軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

勇者たちの距離

チャキッ

淡々と引いた刃を、桐原が鞘に納める。

「……当然、と言わざるをえねーな」

何が”当然”なのか。

綾香には到底、理解が及ばない。

桐原は息をつき、平然と続ける。

「オレたちはそのうち大魔帝との決戦を迎える。今程度の攻撃を解決できねーようじゃ、戦力に数えるのは難しい。ま、気にする必要はねーぜ……所詮、今のは試験でしかない」

スッ

こちらも刃を引き、聖が言う。

「どう見ても今の十河さんは本調子には程遠い状態よ。今の彼女の実力を知りたいなら、せめて回復してからが筋ではないかしら」

「十河が解決できなければ、聖――おまえが状況を見極め、止めるしかなかった。そして読み通り、おまえはオレの刃を防いだ」

トン、トン

自分のこめかみを、指先で叩く桐原。

「末恐ろしいほど、すべてが想定内でしかない」

「――あなた、十河さんを殺す気だったわよね」

尋問めいて聖が問う。

受け流すみたいに、桐原が舌を打つ。

「殺す気がないのがバレバレの攻撃……そこに、本当の価値が生まれると思うか? 死ぬ気でやれって言葉、あるだろ。死にもの狂いじゃねーとな……」

悪びれる、とも違う。

反省の弁など欠片もなく。

彼はまるで、すべてが当然であるかのように話す。

「防げなくて死ねば十河もそれまでの人間……オレはそう諦めざるをえない。どのみち、これからの戦いにはついてこれねーからな……てめーもだ、聖」

「私には、十河さんのレベルに何か思うところがあったがゆえの行動にも見えたけれど」

桐原は、鬱陶しそうに両手で髪を後ろへ撫でつけた。

「それはおまえがそう”見えた”だけでしかない。憶測による罵倒ほど無様もねーぜ、聖……」

「だから桐原、てめー姉貴にふざけた――」

憤然として樹が何か言おうとした時、

「桐原さ!」

割り入った大声。

「何……さっきの!? ありえないじゃん!」

桐原グループの、室田絵里衣。

「何を言い始めた、室田……」

「何を言い始めたも何も、桐原マジで何考えてんの!? イインチョはさ、あたしらの命救ってくれたんだよ!? 桐原がいなくなった後、マジでヤバかったんだから! なんも聞いてないの!?」

桐原は眉を顰め、黙って室田を見ている。

「あのさ桐原……なんか言うことない?」

「生き残れて幸運だったな。だがこれからは、さらにきつくなるぜ……」

「違う!」

「…………」

「見てわかんない!? でなきゃ、わざとやってる!?」

バッ!

室田が、勢いよく桐原グループを手で示す。

「幾美、いないじゃん!?」

首を傾げる桐原。

数秒後、

「そうか、脱落か」

くしゃり、と。

室田の顔が、歪んだ。

「んだよ――その、反応っ……ふ、ぐっ……あんた、やっぱおかしいよ! 桐原、こっち来てからマジでおかしいって……ッ!」

室田の目からぽろぽろ涙がこぼれ始めた。

堰き止められていたものが、決壊したみたいに。

「幾美っ――死んだんだよ!? 身体とかも、もうまともに残ってなくてっ……どれが幾美のかも、わかんなくてっ……佐倉みたいに、治癒とかできないんだよ!? ねぇ!? あの幾美がだよ!? もういないんだよ!?」

綾香は”あの戦い”の後を思い出す。

しばらくはベインウルフの生存を皆で喜び合っていた。

やがて――戦いの昂ぶりも、鎮まって。

魔防の白城にいた綾香たちを襲ったのは、欠落感。

広岡秋吉。

佐久間晴彦。

あの二人が死んだ時と、同じだった。

クラスメイトの死。

それはひどく現実味のない一方で。

胸にぽっかりと穴が空いたような、そんな感覚をもたらした。

だから、

あの後カトレア姫に少し手伝ってもらって、みんなで 弔(とむら) いをした。

何人も――泣いていた。

元の世界では、苅谷幾美とさほど仲の良くなかった生徒も。

けれど桐原は―― 諭(さと) す顔で、言う。

「親の知り合いに有名動画サイトのチャンネル登録者数20万越えの若手エコノミストがいるんだが――その人が、言ってたな。脱落者を損切りできる覚悟を持った国ほど成長していく……ってな。脱落者につまらねーコストを割く国ほど、全体としてはジリ貧になってくらしい……」

「何、それ……何言ってるか、全っ然わかんない……つーか、そのエコなんとかの話っ……幾美が死んだのと、なんの関係があんだよ……ッ!?」

「? いちいち人が死ぬたびにピーピー喚く時間を有効活用して、自分を磨けって話以外に……何かあるのか?」

「――――――――ッ」

室田が、桐原との距離を詰める。

桐原の前まで来ると、彼女は大きく手を振りかぶった。

次の瞬間、

ガッ!

「……ッ」

室田の鼻頭に、深い皺が寄った。

「冗談じゃねーぞ、室田……」

どうやら室田は平手打ちを試みたらしい。

が、途中で桐原に手首を掴まれてしまったのだ。

「――毒されたか、十河に」

桐原が手首に力を込めた。

「い、たっ――ぃ――」

痛みに顔を歪める室田。

その時だった。

樹が腰のレイピアの柄に、手を――

「やめなさい」

制止をかけたのは、

「それ以上は、私が許さない」

十河綾香。

「……知らねーのか、正当防衛を」

「先に手を出したのは室田さんかもしれない。でも、少しでいいから……室田さんの気持ちも考えてあげてほしいの」

「いちいち人の気持ちに寄り添ってたら、勝てねーぞ」

「こういう時だからこそ、誰かを思いやる気持ちは大事にすべきだと思う」

「……気合いや根性ですべて解決できると思ってる馬鹿と、おまえも何も変わんねーか。前の世界を思い出せ。実際勝ってるのは、人の気持ちなんて考えてねーようなやつらばっかだっただろ……つまり、勝ちたいなら力を示すしかない。じゃなきゃ、勝てない。モラルとか倫理とか、さえずってねーでな……」

「…………」

個人的に気は、進まない。

が、気持ちだけでは。

言葉だけでは。

伝わらないことも、ある。

知ったではないか――この世界に来て。

「――――」

極弦を、使う準備に入る。

今、この身体をまともに動かすにはこれしかない。

今後を考えれば、愚行とわかっていても――

それでも。

彼に対しては一度”力”を直接示すべきなのかもしれない。

が、あくまで無力化するのみ。

負傷はさせない。

たとえば、そう。

敵将の捕縛目的で使われたという鬼槍流の技なら――

「……ふん」

桐原が、室田の手首から手を離した。

「やる気になってるみてーだが……聖の邪魔が入るのは目に見えてる。オレとしては、時間の無駄と断定せざるをえない」

くずおれて地面に膝をついた室田の横を、桐原が通り過ぎる。

「それとな、さっきおまえに斬りかかった件――いい加減、気づけ」

腕を前へ突き出す桐原。

「本気中の本気なら、オレは【 金色龍鳴波(ドラゴニックバスター) 】を使っている……ッ」

桐原の周囲に数匹、小さな金色の龍が現れる。

話しつつ発動させたらしい。

金波龍(きんぱりゅう) が、守護するみたいに桐原の周りをグルグル飛び始めた。

「今の室田たちは十河にほだされてるみてーだからな……当面、十河に面倒を見てもらえ」

まだ涙を浮かべたままの室田が、離れていく桐原を振り返る。

「桐原……」

金波龍を纏う桐原が、足を止める。

「世界を革新してきた偉人は、最初の頃は理解されない。むしろ 疎(うと) んじられる方が多い。頂点に立つ人間には、いつも見当違いの批判が飛び交う。それこそが、王の孤独……思考停止した庶民の愚かさってのは、いつの時代も救いようがねぇらしい。だから、偉人は結果を示すまでそいつらのさえずりをスルーせざるをえない。が、最後はおまえらにもわかる――真の王が”誰”だったのか。歴史を真剣に知れ。真の偉人ってのはその時不遇でも、ちゃんと後世で嫌でも評価されちまう……歴史が、放っておかねぇ……」

綾香に視線を飛ばす桐原。

「つまるところ――甘さを残したやつには、辿り着けない”極致”がある」

コキッ、と。

首を傾ける桐原。

「結局、このオレは理不尽や不遇を跳ねのけて 突き進む力(キリハラ) の正しさを証明し続けるしかない。歴史の例に漏れず、な」

「何も言わなくていいわよ、樹」

樹が何か言いかけた。

が、聖に止められた。

桐原が呆れの息を吐く。

「おまえらは沸点の低さをどうにかしろ。特にてめーだ、樹……」

「んべー」

舌を出す樹。

お茶目な仕草にも思えるが、目は笑っていない。

何も言わなくていいと言われたから、舌を出して反撃したのだろう。

「そういえば十河、話しそびれてたが……生きてたらしーな」

ようやく、小山田翔吾の話になった。

「セラス・アシュレインの見た目だが――肖像画通りだったのか?」

(え?)

「今、蠅王ノ戦団とかいう元呪術師集団にいるんだったな。ちっ――身の置きどころを、完全に間違えてやがる」

何を。

彼は。

何を言って、いるのか――

「そこの蠅の王とやらが第一誓ってのを潰して話題になってるらしいが……浮き彫りになってきてるぜ……側近級の、名折れ感が……ッ」

ギュゥゥッ、と。

桐原が、こぶしをきつく握り込む。

「そ――そんなことはないと思う。側近級は、強敵だったわ」

「ありえるはずがない。勇者以外のやつに負けてる時点で、雑魚以外の結論が認められるとは到底思えない。呪術とかいう、この世界の法則に縛られた力頼りじゃ真っ先に天井は見えてるぜ……”王”を名乗ってるみてーだが、器じゃねーだろ。となると、ちっ……その井の中の蛙にも、セラスにも、嫌でも見せつけざるをえねーらしい」

刀の柄底に、てのひらを置く桐原。

「 キリハラ(勇者) との、格の違いを」

広場で綾香たちが待機していると、女神の使いが指示を伝えに来た。

勇者たちは宿舎へ戻って一時待機だそうだ。

使いは待機中の規則や注意事項をいくつか伝えた。

それから、後ほど蠅王ノ戦団に関して聴取があるという。

ちなみにこの時、桐原はその場にいなかった。

彼は、あのまま広場から立ち去ってしまった。

遠ざかる桐原に、

『おい、女神がここで指示を待てって言ってただろ』

樹が声をかけると、

『うちは親の知り合いを呼んで月一でバーベキューをやってたんだが……この前、オンラインサロンビジネスで大成功してる人が来ててな。こう言ってたぜ。”ビジネスシーンにおける成功者の中には、指示待ち人間なんて一人もいないんです”ってな……何を言いたいか、当然わかるな?』

そう言い残し、立ち去った。

さて。

夜分である。

綾香は、自室にて待機していた。

そこへ綾香を訪ねてきた人物がいた。

今、その来訪者は綾香の隣――椅子に座っている。

二人の前にはテーブル。

互いの椅子の距離は近い。

肩が触れ合うほどの距離である。

来訪者は、メモ用紙にペンを走らせていた。

「あなたたちのところ、大変だったわね」

来訪者は、高雄聖。

綾香は彼女と互いの情報を共有していた。

メモ帳とペンは制服の中に入っていたものらしい。

スマートフォンはネットも繋がらない。

充電もできない。

が、アナログなものは普通に機能を果たせる。

ペンの場合は、インクが尽きるまでだが……。

それにしても、と綾香は思った。

前の世界のメモ帳とペン。

今はなんだか、この世界だと逆に浮いて見える。

「だけどさっき話したベルゼギアさんのおかげで、最悪の結末だけは避けられたと思う」

最悪の結末――魔防の白城に集った南軍の全滅。

あそこにいたクラスメイトの、全滅。

「…………」

「聖さん?」

「そのベルゼギアという人物……十河さんはどういう立ち位置だと思う? 強力な側近級を倒したなら、大魔帝側ではなさそうだけれど」

「セラスさんがいたから、カトレアさんの味方だと私は思っているけど……」

「戦いの後、姿を消したのよね?」

「ええ、そう聞いたわ。なんでも、北へ向かったとか」

ふむ、と。

ペンの尻を唇の下に添える聖。

なんというか。

大した仕草ではないのに、不思議と惚れ惚れしてしまう。

控えめに伏せられた長い睫毛。

薄いながら健康的な唇が、瑞々しく映った。

「そのままネーアの姫君とは合流しなかったのね……つまり、セラス・アシュレインにはネーア聖国にそのまま戻れない――あるいは、戻らない理由があった……」

聖はそこで一度、言葉を切った。

「そのベルゼギアという人物は、どんな感じだった?」

綾香は可能な限り自分との会話や印象を伝えた。

ペン先が走る。

さっとした走り書きなのに、綺麗な字である。

「敵か味方か――味方にできるか否か、判断しづらいところね」

「信頼できそうな人だとは、思ったけど」

「危機的状況で救いの手を差し伸べられたら、大抵の人間は相手を信頼してしまうものよ。吊り橋効果やストックホルム症候群なんてものもあるくらいだし――人の感情や印象なんて、たった一つの劇的な出来事で容易に変わってしまう。たとえば……テレビやインターネットでもてはやされていた人物が、たった一つのスキャンダルでイメージが最低まで落ちた事例……見たことない?」

「……あるかも」

世間の好感度がずば抜けて高かったタレントがいた。

それが、一夜にしてバッシングの的になったのを見たことがある。

「物事を一元的にしか見られなくなると、詐欺に引っかかりやすくなるから気をつけなさい」

小さく息をつく聖。

「……ごめんなさい、話が逸れたわね。それで、そのベルゼギアという人物だけれど、ネーア聖国の味方であっても神聖連合の味方とは限らないわね」

「ええっと、つまり――」

「私たちの味方になるとも限らない、ということ」

膝の上で手を重ね、綾香は視線を落とした。

「あの人と敵対するのは、できれば避けたいかな……」

「敵になるとも限らないけれどね。むしろ今は味方側の人間――桐原君の方が、敵対的と言えなくもない」

「ねえ、聖さん」

綾香は両手を握り込み、暫し口をつぐんだ。

聖は、次の言葉を静かに待ってくれている。

「聖さんは……桐原君の考え方が、正しいと思う?」

「疑問形で尋ねるということは、一理あると思えてしまった?」

「え? その……わからなくて。私はまだ甘いのかな、って……その甘さのせいで、苅谷さんを死なせてしまったのかもしれない、って」

もっと早く”覚醒”していたら。

もっと被害は、少なかったのではないか。

極弦も。

固有スキルも。

もっと早く、使えていたら。

今の結果は、自分のどこかに甘さがあったからではないか?

聖は自罰的な綾香の吐露に、

「正しくもあるし、間違ってもいるわね」

そう言って、手もとで一つペンを回した。

「人は立ち位置によって共感する考え方の変わる生き物よ。通常、人間はどこまでも主観的なの。だから桐原君の知人の考え方を正しいと感じる立ち位置の人だっている。一方、間違っていると感じる立ち位置の人もいる。ただし……桐原君の場合、自分が絶対に”脱落者”の側にならないという前提で話しているから――どこかでそちら側へ回ることがあったら、辛いかもしれないわね」

聖は一度そこで口をつぐんだ。

それから、彼女はペンの尻で唇の下を二回つついた。

「多分、望まれていた答えになっていないわね」

「ううん、いいの……考えてくれてありがとう、聖さん」

「十河さん。あなたは、あなたの信じる正しさを貫けばいいと思うわ」

「私の、正しさ……」

「私の見たところ、今は多くのクラスメイトがあなたについてきている――あなたを頼りにしている。今は、それが答えと思っていいんじゃないかしら?」

聖は続けた。

「この世に完璧なんて存在しない。けれど、最善を尽くすことならできる」

「聖さん……」

「人という限りある生き物である以上、私はそれで十分だと思うけれど」

綾香は、小さく笑みをこぼした。

「――ありがとう、聖さん」

「どういたしまして」

淡々と、聖は言った。

綾香はそれから、さらに聖と互いの情報を共有し合った。

「あの感じだと、二瓶君たちや室田さんたちはあなたのグループに入ると見ていいのかしら?」

広場で女神の使いから指示を受けて解散となった直後のことである。

綾香は自ら、正式に二瓶や室田たちに申し出た。

これからは自分のグループと行動を共にしないか、と。

「その二つのグループは、リーダーから見捨てられた形だものね」

安は生きていた。

が、二瓶たちはもう安と行動を共にする気はないと話した。

室田たちも、綾香と一緒にやっていきたい――そう言ってくれた。

「安君はどうするの?」

「……誘ってみようと思う。A級勇者の味方が一人でも増えてくれれば助かるから。何より、その……やっぱりこれじゃあ、安君だけのけ者みたいだもの」

ふぅ、と。

聖が息をついた。

「尊敬するわ、あなたのこと」

「え?」

「それと、これは余計なおせっかいかもしれないけれど――」

聖の提案は二つ。

グループ内での班分け。

サブリーダーの設置。

周防カヤ子を班長とする、周防班。

二瓶幸孝を班長とする、二瓶班。

室田絵里衣を班長とする、室田班。

さほど親しくなかった者同士が混合で動くのはまだ難しい。

聖はそう意見を述べた。

「あなたが意思決定できない状況になった時、あなたの他に意思決定を下すサブリーダーがいた方がいいわ。私は、周防さんを推薦するけれど」

「……私も、周防さんなら任せられると思う」

周防カヤ子。

元より能力の高い子である。

後で知ったが、実は浅葱からも誘いをかけられていたらしい。

(この前の戦いでも、的確な指示でみんなをまとめてくれてたし……周防さんが私のグループに来てくれて本当によかった。でも……どうして私のところに来てくれたのかしら?)

そういえば彼女は女神の廃棄候補にも入っていなかった。

前の世界にいた頃を思い出す。

周防カヤ子は特に仲の良い生徒のいる感じの子ではなかった。

もちろん、だからこそ綾香は普段から定期的に声をかけていたのだが――

(とにかく、周防さんには感謝しないと)

二人はさらにあれこれ話し合った。

驚いたのは聖の知識の豊富さである。

特に、こちらの世界について異様な知識量を持っていた。

「城内に大書庫があるのは知ってる?」

「ええ」

「 閉架(へいか) 書庫は?」

「……いえ」

閉架書庫。

前の世界の図書館では自分で取りに行けない書庫がそう呼ばれていた。

閉架書庫にある本は司書の人に頼んで持ってきてもらう。

が、こちらの世界では許可があれば立ち入れるらしい。

「女神に許可をもらって、よくそこで調べものをしているの」

「そうだったんだ……」

(あ)

スンッ

(まただ……)

薄ら、甘い香り。

聖から漂ってくる。

この距離だからよくわかる。

横目でこちらを見る聖。

「においが気になる?」

「あ、ごめんなさい――その、香水でもつけてるの?」

「私たちはこっちの世界では”異物”だけれど、こっちの世界の香水をつけていると現地人の警戒心が少し緩むのよ。要は”私はこっちの世界の文化を受け入れようとしています”という、無言のアピール」

そんなことまで考えて、香水を使っているのか。

(すごい……)

何より、

「聖さんって……本当に、綺麗」

メモ帳への書き込みは止めず、聖が平板に指摘する。

「声に出てるわよ」

「あっ」

ハッとして、口を手で押さえる。

心の声が漏れていた。

「ご、ごめんなさい」

「あなたの場合、たとえ正直であっても他人の容姿への無闇な感想は控えた方がいいわね。そんな気はないのでしょうけど、あなたが言うと受け取る人によっては嫌みになるから。十河さん、自分が紛れもない美人だという自覚くらいあるのでしょう?」

「えっ、私なんて――」

「”そんなことない”?」

「あ……」

「その返しも嫌みに取られかねないから、やめた方がいいわね」

しおらしく肩を縮める綾香。

「……気をつけます」

言ってから、綾香はクスッとなった。

聖は視線をメモ帳に固定したまま、

「どうかした?」

「いえ……樹さんがあなたを大好きな理由、ちょっとわかった気がして」

ちなみに樹は自室で睡眠中だという。

元気そうに見えたが実のところかなり疲労していたらしい。

「聖さんは同い年なのに年上っぽいっていうか、その……なんでも相談できるお姉さんって感じ」

綾香は姉がいないから、少し姉に憧れがある。

「双子だから、産声を上げたのが後か先かの違いでしかないのだけれどね……ただ、育っていく中で”姉”として扱われ続ければ、それらしくなっていくものよ」

「――ねえ、聖さん」

綾香は真面目な面持ちになって、

「さっきのグループの話……私よりも、あなたがみんなのリーダーになるのが一番いいと思う」

「無理ね」

素早い拒否に、綾香は少し戸惑う。

「あなたは大丈夫でも、私たち姉妹に苦手意識を持っている生徒はたくさんいるわ」

「そんなことは……ないと、思うけど。……だとしても、聖さんたちをもっとみんなに知ってもらえれば――」

「好き嫌いにかかわらず集団には”和”というものが存在する。壊す意図がなくとも、外の人間が入るだけで集団のバランスが壊れる事例はいくらでもあるの。この性質を、甘く見ないこと。私たちがこの時点で加わると、確実にあなたのグループのバランスは壊れる」

それに、とつけ加える聖。

「ある程度距離があった方が上手くいく関係もある。もちろん、元の世界へ戻るにあたっての協力はするつもりだけれど」

「……わかったわ。私も、無理にとは言わない」

「勇気を振り絞って誘ってくれたのに、悪かったわね」

「ううん。力を貸してくれるとわかっただけで、十分嬉しい。いいの……これ以上誰も死なせず元の世界へ戻ることさえできれば、私は……」

ふと、聖がジッと自分を見つめているのに気づく。

何か、推し量られているような……

「十河さん。これは”もしも”の話、なのだけれど――」

言いかけた聖の視線が、部屋のドアの方へと向けられた。

(どうしたのかしら?)

聖が何かメモ帳に記入する。

スッ

メモが差し出される。

こう書かれていた。

”私に合わせて”

聖が、言葉を続ける。

「――私が、あなたに恋愛的な感情を持っていると言ったらどうする?」

「え!?」

そこで、綾香は気づいた。

聖が視線で、何か訴えている。

(あ、そっか)

ドアの外に誰かいる。

気配が、ある。

”会話を合わせてほしい”

何か意図があって聖はそう言っているのだ。

綾香は深く息を吸った。

「そ――そんなこと急に言われてもっ……私、その――困りますっ……」

綾香が、そう返した時だった。

聖が、微笑した。

(わ、ぁ)

思わず。

見とれて、しまった。

綾香が自分の意図をちゃんと汲んでくれた。

多分、それを喜んでの微笑なのだろう……。

「すぐ返事を求めるつもりはないわ。気持ちだけでも、知っておいてもらいたかっただけ。ただ、これからは距離を詰めようとする行動が多くなるかもしれないけれど――少しくらいなら、いいかしら?」

「え、ええっと……わからないわ。急なことで、その……気持ちの整理がまだ、全然つかなくて」

「迷惑?」

「め、迷惑とかじゃなくてっ……えっと……」

さっきの微笑のせいか、なんなのか。

演技だと、わかっているのに。

奇妙な甘い鼓動が、鳴り止まない。

(あ、でも……その方が、逆にリアルな反応になっていいのかも……)

変なところで冷静な自分が、なんだかおかしい。

椅子から腰を浮かせる聖。

「――ちょっと待ってて。大事な話だもの……廊下に誰かいないか、見てくるわ」

と、気配が遠ざかっていくのがわかった。

聖は一度ドアの前まで行った。

再び戻ってきて、椅子に座る。

「お疲れさま、十河さん」

「……一応、説明してもらっていい?」

「勘違いさせるため」

「勘違い?」

「今後、私が十河さんに接触する機会が少し増えるかもしれない。その行動の意図を、あまり勘ぐられたくないの」

「あ、だから――」

「”高雄聖は十河綾香に気がある”という噂の一つでも広まれば、今後私があなたに接触する機会が増えても、それは気があるからだと思ってもらえる」

(聖さんは――)

おそらく何か、企んでいる。

女神を欺き、何かするつもりなのだ。

「……でも、ちょっと驚いたかも」

「急な無茶ぶりで、悪かったわね」

「それも、あるけど」

クスッ

笑みをこぼす綾香。

「聖さんって、ちゃんと笑うのね?」

「作り笑いが苦手なだけで、笑わないわけではないのよ?」

「そうなんだ」

「私の笑みは言わば天然物かしら。養殖の笑みは便利だし、世の中の需要もたくさんあるわ。けれど、私は苦手というだけ」

「ふふ、聖さんの考え方って面白い」

聖が緩く頬杖をついた。

「あなたも色々と、天然物よね」

「むぅ……もしかして聖さん、馬鹿にしてない?」

「まさか」

(……それにしても)

綾香はドアを見た。

「ドアの前にいた人、誰だったのかしら」

「去り際の足音や気配の消し方から、女神の手の者でほぼ間違いないと思うわ。実は自分の部屋を出てからここへ来る途中まで、ずっと尾行されていたのだけれど……適当なところで撒いてきたの。おそらくはその尾行者が、この部屋に私がいるのにさっきようやく気づいたのでしょうね」

そして今ほど聞き耳を立てていた、と。

「聖さん、なんだかスパイ映画の主人公みたい」

「S級のステータス補正も大きいのじゃないかしら。たとえば、十河さんも気配には気づいたのでしょ?」

言われて、みれば。

(桐原君の殺気を感じ取れたのも、ステータスの何かの値が関連してる……?)

「あ……ところで聖さん、何か言いかけてたのよね? ドアの前にさっきの人か来なかったら、何を言おうとしていたの?」

そう、聖は何か言う途中で話題を切り替えた。

と――聖が、急に距離を詰めてきた。

まるで内緒話でもするみたいに。

緊張のせいか。

綾香は、唾をのむ。

「現時点では”もしも”の話として、聞いてほしいのだけれど」

「え、ええ……」

混じり気のない聖の瞳――それが、綾香の瞳を捉える。

「女神に頼らずとも元の世界へ戻れる方法があるかもしれない――そう言ったら、どうする?」