軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

永い暗闇の底へ

「落ち着け、クソガキ」

低い声とともに伸びてきた腕が、走り出そうとした子どもの奥襟を寸前で掴む。

そのまま宙に持ち上げられた子どもは、目を丸くして手足をばたつかせた。

「むむむ、なんだー。あ、ミーねえちゃんだ!」

振り向いた子どもは嬉しそうに笑った後、両手をぐるぐると振り回しながら声を上げる。

ムーの首根っこを捕まえていたのは、顔見知りの女性ネネミミであった。

「ミーねーちゃん、たいへんだ! トーちゃんがひどいことに!」

「どう酷いんだ?」

「わからないけど、きっとおなかとかすいてるのかも」

そこで子どもは今度は自分の腹に手を当てて、悲しそうな顔になる。

「ムーもぺこぺこだ。きょうのおやつはリンゴのおやつだって、ユーばあちゃんがいってた!」

「そいつは美味そうだな。で?」

いきなり話題を向けられた神官服の女性は、慌てたように背筋を正した。

金剛級の冒険者である目の前の人物は、法廷神殿では自分よりはるか上である幹の上階位を司る立場だ。

「はい、トール様が法廷神殿でムムメメ様をお待ちということで、私がお迎えに参りました」

「トールにそう言われたのか?」

「い、いえ。神殿長様のご用命です。ムムメメ様をお呼びするよう仰せつかっただけで、その、詳しくは……」

急激にネネミミの紫色の瞳孔が広がる様に、伝言を授かった教育係は緊張で身を強張らせる。

普段は有名人である姉の後ろに影のように寄り添っているだけで、この双子の妹のほうが人前に単独で顔を出すことは滅多にない。

実のところ、声を聞いたのも初めてであった。

だが実際に対面してみると、その全身から漂う異様な空気に冷や汗がにじみ出てくる。

なんでもない街中で不意に猛獣に出会ったかのような気持ちになった女性は、歯の根を震わせながら息を止めた。

その視線はほんの数秒だった。

だが恐怖に呑まれた女性にとって、それは永遠に等しい時間であった。

完全に射すくめられた教育係の心臓の鼓動が限界を迎えかけたその時、不意に幼い声が上がる。

「もう、こわがらせちゃダメでしょ!」

同時にぺちりと可愛い音が響く。

子どもに頭を軽く叩かれたネネミミは、困ったような笑みを浮かべてみせた。

とたんに、その体から発せられていた凶悪な圧が一気に霧散する。

さっきまでの獰猛な獣のような気配が、いきなり気まぐれな猫に変わったような印象に、それまで身動ぎできなかった女性は目をパチクリとさせた。

「仕方ねぇ。少し教えてやる。<雷眼看破>ってのは単に使うだけじゃ効き目が薄いんだよ。こうやって、ちょいとビビらせるのがコツだ」

「こわいやつ? おばけのはなしか、ミーねーちゃん。がっこーではなすとみんなきゃーってなるぞ。ムー、おばけぜんぜんこわくないけどなー」

「そりゃ地下監獄でさんざん倒してたからな。お前、もう怖いものなんかねーだろ」

「ううん。ある」

首を横に振りながら、ムーは言葉を続ける。

「ムーはトーちゃんがいなくなるのこわい。すごくこわい。だからはやくいかないと」

「トーちゃん、大好きか」

「うん! まえはクロとシマだけでもへーきだったけど、いまはもうダメだなー」

「わかる。私もリリが居なくなると思うと絶対に気が狂うな。ま、トールは多分、大丈夫だろ」

「そうなの?」

無邪気なムーの視線に、ネネミミは小さく息を吐いた。

たしかにこの神官は、嘘は吐いていないようだ。

だが、ごまかせる方法はいくらでもある。

「<雷眼看破>は、本人が嘘だと思ってなきゃ効果が――。いや、お前はまだ覚えなくていいな」

言いかけた言葉を止めたネネミミは、先ほど叩かれたお返しとばかりにムーの金色の巻毛を乱暴にかき回した。

たちまち子どもは、くすぐったそうな笑い声を上げる。

そのままムーを小脇に抱えたかと思うと、ネネミミは堂々と歩き出す。

置いてけぼりになった女性は、その背中に大慌てで声をかけた。

「あ、あの、どちらへ?」

「神殿には私が連れていく。お前は……。そうだな、局長に伝言してきてくれ。ムーとネネミミがリンゴのおやつをご所望だと」

「へ?」

そのまま去っていく二人を、ムーの教育係は唖然としたまま見送るしかなかった。

そんな事件があった十五分後。

居間でラムメルラたちと談笑していたトールの耳に、家の前で馬車が停まる音が聞こえてくる。

ついで扉をこぶしで叩く音が響いた。

「あら、どなたかしら」

立ち上がったユーリルが玄関へと向かう。

押し開けた扉の向こうに立っていたのは、この街を統べる男性だった。

「いらっしゃいませ、ダダン様」

「突然、押しかけて申し訳ないのう、ユーラルリール殿。トールはおりますかな?」

「はい。よろしければ、中へどうぞ。ちょうど今、皆様でお茶を楽しんでおりまして」

「ほう、この匂いは夏リンゴじゃな。ふむむ、たいへん心揺れるお誘いじゃが、ちっとばかり急いでおりましてな」

「どうかしましたか? 師匠」

二人が喋る声が聞こえたのか、顔を出したトールにダダンは重々しく頷く。

「すまんが伯父上が何かやらかしたようじゃ。だがちょうど良い機会じゃて、勝手なことですまんが今から法廷神殿にきてくれるか」

その言葉の意味を読み取ったトールは ユーリルへ素早く視線を向ける。

一瞬、厳しい顔を見せた灰耳族の女性は、耳先をわずかに揺らした。

「残念ですが他の神殿の禁域に、探求神殿の神官たる私が足を踏み入れるわけには参りません。トールさんとソラさんだけで……」

「分かりました」

「どうか、ムムさんをお願いしますね」

しっかりと頷きあうトールたちを見つめていたダダンだが、少しだけ声のトーンを落として話を締めくくる。

「ところで不躾な話ですまんが、そのリンゴの菓子とやらを少々、包んでくれると助かるのう。いや、実は頼まれておってな。むっ、なんじゃトール、その目は!」

慌ただしく馬車に乗り込んだトールたちは、急ぎ法廷神殿へと向かった。

道すがら詳しい経緯をダダンに説明してもらう。

「どうやら伯父上、ザザム神殿長が、こっそりおチビちゃんだけを神殿に連れていこうとしたようでな。双子から連絡があったんじゃ」

「そうだったんですかー。あれ、ダダンさんってキキリリさんたちと仲良しだったんですか?」

「仕事はあまりしておらんが、こう見えても冒険者局の局長じゃてよく知っとるぞ」

ダダン曰く、前々からきちんとトールたちには、どうするかを選んでもらう心づもりであったそうだ。

しかし神殿長であるザザムはそれに納得せず、たびたび言い争いが起きていたらしい。

そこで頑なな伯父が抜け駆けしないよう、秘密裏に双子へ見張りを依頼していたとのことだ。

「なんであれ、決めるのは本人であるべきなのは間違いない。じゃが幼い子ども一人に決めさせるのは間違っとると思わんか?」

咎められることなく内門を一瞬で通り抜け、十分足らずで法廷神殿に到着する。

馬車を降りた先に待っていたのは、双子に抱きかかえてもらいながら棒についた大きな飴をご機嫌で舐めるムーの姿だった。

トールを見た瞬間、目を輝かせた子どもは、ネネミミの腕の中から飛び降りて駆け寄ってくる。

「トーちゃん、ぶじか! ムーすごくしんぱいしたぞ。あめたべるか?」

「それはこっちの台詞だ」

顔にぐりぐりと飴を押し付けてくる子どもを抱き上げたトールは、双子に頭を下げる。

「世話になったようだな。ありがとう」

「いいえ、貸しをどう返してくれるか楽しみにしてるわ」

「む、いい匂いがするぞ、リリ」

「あ、これリンゴジャムのパイですよ。みなさんで召し上がってくださいって、ユーリルさんが――げほぉ」

まだ温かい包みを持ち上げたソラだが、その腹部へいきなり突進してきたムーの頭が容赦なくめり込む。

うずくまる少女を気にかける素振りもなく、奪い取った包みを子どもは高々と掲げた。

「ムーのおやつだ! ありがとう、ソラねーちゃん」

「ううう、ど、どういたしましてだよ」

「なに独り占めしてるのよ、おバカ。みなさんでって言ったの聞こえたでしょ」

「じゃあ、ちょっとだけね」

「なにその指。一切れってこと?」

「じゃあ、これくらい?」

「なんで指を半分しか上げないのよ。せめて二本は上げなさいよ」

「キーねーちゃんはよくばりむぅー」

「どっちがよ!」

騒がしくも穏やかな空気に場が包まれたかと思えた瞬間、神殿の扉が仰々しく開き長いヒゲを蓄えた老人が姿を現す。

立派な紫の法衣をまとったその人物は、トールたちをじろりと睨めつけた。

そして鋭い視線の先を、身内である禿頭の老人に定める。

「お主の仕業か、ダダン」

ただ頷いてみせた甥の姿に、ザザム神殿長はゆっくりとため息を吐いた。

それから命令を下しながら踵を返す。

「ついてこい。案内する」

短い一言だけであったが、トールたちは黙って従った。

礼拝堂を抜けた奥の通路には、似たような扉がずらりと並んでいた。

その内の一つをザザムは無造作に開く。

扉の先にあったのは、地下へと続く螺旋状の階段だった。

魔石灯を掲げて歩くザザムに、一行は静かについていく。

その階段にずっしりと立ち込める空気は、軽口さえ許されない重苦しさがあった。

二十分近くは歩いただろうか。

階段の終着点は、大きく開けた空間となっていた。

魔石灯やろうそくが幾つも壁に沿って置かれており、視界に不自由することはない。

そして真っ先に目に飛び込んでくるのは、部屋の中央に居座る異様な存在だった。

大きさは軽く馬車を上回るほどはあろう。

黒い毛皮に走るのは、独特の紫の縞模様だ。

体をしなやかに丸め、長い尻尾の先だけを優雅に動かしている。

それは巨大な獣であった。

そしてその子どもくらいなら丸呑みできそうな顔の隣には、シワの寄ったドレスを着た老婆が一人寄り添っていた。

束ねた長い髪や顔色は、驚くほどに白い。

瞳孔も色が抜けてしまっているようだが、かすかに紫の色が残っている。

トールたちに気付いたのか、年老いた女性は驚いて眼を見張る。

「あら、お客様なんてずいぶんと久しぶりね」

歓迎の言葉を口にした老婆の首には、ピカピカと発光する首輪がはめられていた。