作品タイトル不明
162 思わぬ状況に驚きです
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その日の午後、リーシェにとっては非常に気がかりな出来事があった。
リーシェ自身に起きたことではない。婚約者であるアルノルトと、元婚約者であるディートリヒに関することだ。
「アルノルト殿下。本日は、本当にありがとうございました」
夜になり、夜会用の装いをしたリーシェは、ホールに向かう途中の回廊でアルノルトにお礼を言う。
「……まさかアルノルト殿下が、午後のご公務に、ディートリヒ殿下を同行させて下さるとは……」
「…………」
従者オリヴァーからその伝言があったのは、シルヴィアたちを見送ったあと、リーシェが婚姻の儀の打ち合わせをしている最中だった。
心底びっくりしたのだが、どうやらそれはオリヴァーの提案だったらしい。
城下を何か所か回るため、そのついでにディートリヒを回収し、アルノルトの仕事を見せてはどうかと進言してくれたようだ。
『……それは、アルノルト殿下のお邪魔にならないのでしょうか?』
『邪魔にはなるでしょうね。ディートリヒ殿下について、お噂はかねがね』
『オリヴァーさま……!』
『ですが問題ないですよ。多少の邪魔が入ろうと、我が君の仕事ぶりに大した影響はありませんし。年頃の近い皇族の公務を見学いただくのは、ディートリヒ殿下にとって有意義なお時間になるでしょう』
爽やかな笑顔で言い切るオリヴァーに、リーシェはちょっぴり気付いてしまった。
『あの。ひょっとして、楽しんでらっしゃいます?』
『ははは、滅相もない! ただ、立場の近い同世代と接するのは、我が君にとっても刺激になりますので』
それは果たして、良い刺激と言えるのだろうか。
気になったものの、なんとアルノルトが承諾したと聞き、任せることにしたのだった。
「だ、大丈夫でしたか? ディートリヒ殿下が何か、ご迷惑をお掛けしたのでは」
「別に。公務に誰が同行していようと、やることに変わりはない」
「ですが殿下……」
そのとき、回廊の傍にある植え込みから、がさっと小さな物音がした。
「!」
リーシェは少しだけ驚いてしまう。だが、物音そのものにではない。
音が聞こえた瞬間、隣にいるアルノルトが、リーシェを庇う仕草を見せたからだ。
「アルノルト殿下」
「……」
アルノルトの背に隠されたリーシェは、ひょこっと横から顔を覗かせる。
そのあとに、ふたりで生垣の横に視線をやった。
「猫、みたいですね」
「――そうだな」
陰からするりと現れたのは、ほとんど子猫とも呼べるような、まだ小柄な黒猫だ。
リーシェはアルノルトの前に出ると、しゃがみこんで黒猫に手を伸ばす。身を低くする様子がないところを見ると、人に慣れている猫のようだ。
「おいで、おいで」
「……」
「あ。……行っちゃいました」
きっと、あの猫にもこのあとの予定があるのだろう。
少々残念に感じながらも、立ち上がって再びアルノルトの腕に掴まった。
「庇って下さってありがとうございます。……ですが、あれが動物の気配であることは、アルノルト殿下にもお分かりだったのでは?」
「動物だからといって、それがお前にとって安全なものである保証は無い。そもそも獣に入り込まれる時点で、警備を見直す余地があるということだ」
「けもの……。子猫が……」
とはいえアルノルトの言う通り、侵入経路があるのは良くない。
誰かが連れ込んだのであれば、持ち物の確認に漏れがあるということだ。
そして、猫が自力で入ってきたのであれば、木などを伝えば侵入できる城壁があるという証明になってしまう。
(アルノルト殿下は、些細な情報でも判断の材料になさるんだわ)
アルノルトの思考の仕方について、学ぶべき点は多い。そう思いながら、少し考えてみる。
(テオドール殿下に教えていただいた、グートハイルさまのこと。アルノルト殿下は当然、ご存知でいらっしゃるはず……)
見上げたアルノルトの横顔は、いつもと変わらない無表情だった。
それから他愛もない会話を交わしつつ、夜会のホールに辿り着く。
「アルノルト殿下と、ご婚約者のリーシェさまがお見えです」
ホールへの扉が開いたその瞬間、わあ、と柔らかな歓声が沸いた。
シャンデリアに照らされた広大なホールには、たくさんの要人たちが集い、ワインの入ったグラスを手にしている。男女それぞれに注がれる視線の中を歩きながら、リーシェは来客の顔ぶれをそれとなく確認した。
(――何人か、初めてお会いする方がいらっしゃるわね。薔薇をイメージした衣装をお召しの方、あちらがディークマイアー閣下かしら? ハンナヴァルト卿がお連れの方は、以前話していらっしゃったご夫人ね。夜会の主催は現皇帝陛下だけれど、今夜もいつも通りご欠席。アルノルト殿下は、父君の名代を務める形に……)
そこまで考えたところで、視線を感じて顔を上げる。
間近に目が合ったアルノルトが、リーシェを眺めてふっと表情を和らげた。その表情に息を呑むのと同時、周りからもざわめきの声がする。
「お、おい。アルノルト殿下が、あれほど穏やかな表情を……」
(……もしかして。アルノルト殿下はいつも、私が夜会でしていることを、こんな風に見守って下さっていたのかしら)
昨日、アルノルトがディートリヒに話してくれたことを思い出す。
気恥ずかしいが、心から嬉しくもあった。そこに近付いて来たのは、リーシェが初めて会う男性だ。
「こ……今宵もご機嫌麗しゅう、アルノルト殿下。お顔を拝見するのは久方振りですが、お元気そうで何よりです」
「……エーゲル卿」
アルノルトの声が、不機嫌そうな響きを帯びる。
(エーゲル侯爵閣下。確かテオドール殿下いわく、現皇帝陛下に高く評価されているお方のはず)
リーシェも挨拶をしておきたいが、アルノルトから紹介される前に口を開く訳にはいかない。それまで礼の姿勢を取り、会話を聞くのに徹する。
「まずは、この度のご婚約に対するお祝いを。……しかし驚きましたな。これまでいかな女性にも見向きもされなかった殿下が、ついに花嫁殿を選ばれたとは」
「……」
「私の娘も、贔屓目ながらなかなかの器量良しのはずなのですが。殿下のお目にかなわなかったこと、非常に残念に思っております。……しかし、驚くべき噂を耳にしましてな。なんでも『アルノルト殿下が、婚約者さまを溺愛なさっている』とか……」
(……!?)
リーシェは頭を下げたまま、びくりと肩を跳ねさせた。
(エーゲル閣下は、西の地方を治めていらっしゃるはず……!! 一体何がどうなって、そんな地までそんな噂が!?)
侯爵の視線が向けられた気配がしたので、挨拶のタイミングはここだろう。それは分かっているけれど、気まずくて顔が上げられない。
けれども次の瞬間、アルノルトが、俯いたリーシェの 顎(おとがい) に手を添えた。
「生憎だが」
「!」
それによって、顔を上げるように促される。
反射的に従ってしまった所為で、間近にアルノルトと目があった。輪郭に手を添えられたまま、微笑むように穏やかなまなざしを向けられる。
「っ、アルノルト殿下……」
声にならず、ほとんどくちびるの動きだけで彼を呼んだ。
アルノルトは次に、挑発するかのごとく不敵な笑みを浮かべ、リーシェの腰を抱き寄せて言うのだ。
「――妻を溺愛することに、何の問題が?」
(ひえ……っ)
少し悪い顔での発言に、不思議な色香が滲んでいて困る。
侯爵もたじろいでしまったようで、二の句が継げない様子だった。アルノルトはふんと鼻を鳴らし、リーシェの手を取る。
「行くぞ、リーシェ。挨拶は後ほど改めてすればいい」
「っ、は、はい。失礼します……」
略式の礼を申し訳なく思うのだが、侯爵も慌てて立ち去ってしまった。リーシェは心臓を跳ねさせつつも、アルノルトを見上げる。
「あの、よろしいのですか?」
「何が」
(何がと仰られましても……!)
色々と問題があったような気がするのだが、大丈夫なのだろうか。しかし、自分からこれ以上掘り下げる勇気はなく、口を噤んでしまう。
「挨拶のことなら、別にいまでなくとも構わないだろう。――それよりも」
「あ……」
アルノルトの視線を追いかけて、リーシェは思い出す。
「そうでした……」
ホールの隅の柱を見ると、午後はずっとアルノルトと一緒だったはずのディートリヒが、柱の影から顔を覗かせてぷるぷると震えていた。
(な、何故ディートリヒ殿下は、子犬のような涙目で顔を覗かせていらっしゃるのかしら……?)