軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第21話 病床の知らせ

婚礼衣装の裾に最後の一針を入れようとした時、手紙が届いた。

仕立て台の上に白い絹地が広がっている。波模様の刺繍を、一月かけてここまで進めた。裾の曲線に沿って銀糸の波が走り、翡翠色の小花がその合間に咲いている。自分の婚礼衣装を自分で縫う。祖母がそうしたように。

碧の栞の紋章。エリーゼからだ。

封を切る。指先に、あの上質な紙の感触。エリーゼは本屋を始めてからも、便箋だけは侯爵家の品を使っている。そこだけ変わらないのが、あの人らしい。

『ロゼッタさん。お知らせすべきかどうか迷いましたが、お伝えします。ヘレーナ太夫人が倒れられました。一週間前のことです。公爵邸に残っている使用人から聞きました。病床に伏せったまま、食事もほとんど摂っておられないそうです。そして、うわ言で、ロゼッタさんの名前を呼んでおられるとのことです。「ロゼッタ」と。「ロゼッタ」と。 エリーゼ』

針を握ったままの右手が、膝の上で固まった。

婚礼衣装の白い絹が、窓から差す午後の光を受けている。波模様の刺繍はあと三日で仕上がるはず。三日で終わる仕事の手が、たった一通の手紙で止まった。

(ヘレーナ太夫人が……)

あの声が蘇る。

「あなた、今朝の花はまだ替えていないの?」

「私が教えたはずでしょう」

「嫁として当然です」

十年間、毎朝聞いた声。小言というには冷たく、叱責というには日常的すぎた。空気のような圧。呼吸のたびに肺を潰す、見えない重石。

うわ言で、私の名前を。

(……「戻ってこい」ということかしら)

唇が歪みそうになった。笑いなのか苦みなのか、自分でも分からない。十年間「当然」と言い続けた人が、いなくなって初めて名前を呼ぶ。都合がいいにもほどがある。

手紙をテーブルに置いた。婚礼衣装の針目を確認する。細かい波模様。カイルとの結婚式まであと一月。今はこの仕事に集中すべきで、あの屋敷のことを考えている場合じゃない。

(関係ない。もう、関係ない屋敷の、関係ない人の話だ)

なのに、糸を通した針が、絹の上で動かなかった。

夕方の紅茶を、メイベルと二人で飲んでいた。仕立て屋の二階。メイベルが淹れる紅茶はいつだって完璧で、この家の夕方を穏やかにしてくれる。

「メイベル。ヘレーナ太夫人が倒れたって。エリーゼさんの手紙に」

メイベルのカップを持つ手が、一瞬だけ止まった。スプーンがカップの縁に当たる音だけが響く。

「ヘレーナ太夫人は、お強い方でした」

強い。あの人が。あの冷たい目と、あの小言と、あの「当然でしょう」が、強さだったと?

「ロゼッタさんが来る前の五年間は、本当に……あの屋敷を支えていたのはヘレーナ太夫人お一人でした」

メイベルの目が遠くなった。二十年以上あの屋敷にいた人だ。私より長く、ヘレーナの傍にいた人。ヘレーナが朝食の席で眉間に皺を寄せていた頃も、来客の応接を一人でこなしていた頃も、全部見ていた人。

「でも、あの方は、ロゼッタさんに感謝の言葉を一度もおっしゃらなかった」

「それだけは、許せないと、今でも思っています」

メイベルの声が硬くなった。この人が怒りを見せるのは珍しい。目元が赤くなっている。私のために怒ってくれている。二十年間、あの屋敷の隅で全てを見ていた人が。

紅茶が冷めていく。窓の外で夕日が沈みかけている。カモメが最後の一声を上げて塒に帰っていく。

行くべきなのか。行かなくていいのか。

分からない。あの人に会いたくない。会いたくないのに「ロゼッタ」と呼んでいるという一言が、喉の奥の古い傷を引っ掻いている。かさぶたを剥がされる感覚に似ていた。治りかけの傷に、爪を立てられるような。

カイルが港から戻ったのは、日が完全に沈んだ後だった。

仕立て屋の戸を開けた瞬間、私の顔を見て、足を止めた。

「……何かあったか」

短い。でもこの人は、私の顔を見る。ヴィクトルは十年間見なかった顔を、カイルは一瞬で読む。

「ヘレーナ太夫人が倒れたって。エリーゼから手紙が来た」

「ああ」

カイルはマントを脱いで椅子の背にかけ、私の隣に座った。テーブルの上の手紙には目をやったが、読まなかった。人の手紙を勝手に読まない。この人はいつもそうだ。

「カイル。……行くべきかな」

「行きたいのか?」

「分からない。行きたくない。でも」

言葉にならなかった。「でも」の先が見つからない。

カイルが窓の外を見た。闇の中に、港の灯りがぽつぽつと光っている。波の音が遠くから聞こえる。カモメはもう寝静まっている。

「行きたいなら行け。俺は待ってる」

短い。あまりにも。

でもその言葉に、命令も懇願も心配もない。ただ「お前が決めろ。俺はここにいる」という、この人にしかできない信頼の形。

十年間、選択権を奪われていた。嫁ぐことも、帳簿を書くことも、白い糸を隠すことも、全部「そうするしかなかった」。初めて自分で選んだのは、あの朝の書き置きだった。

今また、選べと言っている。私に選ぶ力があると、この人は信じている。

「……行く」

声に出した。出したら、もう迷わなかった。手首の海色の糸に視線を落とした。カイルが結んでくれた、不器用な結び目。この色がある限り、迷子にはならない。

「行って、あの人の顔を見てくる。何も許すつもりはない。でも、行かなかったら、きっと後悔する」

後悔。その言葉を口にして、気づいた。あの屋敷を出た朝、後悔はなかった。馬車の中でも、港町に着いてからも、一度も。でも今回は、行かないことが後悔になる。それだけは分かる。理由は説明できない。説明できないから苛立つ。

カイルが頷いた。ただ一度、深く。

立ち上がりかけた私の肩に、カイルの手が伸びた。

マントだった。さっき脱いだばかりの、潮と木の匂いがするマント。ふわりと肩にかかる。あの日、港で初めて再会した夕方と、同じ仕草。

ただし今回は、マントをかけた後、額にそっと唇が触れた。

「海風は冷たい。道中も、な」

耳が赤いのは、ランプの灯りのせい。そういうことにしておく。もう何回目だろう、この言い訳。

婚礼衣装の白い絹を、丁寧にたたんだ。仕上げは帰ってから。

明日、王都に発つ。一年半ぶりの、あの屋敷に。

窓の外に、月が出ていた。あの屋敷の窓からも、同じ月が見えているだろうか。

あの人は今、何を思って「ロゼッタ」と呼んでいるのだろう。

答えは、行かなければ分からない。