そう覚悟を決めかけた、その時だった。

視界の端に別の影が飛び込んでくる。荒い足音と「おい!」と短い怒声が狭い路地裏に響き渡った。

「そこで何をしてるんだ」

鋭い一言と同時に衝撃が走る。

掴まれていた腕が解放され、護衛の一人が地面に倒れ込んだ。

目の前に立っていたのは、薄雲に隠れた月のような髪色を持つ青年だった。

身なりは貧民街の住人にしては整っているが、決して上等ではない。擦り切れた袖口、泥に汚れた靴。身のこなしだけは洗練されていた。

青年は投げ飛ばした護衛に目もくれず、残ったもう一人へ鋭い視線を向ける。

「お前ら、どこのどいつだ? ここで剣を抜くなんていい度胸だな」

護衛の男は一瞬たじろいだが、すぐに口元を歪めた。

「邪魔をするな。これはお貴族様の都合だ」

「貴族様の都合? そんなもんがこの街で通用するとでも? それにお前ら……どっかで見たことあんな」

構えを取った青年が一歩踏み込んだだけで、護衛は舌打ちして距離を取った。

勝てないと判断したのだろう。周囲の路地へと目を走らせ、あっさりと踵を返す。

「クソッ、覚えてろよ」

「そっちこそ覚えとけ。二度とそのツラ見せんな」

護衛が去り、その場にはレイチェルと青年だけが残された。

張りつめていた空気が剥がれ落ちた途端、腰が抜けそうになる。覚悟を決めたからといって怖くないわけがない。命の危機に瀕していたのだという実感が遅れて押し寄せて、心臓がばくばくと音を鳴らしていた。

「……大丈夫か?」

先ほどのやり取りからは想像もつかないほど、優しい声色。レイチェルはかろうじて頷いた。

「助けていただいて、ありがとうございます」

「礼なんていらねぇよ。……と、言いたいところだが」

青年は一拍置き、レイチェルの服装を一瞥する。

貧民街に少しでも馴染むための質素な恰好。上等なレースも宝飾もない。

それでも所作までは隠しきれなかったのか、青年の目が品定めするようにわずかに鋭くなった。

「……謝礼くらいは貰ってもいいかもしれないな。お前、いいところのお嬢さんだろう?」

「謝礼、ですか」

青年はレイチェルの肩越しに路地の奥を確認すると、おもむろに手を差し伸べた。

「ここにいたらまた襲われるだけだな。とりあえず来い」

「え……」

「黙って来い。さっきの連中が仲間を連れて戻ってくるかもしれないだろ。そうでなくてもあんたは目立つ」

拒絶する理由はなかった。

レイチェルは青年に導かれるまま、崩れかけた壁の隙間を抜け、貧民街のさらに奥へと進んだ。

そうして辿り着いたのが――隙間風が吹き込む襤褸い小屋の中だった。

「震えてるな、寒いのか?」

「大丈夫です。少し……驚いただけで」

「襲われたのに少しなのか。まるで、殺されることが分かってたみたいな言い方だな」

「……そんなことは……」

「おっと、悪い。言葉が悪かったな」

これまでに相対したことのない種類の人間に、レイチェルの戸惑いはまだ拭いきれない。それでも想像していた貧民街の住人よりはずっと理性的で、少なくとも害意を向けてくる相手ではなさそうだ。肩に入っていた力がわずかに抜ける。

「俺はネス。ここでずっと暮らしてる。……さっきの連中が『お貴族様の都合』って言ってたな。つまり、上の人間に追われてるってことでいいんだな?」

レイチェルはマグの縁を強く握り、静かに頷いた。

「アウレリア家の……騒動です。私は本物の娘ではなくて、でも、すぐに追い出されるわけでもなくて……」

「……待て。お前はアウレリア家の人間なのか? 騒動って何の話だ?」

その問いかけにすぐに返事ができなかった。

果たして自分は『アウレリア家の人間』と言えるのだろうか? そんな疑問が頭の中でぐるぐると巡っている。

……とはいえ、助けてもらった以上、何も語らないのは不誠実だろう。

そう判断したレイチェルは、何度も言葉を詰まらせながら、これまでの経緯を説明し始めた。

彼は難しい顔をしたまま静かに耳を傾けていた。

「――それで今日は、貧民街の奉仕視察に来ただけなんです」

「奉仕視察? それは日程が変わったと聞いていたが……しかも、なんで殺されかけていた?」

「日程が、変わった……?」

頭が回らずに言葉を繰り返してしまう。エヴァンには確かに今日だと言われ、見送りまでされたのに?

混乱するレイチェルを見て何かを察した様子のネスが、「……なるほどな」と呟いた。

「だからアウレリア家は金を出さない。そういうことか」

壁に寄りかかるネスの問いかけに、レイチェルは小さく頷いた。

彼の言う謝礼など、到底望めまい。そもそも今の自分には、アウレリア家を代表して何かを差し出す資格すら持ち合わせていないのだ。

「あの、せっかく助けていただいたのに……本当に、ごめんなさい……」

「あぁ……いや、いいんだ。謝礼なんて、冗談だったしな」

そう言いながら、ネスはふとレイチェルの震える手元へ視線を落とし、何かに気づいたように眉を寄せた。

「やっぱりここ、冷えるか」

ネスは躊躇いもなく自分の外套をほどき、レイチェルの膝に掛けた。

驚いて顔を上げるよりも早く、彼の指先がレイチェルの指に触れる。その瞬間、ふたりのあいだを目に見えない何かが走った。

ぶわりと空気が脈打つように震え、レイチェルは思わず息を呑む。身体の芯が温まるというより、内側から何かを呼び覚まされたような感覚だった。

ネスもまた、ほんの一瞬だけ指を止める。離れたはずの感触が、指先だけでなく、腕を伝い、胸の奥にまで痺れるように残っていた。

「あっ、あの……すぐに、返しますから……」

戸惑いを隠すようなか細い声に、ネスははっと我に返ったように首を振る。

「いい。汚いもんで悪いけどな。身体を温めるくらいは出来るだろ」

確かにその外套は粗末で、手触りも決して良いものではない。それでも、不思議と嫌な感じはしない。

ネスは軽く咳払いをひとつして、何かを振り払うように話題を切り替えた。

「そのアウレリア家に現れた本物の娘ってのはシンディって名前だろ? 金髪で、青い目の」

「シンディを……ご存じなのですか?」

「知ってるも何も、あいつはここで生きてたんだぜ? 女神の加護があるって分かってからは『これでいい暮らしが出来る』って逃げるように出て行っちまったがな。……あいつ、上手くやってんのか?」

詳しく話を聞けば、どうやら幼馴染らしい。探るような色はなく、純粋に心配している様子が見て取れた。

彼女が望んだという『いい暮らし』は出来ているだろう。上手くやっているかという言葉には、曖昧に頷くしかなかったが。

「そうか。……シンディの加護が発現した時は大騒ぎだったよ。金で売り飛ばそうとする奴も出てきてな。神殿が連れてってくれたおかげでようやく落ち着いたんだが……加護が薄れて空気が悪くなったからか、最近は変な仕事に手を出す連中が増えたみたいだ」

それはつまり、彼女はここでも必要とされる存在だったということだ。

その事実が胸の奥に静かに沈んでいく。レイチェルの指が、無意識のうちにマグの縁をきゅっと握りしめていた。

「それは……ごめんなさい」

「なんでお前が謝るんだよ。昔に戻っただけだから、気にすんな。……シンディは、貴族の暮らしに憧れてた。親ともあんまりうまくいってなかったしな。幸せにやれてるなら、それでいいさ」

ネスは短く笑ってから、今度はじっとレイチェルを見つめた。

「それで、だ。もしかしたら……お前も加護持ちなんじゃないか?」

「っ……どうして」

分かるんですか、と続くはずだった言葉は、喉の奥で引っかかって消えた。

だが、その反応だけで十分だったのだろう。ネスは頭を掻きながら苦笑を漏らして言う。

「勘、ってやつだな。シンディの時も、最初に気付いたのは俺だった。……お前からも、似たような気配がしたもんでな」

レイチェルの喉が、かすかに鳴った。

――言ってはいけない。そう教えられてきた。役に立たない力だからと。

実際その通りだと思っていた。だから自分の中でその力が少しずつ強まっていることにも気付かないふりをして、ずっと目を逸らし続けてきた。

兄の言いつけを守って、誰にも言うつもりはなかったのに。

それでもここで嘘をついてしまえば、ネスから向けられた不器用な優しさまで裏切ってしまう気がした。

「……水を、透明にする力です」

ぽつりと零れたその言葉に。

「……なんだって? 今、何て言った?」

ネスの表情が、はっきりと変わった。

その反応にレイチェルは思わず身を縮める。羞恥と不安が一気に込み上げ、頬が熱を帯びた。

やはり、言うべきではなかったのかもしれない。役に立たないどころか、呆れられるだけだというのに――

だが、ネスはそれ以上何も言わなかった。

代わりに硬い表情のまま部屋の奥へと足早に向かい、ほどなくして戻ってくる。その手に握られていたのは、薄汚れた水を注いだ、縁の欠けたコップだった。

薄黄土色に濁った水面が、かすかに揺れている。

「悪い。その力を見せてくれ。……今すぐだ」

「はい……」

手渡されたコップを、レイチェルは両手で包み込む。

久しぶりだったせいか、力の加減が分からなかった。それでも濁った水は淡い光を放ち、小さな虫さえ浮かんでいたそれは、瞬く間に澄んだ透明へと姿を変えた。

「……できました」

レイチェルはホッと安堵の息を漏らした。

昔、まだ幼かった頃。裏庭でエヴァンと摘んだ花をすり潰し、色水を作っていた時も同じように水は澄んだ。

そして魔法のようだとはしゃいだ自分に、エヴァンは難しい顔で言ったのだ。

――人に言ってはいけないよ、と。

「なんてこった……こんな力を、あいつらは……」

擦れた声で呟くネスの視線が変わる。

そこにあったのは憐れみではない。危ういものを見るような目だった。

「お前、このままだと色んな連中に狙われるぞ。本当に自分の価値に気付いていないのか?」

「…………?」

「それは……分かっていない顔だな。……はは、世間知らずもここまでくると罪深いもんだ。でもまぁ……これも性悪な女神たちの思し召しなのかもしれないな」

その言葉の意味を、レイチェルはまだ理解できなかった。

自分という存在がこの王国にどれほど大きな影響を及ぼしていたのかも。

その価値も、危うさも、何ひとつ知らないまま彼女はここにいる。

ただ一つ、確かに分かることがあるとすれば――

ネスの傍にいると、屋敷にいた頃よりもずっと呼吸がしやすい気がする。

胸の奥に澱のように溜まっていたものが静かにほどけ、外へ流れ出していくような。まるで、長いあいだ濁っていた水路にようやく清水が通ったかのように。

それがどうしてかは分からない。

分からないけれど、「匿ってやるよ」と悪戯に笑う彼の言葉に、レイチェルは考える間もなく自然と頷いていた。