軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第17話 航路

カイルが南方の港から持ち帰ったのは、一枚の古い登記書類の写しだった。

「南方交易港の記録保管所で、知り合いの事務官に頼んだ。ハーヴェン家の名前で航路の仲介権が登録されている。日付は、二十年前。お前のばあさんの名前だ」

仕立て屋のテーブルに広げた紙を見つめた。色褪せたインクで書かれた文面。確かに「マーガレット・ハーヴェン」の名前がある。南方五港との交易仲介権。排他的ではないが、優先権が認められている。

「この権利は、ランベール家との婚姻に伴って行使が開始されたけれど──名義変更はされていない」

エリーゼが先日言った通りだった。権利はハーヴェン家のまま。つまり──祖母の名義のまま。そして祖母は亡くなっている。唯一の血縁の孫は、私。

(私が……この権利の正当な相続人)

頭が追いつかなかった。目の前の書類が現実だとは分かっている。でも、その意味を消化するのに時間がかかった。

「ロゼ。つまり──あいつが結婚で手に入れようとしたのは」

「航路の使用権。私じゃなくて」

声に出すと、あまりにも生々しかった。

十年間の結婚の本質。ヴィクトルが私を妻にした理由。ヘレーナが祖母に取引を持ちかけた目的。全てが「南方航路」の四文字に集約される。

私は、航路の付属品だった。

指先の感覚がなくなった。登記書類を持つ手が、自分の手じゃないみたいだ。

分かっていた。分かっていたはず。手紙で読んだ時は、まだどこか抽象的だった。でもこうして登記書類を見ると、数字と名前と日付が、冷たく事実を突きつけてくる。

航路。航路。航路。全部航路だった。結婚も、十年も、帳簿も、定期市も。私がやってきたこと全部、航路を回すための……。

違う。違うと言いたい。でもヴィクトルにとっては、そうだったのかもしれない。

カイルが、じっと私を見ていた。何も言わない。でも、目が怒っている。あの穏やかなカイルの目に、初めて見る温度の怒りがあった。

「カイル?」

「……俺は」

珍しく、カイルが自分から口を開いた。

「俺にはお前しか見えなかった。航路なんか知らねえ。帳簿も読めねえ。公爵がどうとか、利権がどうとか、そんなもんは一つも分からねえ。でも、お前がパンを焼く匂いで朝を知って、カモメの声で目を覚まして、笑う時に少しだけ目を細めるのは知ってる」

喉の奥が灼けた。泣くのとは違う。もっと深い場所が、熱くなった。

「あいつが航路と結婚してたなら──俺はお前と暮らしたい。それだけだ」

カイルは言い終わると同時に耳まで赤くなり、窓の外を見た。

(……この人は)

十年間黙っていた人が、こんなに一気に喋ったのは初めてだ。きっと限界だったのだろう。航路の書類を見て、ヴィクトルがロゼッタを「取引の品」にしていた事実を突きつけられて。

泣きそうになった。でも笑った。泣き笑いの顔で。

「……ありがとう」

「別に」

いつもの二文字。でも耳は赤いままだった。

「カイル。この権利、離縁で私に戻るの?」

「法的にはそうなる。婚姻による使用許諾は婚姻の終了で失効する。ばあさんの名義は最初から変わっていないから、相続人のお前に帰属する。……港の事務官もそう言っていた」

(航路が、私に戻る)

皮肉だった。ヴィクトルが最も欲したもの。ランベール家の財政を支えた柱。それが離縁によって、捨てた妻の側に戻る。

でも、不思議と、勝ち誇った気持ちにはならなかった。ただ疲れた。全てが「取引」だったという事実に。

メイベルに話した。メイベルは眉を寄せ、しばらく黙った。

「……ヘレーナ太夫人は、最初からこの航路のために動いていたのですね」

「そう。おばあちゃんの人脈。南方の商人たち。あの交易路が再開したことで、公爵領の税収は十年で倍になった。全ての始まりは、おばあちゃんと、おばあちゃんの名前で登録された航路の権利」

「ロゼッタさんの十年間の努力が、その航路を軌道に乗せたのですけれど」

「……うん。でもきっかけは、私の実力じゃない。おばあちゃんの遺産」

メイベルが首を振った。

「違います。航路の権利があっても、それを使って商人と信頼を築き、定期市を成功させ、交易を拡大したのはロゼッタさんです。権利だけでは何もできません。ロゼッタさんが十年間かけて育てた関係が、あの航路を価値あるものにしたのです」

(……メイベル)

この人は、いつも正確なことを言う。感情ではなく事実で。二十年間、帳簿と一緒に人を見てきた人の目は、ごまかせない。

「ありがとう、メイベル」

「事実を申し上げただけです」

エリーゼに手紙を書いた。航路の権利のこと。ハーヴェン家の名義が残っていたこと。離縁によって権利が戻る可能性があること。

三日後、エリーゼから返信が来た。

『ロゼッタさん。お知らせいただきありがとうございます。航路の件、公爵家の書庫で確認しました。ロゼッタさんの仰る通りです。そして、もう一つ、お伝えしなければならないことがあります。旦那様は、この権利のことをご存知です。先日、書斎で法律顧問と話しているのを聞きました。「航路の権利を取り戻す方法はないか」と。私を必要としているのか、侯爵家の後ろ盾を必要としているのか、疑問に思っていましたが、答えが出た気がします。旦那様が本当に欲しかったのは、航路です。最初の奥方の時も、今の私も。 エリーゼ』

手紙を読んで、長い息を吐いた。

(エリーゼも、気づいてしまったんだ)

自分が「人」として求められていないことに。航路の代わり、侯爵家の後ろ盾、ロゼッタの代替品。エリーゼ自身を見ている人間が、あの屋敷にはいない。

でもエリーゼの手紙には、絶望はなかった。冷静な文面の中に、むしろ──腹が据わった強さがあった。

(この人は、大丈夫かもしれない)

カイルが夕方、仕立て屋に来た。

「ヴィクトルから手紙が来るぞ。航路の件で」

「……分かってる。来るでしょうね」

「来たらどうする?」

「読んで、返事を書く。それだけ」

カイルが頷いた。それ以上は何も聞かなかった。

窓の外に夕日が沈んでいく。海色の糸が手首で光った。

航路がどうなろうと、この糸の色は変わらない。航路は数字と契約の話だ。この糸は、それとはまったく別の、もっと確かなもの。

カイルの赤い耳を思い出して、少しだけ笑った。