作品タイトル不明
第49話 その条件は、何
神殿の公証室。香気が深く沈んだ空間で、私の息が止まった。
机の上には、羊皮紙が3枚。1番目は「婚約証書・条件欄」。2番目は「就業契約書」。3番目は「秘密保持契約」。全部に、レオンのサインが既に入っていた。それなのに、1番目の「条件欄」だけが、空白だった。
神殿公証官が、澄んだ声で言った。
「署名者の『条件』を先にお聞きしてから、清書いたします」
つまり、答えるまで次に進まない。ここで、この場で、公証官の目の前で。
私は息を吸った。吐いた。万年筆のひびを親指でなぞった。
条件は「働け」だと思っていた。王宮ではそうだった。手を上げて質問するな。夜間の報告は簡潔に。追伸欄に私見を書くな。全部が条件だった。
でも紙面には何も書かれていない。
「フィリーネさん」
レオンが立っていた。護衛は後ろにいる。公の場だから距離が保たれている。
「ご自身の条件を、言葉でお願いします」
同じ大きさの署名欄が並んで用意されていた。彼の名の下に、同じ高さで、私の名を書くための欄。
対等だ。
その対等さが息を詰まらせた。
「この契約は」と公証官が続ける。「署名者双方の『これならいい』が一致した場合のみ、確定いたします。片方が署名を拒否した場合、無効」
つまり、彼も同じだ。私が「いいえ」と言えば、彼の署名も無効になる。力関係は、ない。
廊下へひと度、案内されることになった。同僚書記官が小さな部屋へ導いた。レオンも一緒に。
「時間は15分。その間に条件を決めてください」
扉を閉じた。雨音だけが聞こえた。
「フィリーネ」
レオンが、まず名前で呼んだ。いつもみたいに、ゆっくり。
「これを」
彼が机の上に白紙を置いた。いや、白紙ではない。文字が1行だけ、印刷されていた。
「『以下の条件について、署名者フィリーネは以下を要求する』」
それだけだ。後は空白。
「あなたが、書くんです」
彼は懐から、別の紙を出した。折り目だらけの小さな紙。でも今度は開かずに、机に置いた。
「昨晩、あなたが書いた『毎晩、この机で。機能としてではなく』——これは、もう私の約束欄に印鑑で確定されています。だから、あなたのものは、何でもいい」
彼が紙を差し出した。
「1番目『勤務時間』、2番目『休息日』、3番目『記録管理』。あなたが『これは違う』と言えば、直してもいい。あるいは全部削除してもいい」
指先が紙の上で震えていた。彼の指が。
「『あなたが要求する条件』を1行、書いてください。何でもいい」
ここで呼吸を整えた。
「あるいは、『何も要求しない』と書いてくれたら、それでいい」
声が、低かった。待っている。でも強要ではない。選べる。
「ここで『逃げない』と決めたあなただから」と彼が言った。「次は『選ぶ側』で大丈夫です」
私は息を整えた。万年筆を握った。軸のひびが、いつもより痛かった。
「でも……これは約束ですから」
「そうですね」
「条件を書けば、あなたはそれを『守るべき規定』として扱う?」
「ええ」と彼は言い切った。「公証官と神殿の面前で」
私のペン先が、白紙に向かった。
1行だけ。
「この部屋から出た時、廊下を歩くまでの間に、手を——」
ここで、ひと度止まった。言葉の選択。「手を取る」と書けば、それは「勤務」ではなく「恋」を要求することになる。それは、契約ではなく告白だ。
彼が動かなかった。待っている。この沈黙も、時間の一部だ。
私は筆を進めた。
「手を取ってもいい、と公の場で証人がいる中で確認してくれることを、要求します。『護衛の目の前で』と明記されるならば」
句点を落とした。
その時、レオンの息が、かすかに漏れた。吐き出したように。安堵のように。
「いいですか?」と私が聞いた。
「完璧です」と彼が言った。耳が赤い。「その条件は、完璧だ」
彼が赤ペンを取った。公証官から渡されたペンのようだ。彼は、自分の条件欄の「『ここにいてください』以外は、あなたが決めていい」という部分の下に、赤く線を引いた。
「修正」
そう言って、同じペンで追記した。
「『ただし、手を取る場面は公の場で。護衛が証人として立会える状態で。その場面においては、隠さない』」
彼の手が、かすかに震えていた。
「あなたの条件を、私も条件にします」
紙を返した。署名欄の横に、新しい欄が生まれていた。「修正条項」欄。その中に、彼の文言が赤で印刷されていた。
同僚書記官に呼ばれた。
「時間です。公証室へ」
廊下を歩く時、護衛が私たちの間に入らなかった。わずかに距離を取ったまま。
神殿公証室に戻った。
公証官は、手渡された修正版の紙を読んだ。そして、何も言わずに、清書を始めた。ペンが動く音。羊皮紙に文字が落ちる音。
「署名前に、ひと度、読み上げます」
彼の声が、空間を満たした。
「『婚約証書。署名者フィリーネ・クレスト及びレオン・ヴァイスは、以下の条件に同意する。第1条、勤務時間は月1回の報告とする。第2条、休息日は週1日とする。第3条、記録管理は神殿公証官の指示に従う。第4条、ここにいてください以外は、あなたが決めていい。修正条項、手を取る場面は公の場で。護衛が証人として立会える状態で。その場面においては、隠さない』」
沈黙があった。
「署名者、異議ございますか」
私たちは、2人とも首を横に振った。
署名台に導かれた。2人分の署名欄が横に並んだ。同じ高さ。同じ大きさ。
レオンが先に署名した。彼の翔という名が机の上に落ちた。
次は私だ。
ペンを握った。手が震えていた。万年筆のひびが親指に痛い。
署名欄に、フィリーネ・クレストと書いた。線が1本に繋がる。切れない。逃げない。
署名を完了した時。
「誓約印は、本日中です」
公証官の声が、冷たく響いた。
「返事が遅いと、書面ごと無効になります」
つまり、後戻りできない。手続きは、もう始まっている。明日の朝まで、この婚約は宙ぶらりんだ。返事を書かなければ、署名そのものが無効になる。
彼の手が止まった。修正条項を見ている。
「確認いたします。修正条項は、本日中に実行いたしますか」
彼は何も言わずに、ゆっくり手を伸ばした。
護衛が、その動きを読んだ。動かなかった。見守る距離を保った。証人として。
彼の手が、私の手に触れた。
指が重ねられた。公の場で。神殿公証官の目の前で。
「確認しました」と公証官が言った。「修正条項は、この場で実行確認されました」
神殿の羊皮紙に、その事実も記録されるのだろう。彼女の手を、彼が、公の場で取った。その証拠も。
手が離された。でも温度が残った。執務室に戻ると、婚約証書の控えが置かれていた。
修正条項が赤インクで印刷されていた。
その条項を読み終わった時、レオンが廊下から戻ってきた。
「フィリーネ」
公の場ではない。執務室。同僚書記官も、まだ奥のデスクにいる。でも彼は名前で呼んだ。
「約束の手は、意外でした」
彼が静かに言う。
「『勤務時間を短くしてほしい』とか『月の休息を増やしてほしい』とか、そういう条件だと思ってました」
「……違うんですか」と私は聞いた。
「ええ」
彼が机の上に書類を置いた。婚約証書の控えの、修正条項の部分。
「『手を取る』を公の場で確認させたあなたが、怖い。——良い意味で」
彼は笑った。小さく。
「それは『逃げない』ということだ」
扉の向こうから、同僚書記官の声が聞こえた。
「返書の封を切る前に」
廊下からの呼びかけだ。
「『最後の1行』だけ、決めてください。明朝、公証官への届け出があります」
つまり、終わりではなく、始まりだ。返書を書く期限が、もう動き始めている。
レオンの手が、また机の上に置かれた。修正条項の「手を取る」という言葉の上に。
「明日も、同じ条件で」
彼が静かに言った。
「同じ条件?」
「ええ。公の場で。あなたの手を」
彼は言葉を止めた。いつもの「非公式には」の場所で。
でも今は違う。修正条項が、彼の言葉を守っている。公の記録が。神殿の紙が。
だから彼は言い終えることができた。
「取る。毎日」
その声は、条件でもなく、願いでもなく。
約束だ。
手続きの中に、落ちた約束。条文の下に隠れた、温度。