軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第34話

十万再生。

その数字を見た瞬間、私はスマホを持ったまま、しばらく固まっていた。

「……えっ」

いや、待ちなさいよ。十万って、あの十万でしょう。一万が十個集まったやつでしょう。小学生でも分かる単位なのに、どうして私の脳味噌は、急に現実感を拒否し始めるのかしら。

黒い画面の中では、私が上げた動画のサムネイルが、やけに堂々とした顔で居座っていた。 再生数、十万超え。高評価も、それなり。コメント欄も、思っていたよりずっと、ずっと優しい。

「……うそぉ」

私はベッドの上で正座したまま、ひどく小さな声で呟いた。

もっとこう、荒れると思っていたのだ。キモいだの、痛いだの、何様だの、人生終わってそうだの――ああ、最後のは実際そうなのだけれど――そういう、人類の悪意の見本市みたいなコメント欄になるものだと思っていた。

なのに、現実は違った。

面白い。また見たい。食いっぷりが気持ちいい。声が好き。何かよく分からないけど目が離せない。怖いけど好き。ちょっと心配になる。応援してる。

……応援。私が。されている。

「なんで……?」

口から、素で漏れた。

いや、本当に、なんでなのよ。私、もっとこう、社会に気持ち悪がられる側の生き物だったでしょう。少なくとも、これまではずっとそうだったわ。

ハーメルンへ上げた小説なんて、緑バーだったのに。あれだけ血反吐を吐く思いで文章を捏ね回して、暗い情念と空腹と、私なりの全部を詰め込んだのに、結果は緑かったのよ。緑バー。あの、創作をやっている人間の心を、静かに殺してくる淡々とした現実の色。

それが、動画だとこれ。

「……私、小説の才能は無かったけれど、動画の才能はあったのかしら」

呟いてから、少しだけ笑ってしまった。ずいぶん回りくどい適性発見だわね。二十六年かけて、自分の向いていることが“黒パーカーでだるそうに大食いする動画”だと判明する人生、なかなか味わい深いじゃない。

でも。

私はスマホの画面を両手で包み込むみたいに持って、じっとコメント欄を見下ろした。

ありがたい。本当に、ありがたかった。

この娯楽がいくらでも溢れている時代に。映画も漫画もアニメもゲームも配信もSNSもショート動画も、それこそ無限みたいにあるこの時代に。その中から、わざわざ貴重な可処分時間を切り分けて、私なんかが作ったものを見てくれる人がいる。

出来損ないが、出来損ないなりに捏ね上げた何かへ、時間を払ってくれる人がいる。

「……すごいことよねぇ」

私はしみじみと呟いた。

時間って偉いじゃない。人生はは有限で、人の一日はもっと有限で、その中の何分か、何十分かを私へ使ってもらっているのだと思うと、ちょっと正座し直したくなるくらいには畏れ多かった。

感謝しか湧かなかった。

だから本当は、コメント欄へ何か返したかったのよね。ありがとうございます、とか。見てくださって嬉しいです、とか。そんな、社会性のある人間なら当然やるようなことを、私だって一応は考えたのだわ。

でも、そこで私は冷静になった。

「……駄目ね」

私は首を横へ振った。

下手に感謝コメントなんか送ったら、たぶんそこで全部台無しになる。絶対、変な言い回しになる。妙に湿る。距離感がおかしい。あるいは頑張って感じよくしようとして、逆に得体の知れない気持ち悪さが漏れる。

そしてコメント欄の空気が、一気に「あっ、この人、動画の中ではギリギリ面白かったけど、素で喋らせると危ないタイプだな」へ傾く未来が、やけに鮮明に見えた。

「そういう事故、何回も起こしてきたものねぇ……」

私は遠い目をした。

いいのだわ。感謝は、胸の内側で煮込んでおけばいい。伝えない感謝だって、感謝であることには違いないでしょう。たぶん。できればそういうことにしておいてほしい。

惜しむらくは、この感謝のほんの一割でも、親とか家族とか、現実の人間関係の方へ回せれば、私の人生ももう少し平和だったかもしれないところなのだけれど。でも、そこは無理なのよねぇ。

だって、コメント欄の向こうの人たちは、私へ食べ物をくれたり、殴ったり、ため息をついたり、未来を案じて説教したりしないじゃない。見て、笑って、面白がって、それで終わる。 その距離感だからこそ、私は素直にありがたいと思えるのだわ。

「……我ながら、終わってるわね」

苦笑した。

でも、すぐにまたスマホを見た。通知が増えていた。

ぴこん。ぴこん。ぴこん。

再生数も、少しずつ伸びる。十万一千。十万一千二百。十万一千七百。

コメントも増える。高評価も増える。

私はそれを、何度も何度も更新して見た。通知欄を閉じて、また開く。再生数を見て、ホームへ戻って、また動画へ戻る。コメント欄を更新して、最新順にして、戻って、また見る。

「……あぁ」

喉の奥から、ひどく情けない声が漏れた。

これ、あれでしょう。スキナー箱のネズミ。レバーを押したらたまに餌が出るから、もう押すのをやめられなくなる、あの哀れで分かりやすい実験動物。

今の私、完全にそれじゃない。通知欄というレバーを、ひたすら叩いている珍獣だわ。しかも、分かっていてやめられないのだから、救いがない。

「次、コメント来るかしら……」

ぴこん。

「来た」

私は半ば反射で画面を開いた。別に大した内容ではない。「また見ます」みたいな、短い一言。 でも、それだけで胸の奥がじわっと熱くなる。

「……やだ、嬉しい」

私はベッドの上で膝を抱えた。情けない。実に情けない。でも、嬉しいものは嬉しいのだから仕方ないじゃない。

もっとも、現実の肉体はそんな情緒に付き合ってくれるほど甘くはなかった。

朝から食パンを五斤しか食べていないせいで、【身体変性】で無理やり胃液の分泌を抑えていても、胃が焼けるみたいに痛い。でも、胃が焼けるように痛いのは、人生を通してだいたいいつものことなのよね。そう思うと、急に大したことではない気もしてくるから不思議だわ。……いや、たぶん普通に大したことなのだけれど。

その時だった。

「紬おばさんー!」

「紬ちゃん、ベイブレードしようぜー!」

窓の外から、いつものように近所のガキの声が飛んできた。

「……はぁ」

私はスマホを胸へ抱えたまま、天井を見上げた。

どうしてこう、私の人生には絶妙に半端な社会との接点が残り続けるのかしら。一人きりで完結するには、私はあまりにも人恋しすぎる。でも、だからといって上手く人とやっていけるほど、まともでもない。

私はどうあがいても、完全にひとりでは生きられないのだわ。でも、だからといって、上手く人と生きられるわけでもない。

その半端さが、どうしようもなく私らしい。

もう一度、窓の外から声が飛ぶ。

「紬ちゃーん! 早くー!」 「……はいはい」

私はベッドからのろのろと立ち上がった。

十万再生の余韻も。通知欄の甘い毒も。胃の焼けるような痛みも。全部ひっくるめたまま、今日もまた、私は中途半端に社会へ引っ張り出されていく。

……まあ、ベイブレードの相手をするくらいなら、まだマシな人付き合いの部類でしょう。 たぶん。