作品タイトル不明
313 本当の選別
フロレンツィアが、僅かに目を細める。
『リーシェ・イルムガルド・ヴェルツナー! 王太子の婚約者にあるまじき、陰湿な女め。今日この時をもって、僕は貴様との婚約を破棄する!!』
(一度目の、人生でも)
懐かしくも感じる瞬間のことは、今でも脳裏に描くことが出来る。
(覚束ない足取りで、私は自分の人生を選べた。二度目の人生では、『繰り返し』に戸惑いながらも前に進んだ。……三度目からは、迷わずに走ることだって)
もちろんこれは、フロレンツィアの知り得ないことだ。
(この人生でも。――全力で駆けたから、アルノルト殿下に出会えた)
これまで繰り返してきた人生のことを、リーシェ以外の誰も知らない。
だからこそ、リーシェ自身が胸を張る。
「他の誰かに守られなかったことなども、決して悲しくありません」
あまり上手には、出来てなかったかもしれない。
それでも、庇護してくれる存在がなかった事実より、今ここにある結果を大切にしたい。
「――あのとき前に進むことを選べた自分を、誇らしく思っていますから!」
「…………」
リーシェが微笑んで告げたとき、フロレンツィアが静かに表情を消した。
「どうか信じていただけませんか。フロレンツィア陛下」
膝の上に再び両手を重ねて、リーシェはフロレンツィアを見上げる。
「私は、両親に言われるがまま、この国に嫁いできたのではありません。……自分が両親と距離を置くことを選んだからといって、アルノルト殿下とお父君を掻き回したい訳でもありません」
説得力に欠けるということは、もちろん分かっている。
それでも今は、言葉を重ねた。
「私はただ、アルノルト殿下が」
二年後には実の父を殺し、世界を戦争に導く人の、背中を思い浮かべる。
「あのお方の未来が、幸福なものであってほしい――……」
「それなら」
フロレンツィアが扇子を閉じて、テーブルの上へ頬杖をついた。
そして、甘い声で囁く。
「――アルノルト殿下を、皇位継承者の座から引き摺り下ろしなさい」
「…………!?」
思わず息を呑んだリーシェに向けて、にこっと鮮やかな笑みが返される。
「アルノルト殿下は間違いなく、ガルクハイン次期皇帝として最良の皇子よ。だからこそ、アンスヴァルト陛下との父子としての相性は、あまり良くない」
「…………」
「盛大な父子喧嘩を回避するには、そんな対策が一番だわ。ふふ、そうでしょ?」
フロレンツィアへの警戒を、リーシェはもはや隠さなかった。
本心を取り繕うための微笑みも、気に留めていないふりをした冗談も返さない。寧ろ、ここで社交的な返答をする方が、よほど浅慮に映るだろう。
(どうしてこんな、発言を?)
アルノルトが皇位を継ぐことは、他ならぬアンスヴァルトの決定だ。
その立場から引き摺り下ろせと、実母ではないフロレンツィアが口にした。ガルクハイン皇室に対する叛逆と取られる考えを、妃になるリーシェに明かしたのだ。
(……確かに、アルノルト殿下が皇位を手放せば、お父君を殺しても皇帝にはなれない。軍の指揮権を得られなくなって、戦争を起こす手段すらなくなるわ)
それは確かに、『戦争の未来を回避する』ための、大きな方法のひとつでもある。
(戦争を止める、そんな大義名分でもなければ)
心臓が、嫌な音を立て始めていた。
(アルノルト殿下の未来を知らなければ、戯れでも発言できないような『提案』)
リーシェは、ドレスの裾を小さく握り締め、フロレンツィアを見据える。
(……フロレンツィア陛下は、何をご存知なの……?)
こくりと小さく喉が鳴った。
それでもリーシェは、フロレンツィアへの反論を試みる。
「……お義父さまが、そのような選択をお許しになるとお考えですか?」
「もちろん、許さないでしょうね」
「アルノルト殿下も、決してお役目を放棄なさいません。あのお方は、深い責任感をお持ちですから」
たとえ、この国を嫌っていようとも。
アルノルトは、皇族としての責務を果たし続けるだろう。まるで、生き延びた罰であるかのように。
フロレンツィアが、美しく微笑んだ。
「……亡くなった、他の赤子たちの分も?」
「!」
発された言葉に、再び息を呑む。
(……『塔』で暮らしていらしたフロレンツィア陛下は、ご存知でいらっしゃるに決まっている)
あの塔で生まれた子供たちが、アルノルトの父帝によって殺められたことも。
あるいは幼いアルノルトが、その手伝いをさせられたことも。ひょっとしたら、その目で見て来ているのかもしれない。
「リーシェちゃんも知っているみたいね? アルノルト殿下は、選別を生き残った子供だということ」
「…………」
「そういえば私、ずうっと気になっているの。数多くの御子が殺められる中、どうしてあのお方は殺されなかったのかしらって」
そんな疑問を耳にして、アルノルトに聞かされた事実を思い出す。
(それは、『青い瞳と黒の髪が、お義父さまと同じ』……)
「――青い瞳と黒の髪が、陛下と同じ」
フロレンツィアが、ぽつりと呟くように言った。
「その裏に隠された、本当の生存条件は、何かしら」
「…………え」
手に取ろうとしていたティーカップが、ソーサーにぶつかって音を立てる。
リーシェの失態を前にして、フロレンツィアは微笑みを深めるのだ。
「きっとあなたも知っているのよね? アンスヴァルト陛下が、自らの血を濃く引いた御子をご所望されたって。その証明が、同じ色の瞳と髪」
(そう仰っていた。アルノルト殿下もテオドール殿下も、他に生き延びた四人の妹君も……)
「けれどそれなら、産んだ女に似ている赤子を、どうして生かしておくの?」
「!」
リーシェの脳裏に、とある光景が浮かんだ。
アルノルトが刺されたとき。燃え盛る船の中、フードを纏って身を隠した男は、こんな風に言ったのだ。
『その美しい面差しが、お母君によく似ていらっしゃる』
「アルノルト殿下のお顔立ちは、美しいお母さまによく似ている」
何もかも見透かす妖艶な瞳が、リーシェを楽しそうに眺めていた。
「それなのに、アルノルト殿下は。……なぜ、殺されなかったのかしらね」
「――――――……」
背筋に寒気が走るのを堪え、リーシェはフロレンツィアを見据える。
「……あなたの目的はなんですか?」
「警告よ。可愛いお嫁さんが、恐ろしい皇帝陛下に近付かないようにするための」
紅が塗られたくちびるの前に、フロレンツィアの人差し指が立てられた。
「あとは秘密。――あなたたちの婚儀までに、私が欲しかったものを当てられたら、もう少し話してあげる」
「…………っ」
リーシェが言い募ろうとした、そのときだ。
「失礼いたします。フロレンツィア陛下、リーシェさま」
(オリヴァーさま?)
扉の向こうから聞こえてきたのは、アルノルトの従者であるオリヴァーの声だ。
(……アルノルト殿下が、まだ離宮に戻られていない)
フロレンツィアが微笑んで、リーシェに促す。リーシェは一礼して立ち上がると、急いで扉を開けた。
「どうかなさいましたか? オリヴァーさま。アルノルト殿下は……」
「城下へお降りになられました。同行なさったザハド陛下より、リーシェさまへの共有があるべきだとの助言を賜り、僭越ながらご報告を」
「!」
オリヴァーは柔らかく苦笑しているが、事情はおおよそ察しがついた。
こんな時間に城下へ降りるのであれば、懸念が現実になったということだ。小さな声で告げられたのは、そうして想像した通りの有事だった。
「城下に賊が出たようです。現在は我が君が、近衛騎士を率いての対応中で――……」
***