作品タイトル不明
396.到着したが帰りたい ***SIDE公爵
仕事自体は嫌いではない。だが楽しい休日を過ごすと、行きたくない思いが募る。アマーリアやレオンのため、と己に言い聞かせた。屋敷で行う催しのため、無理を言って休みを作ったのだ。
王宮では部下達が必死で頑張っているはず。分かっていても、出かけたくなかった。見送りに来たアマーリアはレオンを抱き上げている。以前から思っていたが、レオンは自分で歩ける年齢ではないのか?
半分嫉妬なのは自覚があり、さすがに口に出さない程度の分別はあった。羨ましいのを呑み込み、笑顔で彼女に挨拶をする。
「いってらっしゃいませ、ヘンリック様。早くお仕事が片付くことを祈っておりますわ」
妻子の見送りは心が癒される。働いて国を支えるやりがいの他に、彼女らの生活を豊かにしたいと思う。そんな話を聞いた。公爵家の資産は、領地の運営もあって豊かだ。それでも働く俺の活躍で、彼女の地位が安定し、国が富むことで循環する。その流れを作り出すことは、誇らしく思えた。
頑張ろうと決めて、アマーリアの挨拶を受けるために距離を詰めた。頬と額に迷い、両方にキスを贈りたいと思った。だから先に額へ唇を寄せる。触れて離れたところで、彼女が動いた。
……いま、なにが?
頬にキスを返そうとしたのか、アマーリアが背伸びした。レオンの手が偶然を生み出す。唇に触れた柔らかな感触に、目を見開いた。アマーリアも驚いた顔をしているから、狙ったわけではなさそうだ。
唇同士が触れた。事故のような接触だが、キスはキスだ。痺れるような歓喜が全身を襲い、ふわふわした感覚のまま挨拶を終える。何を言い、何を返したのか。まったく記憶にないまま、馬に跨った。
急ぎだったので、馬車より早いと騎乗しての帰宅だった昨夜。馬車で王宮へ向かったなら、中で悶えていたかもしれない。転げ回って叫びたい気持ちを堪え、馬に身を預ける。
身に染み付いた乗馬の技術は確かで、考え事で気がそぞろでも落ちることはなかった。王宮へ到着するまで、何度も唇を舐める。あの出来事は夢ではないか? だが、アマーリアも赤面していた。たぶん、触れたのだ。
どうしよう。前の妻とは子まで成したのに、こんな感動はなかった。今思えば、冷めた夫婦生活だった。彼女には悪いことをした、と心からそう思う。義務だからと関心を向けなかった。
色々考える間に、馬は慣れた道を勝手に進んでいく。王宮の馬車留めに向かう馬に、同行するベルントが慌てて声をかけた。
「旦那様、こちらです」
御者のいる馬車と違い、馬は専門の者に渡す必要がある。馬首を左へ向け、回り込んで降りた。執務室へ歩く間も、アマーリアの真っ赤な顔が脳裏から離れない。
到着したばかりだが、もう帰りたい。痛烈にそう感じた。