軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第11話 再婚

メイベルが港町に来た朝、空は雲一つなかった。

馬車から降りてきた彼女は、白髪が少し増えていた。でも背筋はまっすぐで、エプロンの皺一つない。公爵家の使用人頭の矜持は、辞めた後も変わらないらしい。

「ロゼッタ様」

「メイベル。……もう"様"はいらないですよ」

「ではロゼッタさん、と。……お元気そうで、何よりです」

目が赤い。またか。この人は昔から泣き虫だ。公爵家では絶対に見せなかったけれど、二人きりの時だけこうして目を赤くする。

仕立て屋に案内した。メイベルは店内を見回して、小さく息を呑んだ。棚に並んだ糸巻き、壁にかかった刺繍のサンプル、そしてカイルが作った看板の船の絵。

「素敵なお店ですね。おばあ様の……マーガレット様のお店が、こんなに生き返って」

「おばあちゃんを知ってるの?」

「ええ。公爵家にお仕えする前に、一度だけお会いしたことがございます。ヘレーナ太夫人のお使いでベリッサに参りました折に。……気品のある方でした。港町で仕立て屋を営んでいらっしゃるのに、背筋の伸ばし方がお貴族様のようで」

(……おばあちゃん)

祖母の背筋。確かに、漁師の妻たちとは少し違っていた。針を持つ時も、客と話す時も、あの真っ直ぐな背中は崩れなかった。子爵令嬢の名残と言われれば、そうだったのかもしれない。

昼食を一緒に取りながら、メイベルは公爵家の近況を語った。淡々と、でも言葉を選びながら。

「旦那様は……ヴィクトル様は、再婚されるそうです」

「……そう」

「お相手はグレイヴァル侯爵家の令嬢、エリーゼ様。二十四歳。社交界では才媛と名高い方です。帳簿もお読みになれるし、外交儀礼にも通じておいでだと」

紅茶のカップを置いた。手は震えていない。もう、あの屋敷のことで震える手は持っていない。

(侯爵令嬢。帳簿も読める。二十四歳)

十年前の私より、ずっと条件がいい。没落貴族の孫ではなく、現役の侯爵家の令嬢。ヴィクトルも今度は「屈辱だ」とは思わないだろう。

「それと、もう一つ」

メイベルが声を落とした。テーブルの上で手を組み、指先が白くなるほど力を込めている。言いにくいことを言おうとしている顔だ。二十年の付き合いだ。この顔は知っている。

「マリアンヌ様が──お子をお産みになりました。男の子です。ルシアンと名づけられたそうです」

空気が止まった。

店の外で子供たちが笑い声を上げている。カモメが鳴いている。波の音が聞こえる。世界は普通に動いている。私の中だけが、一瞬、凍った。

(……やっぱり)

知っていた。正確には、疑っていた。あの屋敷を出る朝、マリアンヌの体つきが変わっていたのを見ていた。廊下ですれ違った時、彼女が無意識にお腹に手を当てていたのも。確証はなかった。でもあの仕草が、書き置きを書く間じゅう、脳裏にこびりついていた。

去る理由は一つではない。十年分の無視、義母の小言、愛人の公然化。どれも理由だった。でも──最後の一押しは、あれだった。

(十年、待ったのに)

待ったのに。待ったのに。いや、違う。待ってなんかいなかった。期待していた。心のどこかでまだ期待していた、ばかみたいに。いつか旦那様が義務として、形だけでも。子供だけは。子供さえいれば「母」として残れると、そう思って。

十年。あの人は一度も私の寝室を訪ねなかった。そして別の場所で、別の人と。

奥歯の裏側が痺れた。怒りなのか悲しみなのか、もう区別がつかない。

「ロゼッタさん」

「大丈夫。……大丈夫よ、メイベル。知っていたの、なんとなく」

カップを持ち上げた。紅茶がぬるくなっている。

(私が十年かけても得られなかったものを、あの人は──)

跡継ぎ。公爵家にとって最も重要なもの。五年以上の白い結婚。ヴィクトルは私との間に子を望まなかった。私が嫌だったから。没落貴族の孫と自分の血を混ぜることが。

でも愛人には子を作った。

この事実だけは、いまだに喉の奥が詰まる。

メイベルが手を伸ばし、私の手に触れた。温かい手。公爵家で二十年間、朝から晩まで働き続けた手。

「あなたのせいではありません。一度も、あなたのせいだったことはありません」

「……うん。分かっているよ」

分かっている。頭では。でも心が追いつくまでには、もう少し時間がかかる。

夕方、カイルが港から戻ってきた。

仕立て屋の前でメイベルと鉢合わせした。カイルは一瞬固まり、それからぶっきらぼうに言った。

「……ロゼの仲間なら、歓迎だ。港の宿、空きがある」

メイベルが目を丸くした。私が笑った。

「カイル、この人は二十年以上使用人頭をやっていた人よ。宿じゃなくて、うちの二階を使ってもらうの」

「ああ。そうか」

メイベルが二階に荷物を運びに行った後、カイルが低い声で言った。

「再婚の話、聞いたか」

「聞いた。メイベルが教えてくれた」

「そうか」

沈黙。カイルはいつもそうだ。聞きたいことがあっても、相手が話すまで待つ。

「大丈夫だよ」

「聞いてない」

「聞いてないけど、言っておく。大丈夫」

カイルが鼻を鳴らした。信じていないのが分かる。でも追及もしない。

「……子供の話も聞いたか」

「うん」

カイルの手が、一瞬だけ拳を握った。すぐに開いた。日に焼けた手の甲に、力が入って血管が浮いている。

「あいつは馬鹿だ」

初めてだった。カイルがヴィクトルのことを口にしたのは。

「馬鹿だ。十年も、お前の隣にいて」

それ以上は言わなかった。言わない代わりに、仕立て台の端切れを手に取って布目を確かめるふりをした。照れ隠し。この人はいつも手を動かすことで感情を逃がす。

「ありがとう、カイル」

「……別に」

背中を向けて出て行った。玄関の薪が、今朝も几帳面に積まれていた。

メイベルが二階から降りてきた。カイルの背中を窓から見送りながら、小さく微笑んだ。

「いい方ですね。不器用だけれど、嘘がない」

「……うん。嘘がない人なの」

十年間、嘘ばかりの屋敷にいた。笑顔が嘘で、感謝が嘘で「あなたのおかげ」が嘘だった。カイルは何も言わない。でも、言わない代わりに全部やる。その不器用さが、いま何より信じられるものだった。

(再婚、か)

窓の外を見た。夕日が水平線に沈んでいく。

侯爵令嬢エリーゼ。才媛。有能。二十四歳。

(きっと上手くやるでしょう。私より)

そう思いたかった。でも鳩尾のあたりが、ざわざわと落ち着かない。

あの屋敷の空気を、知っているから。