軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

312 かつての戦い

それは、思わぬ警告だった。

どこか冷たい響きを帯びた声すら、きっと意図されたものだろう。リーシェはひとつ、納得する。

(……フロレンツィア陛下が、今になって私に接触なさることの理由)

先ほど抱いた疑問について、ひとつの答えを見付けられた。

(私が、アンスヴァルト陛下への謁見を実現させたから)

フロレンツィアはそんな真意すらも、敢えてリーシェに明かしている。

捨て置くつもりだった『皇太子妃』が、皇帝アンスヴァルトへの目通りを叶えたことが、フロレンツィアの何かに触れたのだ。

「ふふ。……怖がらせてしまったら、ごめんなさい」

あくまで笑顔を絶やさないまま、フロレンツィアが続ける。

「だけど、もしもリーシェちゃんがうっかりして、アンスヴァルト陛下のご機嫌を損ねたらいけないでしょう? アルノルト殿下だって、そんなことは望んでいらっしゃらないはずよ」

「……まあ。ですが、フロレンツィア陛下」

リーシェは微笑みを作ると、真っ向から返した。

「僭越ながら、私も皇室の末席に加えていただく身です。ご家族と仲良くさせていただくことは、アルノルト殿下のお役に立つことにも繋がるかと」

「あらあら! 面白いことを言うのね。だってあなた……」

フロレンツィアはくすっと笑い、全てを見透かすように言う。

「自分自身のご両親にすら、わだかまりを残しているじゃない」

「――――……」

その言葉に、リーシェは思わず言葉を止めた。

脳裏によぎったのは、小さな頃から告げられていた言葉だ。

『あなた自身の想いなど、あなたの人生には必要がないのです』

『ですが、お母さま……!!』

動揺を、表には決して出さなかったはずだ。

それなのに、フロレンツィアは嬉しそうに微笑んで、こんな風に言う。

「あなたのような子がどんな風に育ってきたか、手に取るように分かるわ。……ご両親の理想通りに振る舞っても、『良い子』とすら言われなかったでしょう」

リーシェのことをよく知るかのように優しい声音で、ゆっくりと。

「賢くあっても生意気では駄目、殿方の支えにはなっても前に出ては駄目。自分のしたいことを我慢して、常に未来の夫のために」

「……フロレンツィア陛下」

「悔しい思いも、悲しい思いもしたでしょう。幼い頃は、きっと何度も泣いたでしょう? 誰にも見付からない場所で、ひとりで声を殺して――そうでなくては、はしたないと叱られるから」

まるで、過去の景色を覗き込まれているかのようだ。リーシェは思わずフロレンツィアに尋ねる。

「どう、して……」

「あら。正解?」

「!」

フロレンツィアは、にこっと笑って首を傾げた。

「……婚約を、破棄されたのですってね」

優雅な仕草で立ち上がった彼女は、リーシェのことを柔らかく見下ろす。

「そのためだけに、生きてきたのにね。あなた自身の価値なんて、優れた男の妻になることだけだと強いられて過ごしたのに。……すべて、ぐしゃぐしゃに壊された」

「……私は……」

「あなたを守るために、たったひとりでも怒ってくれた?」

一度目の人生で婚約破棄をされたとき、リーシェはぽつんと立ち尽くした。

(……生きていく寄る辺を、すべて失くした……)

かつての婚約者が、覚えのない罪を連ねる声。周囲から注がれた、異様なものを見るまなざしのこと。

その空気を、はっきりと思い出す。

「伝統的な慣例に則り、婚姻の義に参列なさらず、ガルクハインにもお越しにならないご両親だもの。……王太子から婚約破棄を言い渡された娘を、庇ってくれたはずもないわよね」

(…………っ)

左胸に、じくりと膿んだ痛みが生まれる。

(貴族の社会において、あれは当然の選択だった)

娘よりも、国家への忠誠が優先されなければならない。特権がある階級の責務を果たすために、そうした個の感情は捨てるものだ。

「あなたには、自分のご両親に対する葛藤がある。そしてアルノルト殿下は、お父君との関係改善など、決して望んでいらっしゃらない」

フロレンツィアが広げた扇子が、艶やかな口元を覆い隠す。

「……この条件が揃っていて、それでも『父と子は仲良く』なんて無邪気に言い切れるほど、能天気なお嬢さんには見えないの」

「…………っ」

これは恐らく、リーシェに向けた賛辞なのだろう。

だとしても、嬉しいなどと思えるはずもなかった。フロレンツィアの胸元には、美しいダイヤモンドの首飾りが煌めいている。

「今度はこうしてガルクハインに差し出された、花嫁さん。あなたはこの国に……」

フロレンツィアが伸ばした手が、リーシェの頬にそっと触れる。

「アルノルト殿下と、アンスヴァルト陛下の間に、何を呼び込もうとしているの?」

「――――……」

彼女に向けられたまなざしは、敵を見るものだ。

(…………)

リーシェは俯いて、ゆっくりと目を閉じる。

『どれだけお前が優秀でも、女に生まれてはすべて無意味なのだ。お前は王太子殿下をお助けするため、それだけのために生きていればいい』

『今日があなたの誕生日? 知っていますよ、母親ですから。――そんなことより、今日のお勉強はどこまで進んだのですか?』

小さかった頃の自分が、寝台の布団に頭を突っ込んで、ぐすぐすと泣きじゃくっている。

『おたんじょうび。……五歳になったんだから、もっといっぱい、おべんきょうしないと……』

エメラルドの色をした目を、再び開いた。

フロレンツィアの手が、リーシェから離れる。リーシェは真っ直ぐに彼女を見上げ、くちびるを開いた。

「まずはひとつ、訂正させてください」

「ええ。もちろんよ」

「自国で婚約破棄をされたあのとき。私を守ろうとした存在が、ひとつも無かった訳ではありません」

くすっと小さな笑みが返る。あくまで子供の相手をするかのように、フロレンツィアが尋ねてきた。

「アルノルト殿下かしら?」

「……それどころか、殿下は今でも怒って下さっています。私よりもずっと」

少しだけくちびるを綻ばせて、アルノルトがしてくれることに思いを馳せる。

「そしてあの瞬間、私のために、最初に戦ったのは」

膝の上に重ねていた手を、リーシェは静かに胸元へ当てた。

そして、心からこう言い切るのだ。

「――――他ならぬ、私自身です」