軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第8話 封蝋の中身は、まだ不明

暗号保管室の扉を開けた瞬間、湿った空気が顔を打った。

「護符が——濁っています」

翻訳官の声が裏返った。書簡箱を抱えたままの護衛が振り返り、私も踏み込んで封蝋を確かめた。象牙色のはずの護符紋様が、薄く褐色に曇っている。内部が触れられた証拠ではない。だが——触った痕だけが、確かに残っていた。

「中身は?」

「……不明です。護符の状態では、正規の手順を踏まなければ」

翻訳官は言葉を濁し、手順の棚へ向かった。引き出しを引いた。また引いた。3度目に、音もなく閉めた。

「ありません」

紙が、無い。解読手順の紙が、ただの引き出しの中に——無い。

私は返事をしなかった。するべき言葉が、咄嗟には出なかった。

あの女は几帳面だった。いや、几帳面というより、破綻させないために几帳面であるほかなかったのだと、今になって腑に落ちる。暗号体系の設計、鍵の運用、そして手順書の管理——すべてが彼女一人の頭に収まっていた。棚の中に書き残されていたものが、撤収のたびに少しずつ消えている。書いたのも彼女。持ち去ったわけではなく、そもそも引き継ぐ手続きを誰も命じなかった。

命じなかったのは、私だ。

執務室へ戻ると、殿下は腕を組んで地図を睨んでいた。

「急げと言っているのだ、マリン。なぜ手順が増える」

「手順は変わっておりません。急ぐほど、確認が積み重なるのです」

それが儀礼の鎖、というものだ。外交文書には形式がある。形式を省けば相手が読まない。読まなければ意思が伝わらない。意思が伝わらなければ、期限だけが減っていく。

殿下は舌打ちの寸前で止まり、かわりに深く息を吐いた。

「解読できないまま、返答の刻限が来るのか」

「このままでは」

沈黙が落ちた。私は続けなかった。言い終えてしまえば、もう逃げ道がない。それを殿下が知っている顔で黙っているのは、今に始まったことではない。

ただ——今日の顔は、少し違った。苛立ちの奥に、怯えに近い何かがある。

自席に戻り、机の引き出しの底から、赤い印の束を取り出した。

1枚。2枚。3枚。

暗号辞典の申請書。1枚目は殿下名義で決裁印を求めたもの。2枚目は費用対効果の補足資料を添えたもの。3枚目は急を要する旨を一行付け加えたもの。すべての端に、赤い印が連なっている。

私は一枚だけ抜いた。一番上の、一番古い1枚。日付だけを確かめてから、束に戻す。

声には出さない。出す必要もない。この紙は、刃だ。まだ抜く時ではない。

「殿下の名義で返す」

執務室の廊下から、会計官の声が流れてきた。当然のように、なんの引っかかりもなく。

私は立ち上がらなかった。聞こえていないふりをした。ただ、赤い束の端を爪先でそっと整えた。

翻訳官詰所の戸口で立ち止まったのは、ふと匂いがしたからだ。湯気の匂い。

「茶を持ち込むな」

貼り紙の文言を口で読む前に、白い湯気が扉の隙間から漏れていた。踏み込むと、若い翻訳官が茶碗を両手で抱えたまま石のように固まっていた。震える手から湯気だけが立ち上り続けている。

私は何も言わなかった。ただ、手を差し出した。

翻訳官は観念したように茶碗を渡した。温かかった。

廊下に出て、茶を飲んだ。

夜が深くなってから、封蝋の前に戻った。

護符の鈍い輝き。中身はまだ不明だ。暗号辞典は無い。手順書も無い。解読できる者も、今夜はいない。

だが——問題はそこではないのかもしれない、と初めて思った。

読めない、ではなく。読めない国に、我々自身がしてきた。

その違いが、これほど重くのしかかるとは。

封蝋を見つめたまま、私はもう一度だけ、赤い束のことを考えた。

翌朝。追伸のない返書が届いた。文面は正確だった。敬語も整っていた。それなのに相手国の筆致が——明らかに冷えていた。怒りではない。もっと静かな、温度の死に方だった。

「……追伸が、無いだけで」

翻訳官が呟いた言葉を、私は手帳に書き留めなかった。だが、消えなかった。

問題は、なぜ追伸が無いだけで相手の筆致が冷えるのか、ではない。

問題は——その一行が、誰にも書けないことだ。