軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

174 変化したもの

「それにしても。当然のように、クルシェード語を読んでみせるんだな」

(むむむ……。いま、それとなく話を逸らされたような……?)

じっと見つめてみるのだが、リーシェではアルノルトに勝てはしない。仕方なく、彼に問われたことへ返事をする。

「ほんの手習程度で学んだことですので、さほど自信がある訳ではありません。アルノルト殿下の足元にすら、及ぶはずもなく」

かつてのことに、触れてみてもいいのだろうか。

これまでのアルノルトの反応から、迂闊に踏み込むのは躊躇われる。けれどもなんとなく、以前よりはずっと、傍に行くことを許されているような気がした。

だからリーシェは、アルノルトに尋ねるのだ。

「アルノルト殿下は、どなたに教わったのですか?」

「……」

アルノルトは、東屋の屋根から伝う雨を眺めながら口を開く。

「誰にも。……その辺りにあった書物を使って、適当に覚えた」

「あの難解な言語を、独学で……!?」

驚いて目を丸くした。クルシェード語は、教団の司教たちですら、熟練者に習って四苦八苦しながら獲得していくものなのだ。

「子供の頃から、学ぶのが不自然ではない環境に居たからな」

(だからといって、いくらなんでも!!)

巫女姫を母に持つアルノルトは、女神の血を引くとされる血筋である。そのことが極秘に伏せられていたとしても、彼とその母親の周囲には、クルシェード語の聖典などが溢れていたのだろう。

「意外です。アルノルト殿下は、そういった学びにご興味をお持ちでは無いと思っていました」

「世の中に、たとえ使わない知識はあっても、知らなくて良いと言える知識はないだろう」

「ふふ。……ええ、本当に!」

珍しく意見が合ったので、嬉しくなってリーシェは笑った。

それでも、子供のアルノルトが独学で覚えるなんて、並大抵のことではなかったはずだ。

(――お小さい頃のアルノルト殿下には、何か目的があったのではないのかしら?)

あれは、使わない知識であることを前提に覚えられるようなものではない。

アルノルトほどの頭脳を持っていれば、常人よりは苦労しないのかもしれないが、やはりリーシェの知るアルノルトであれば、そこに時間を割くのは不自然に思えた。

リーシェがそう思っていると、アルノルトはふと思い出したように、こう口を開いた。

「……そういえば、一度だけ」

リーシェは、首を傾げるようにしてアルノルトを見上げる。

「俺の書いたクルシェード語の傍らに、母がいつのまにか書き添えた文字があるのを、見つけたことがあった」

「……!」

その言葉に、リーシェは少しだけ緊張する。

アルノルトが、自ら母親の話を切り出すだなんて、これまでならば思いも寄らなかったからだ。

「……お母君は、どのように?」

そうっと問い掛けたリーシェに対し、アルノルトは目を細める。

「さあな」

そして、心底どうでも良さそうに続けるのだ。

「昔のことは、もう忘れた」

「……」

胸が締め付けられるような気持ちになったことが、表情に出てしまったのだろうか。

アルノルトはリーシェを見て、かすかに笑うのだ。

「どうしてそんな顔をする」

「……だって……」

「どうと言うこともない。……それに、お前が俺に見せようとするものを眺めているうちに、思い出すことも随分と増えてきた」

(私が、殿下に見せようとするもの……)

アルノルトに、美しいものや楽しいもの、素晴らしいものをたくさん見せたい。

それはリーシェの願いであり、アルノルトに望まれたことではなかった。

一方的に、自分勝手な行いを続けて来たつもりだったのに、そんなにやさしいことを言われては甘えそうになってしまう。

アルノルトも少しずつ、美しいものへ目を向けようとしてくれているのだと。

「殿下……」

「……」

「!」

アルノルトの人差し指が、リーシェのくちびるに当てられた。

『静かに』と促され、それと同時にリーシェも悟る。

この東屋に、誰かが近付いて来ているのだ。

先ほどの皇帝を思い出して、少しだけ体が強張りそうになった。

だが、やがて雨を避けるようにして現れた人影は、騎士服に身を纏った男だ。

「グートハイルさま」

リーシェが名を呼ぶと、騎士グートハイルは驚いた表情のあと、雨に打たれながらもすぐさま礼の形を取った。

歌姫シルヴィアが恋する相手だ。畏まったその一礼は、舞台上のようにさまになっていた。

「アルノルト殿下。リーシェさま。お寛ぎのところ、お邪魔してしまい申し訳ございません」

(じゃ、邪魔とは……!?)

そう言われて気が付いたが、木製の椅子へ隣り合って座るにしても、確かにやたら近いのではないだろうか。恥ずかしくなるも、今更距離を開けたところで意味は無い。

「大変失礼いたしました。――それでは」

「わあ、お、お待ち下さい!」

グートハイルは、カンテラを手にして雨の中を去ろうとする。リーシェは慌てて立ち上がり、それを呼び止めた。

「どうかこちらで雨宿りを! この雨ももうすぐ止みますので。ね、殿下!?」

「や、止むとは……?」

(そうだったわ、これが普通の反応!)

アルノルトのように、リーシェの判断を当たり前に受け入れる方が稀有なのだ。

リーシェが振り返ると、面倒臭そうな表情をしていたアルノルトは、気怠げに許しの合図をした。

「凌いで行け。……見回りか?」

「は。途中、『塔』の付近にカンテラふたつの灯りが揺らいでいるのを見付けましたので、周囲の警戒をと思い」

(私とアルノルト殿下のカンテラね……)

それは、この塔に来る際に手にしていたものだ。現皇帝の視線を受け、アルノルトが咄嗟に庇ってくれた際、地面に落としてそれっきりだった。

グートハイルは、大きな体を東屋の片隅に寄せ、濡れた前髪をぎこちなく掻き上げている。

「リーシェ」

「は、はい……」

立ち上がっていたリーシェは、アルノルトに呼ばれて再び椅子に腰を下ろす。

雨音の中、奇妙な沈黙が満ちるが、アルノルトだけはそれに構う様子もなかった。

(……この塔の付近には、普段誰も近寄らないのよね? 壁の修繕や、侵入経路になり得る枝の剪定が甘かったのも、それが理由とのことだったわ)

たとえカンテラの忘れ物があったとして、その灯りなどそれほど遠くには届かないだろう。

グートハイルは、小さな火の揺らぎを見つけられる程度には、塔に近づいていたということになる。

(アルノルト殿下は、城内に諜報が入り込んでいる可能性を懸念なさっていたはず。……そのタイミングで、グートハイルさまの行動は、どうしても目立ってしまう……)

リーシェが考えていることに、アルノルトが至らないはずもない。

グートハイルは、いささか気まずそうな面持ちで、それでもアルノルトへと向き直った。

「アルノルト殿下。このような場所で、大変不躾ではございますが」

(……グートハイルさま?)

「先日、私より嘆願させていただいた件。それについての、ご決断は――……」

すると、アルノルトはますます眉根を寄せてみせる。

「その話を、ここでするつもりか」

どうやらアルノルトは、グートハイルの話を理解しているようだ。グートハイルの方も気まずそうに、リーシェに向けて頭を下げる。

「……リーシェさまには、さぞかしお見苦しい姿となるでしょう。それについては、お詫びのしようもなく」

「私のことでしたら、お気になさらず。少し中座を……殿下!?」

アルノルトに腰を抱き寄せられ、リーシェはびっくりした。

「お前が配慮する必要はない」

「で、ですが……」

「分かっていて切り出したのはこの男だ。……それで?」

グートハイルは、アルノルトの足元に迷わず跪いた。

「先日の嘆願より、私の意思はますます固くなりました」

(まさか)

凛としたその声が、こうべを垂れたまま紡がれる。

「――アルノルト殿下にお認めいただき、殿下の近衛となれるのならば。この命、国に捧げ、生涯尽くす覚悟でおります」

その申し出を、リーシェは密かに警戒した。

(やっぱり。これまでの人生通り、グートハイルさまは殿下直属の臣下となって、未来の戦争を支える役割に……)

けれど、次にアルノルトが紡いだのは、予想だにしない言葉だった。

「冗談ではない」

(……え……)

背凭れに肘を掛けたアルノルトを、信じられない気持ちで見上げる。

「お前には一度、告げたはずだ。俺の近衛に、お前のような人間を加える気はないと」

(そんな……)

グートハイルは微動だにしない。

恐らくは、アルノルトがそう答えることを覚悟の上で、それでも願い出ているのだろう。

(……アルノルト殿下は、グートハイルさまを臣下に加えるおつもりがない?)

それは、リーシェの知る未来とは違っている。