軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第2話 鍵付きの箱、何を守る

旧執務室に足を踏み入れたとき、まず気づいたのは光の量だった。

窓が東向きで、今の時刻には午前の陽が斜めに差し込む。6年間、その光を浴びながら机に向かっていた。いや、正確には浴びていない。朝に来たとき既に仕事があり、光の向きを気にする暇がなかっただけだ。

机の上に、書簡が1通残っていた。

返信期限は——明日だ。

足が止まった。手が、反射的に封書に伸びかけた。指が紙の端に触れる、その直前で、私は腕を引き戻した。

私は、もうここの人間ではない。

心臓が一拍だけ、変な鳴り方をした。

机の引き出しを開けると、私物と呼べるものが驚くほど少なかった。

予備のインク壺——これは支給品だ。砂袋——備品。日程帳は来年分まで書き込んであるが、これも王宮の事務方が準備する。ならば私の所有物は何か。引き出しの底を確かめながら、段々と気分が奇妙になってきた。6年間ここで働いて、持ち帰れるものが何もないのは、なぜだろう。

辞典が3冊、棚に並んでいた。

外交儀礼書、条約用語集、5カ国語の対訳辞典。いずれも王宮の備品登録番号が背表紙に貼られている。私が手垢で黒くした角も、注釈を書き込んだ余白も、ここに置いていくものだ。

侍女のイルが入ってきた。荷物の整理を手伝うと申し出た若い子で、真面目な顔が長所の子だ。彼女は迷いなく辞典棚に向かい、3冊まとめて抱えようとした。

そして「うっ」と腰を押さえた。

対訳辞典だけで大判3冊。私も重さは知っている。6年で1000回は持ち上げた。

「1冊ずつの方が」

私が言う前に、彼女は顔だけ平静を保ったまま固まっていた。腰が悲鳴を上げているのに、職務なので下ろせないと判断している顔だ。

机の引き出しの奥に、湿布が1枚入っていた。——私物、と言っていいものかわからないが、これは確実に自分で買った。私は引き出しから湿布を取り出して、イルに差し出した。

「先にこれを使ってから」

彼女が目を丸くした。意味を理解するまで1秒かかった。

「あ、ありがとうございます......」

まず辞典を床に置いてから湿布を受け取っていた。真面目な子だ。

万年筆は机の上にあった。

6年前に支給された品で、軸は黒漆塗り、金のペン先。王宮書記官が全員使うものと同じ型だが、私のだけ軸にひびが入っている。3年前に落として、そこから細い亀裂が走っている。

修理の申請書は、出した。2回、出した。どちらも「備品の修繕は年度末予算審査が必要」という文言で却下されて戻ってきた。3回目の申請書を出す前に、私は自分でひびを接着剤で埋めた。滲み方が変わって書き味が落ちた。それでも使い続けた。

返却するべき、か。

しかし技術的には、軸のひびは私が修理した後で生じたことになるのか、それとも私の責任で落としたときから発生したとみなすのか。申請却下の結果、私が手を入れているという事実はどう処理するのか。

細かい話だ、と思う。でも細かい話の積み重ねが、6年を形作っていた。

私は万年筆の軸を、親指の腹でそっとなぞった。ひびの感触は、いつも通りだった。

「……これは持って帰ります」

声に出たのは、自分でも意外だった。

イルが振り返った。私は万年筆を懐にしまいながら、「修理代は自分で払ったので」とだけ言った。

書簡箱は、棚の一番下の段にあった。

施錠式の小箱で、鍵は常に自分で持っていた。外交書簡の控えを収める箱だ——本物の書簡は王宮の文書庫へ行く。私が保管していたのは、送受信の記録、草稿、暗号鍵の変更履歴、儀礼日程の照合表。写しと記録の束だから、機密の扱いではない。だが私の手が入っているものだ。

鍵穴に触れた。

この鍵を持ったまま退去しても、問題はない——はずだ。引き継ぎ不要と言われた。つまり箱の中身も不要とされた。ならばこれは今、どこに属するのか。

王宮の備品か。私の仕事の痕跡か。

私は箱を手に取った。

軽かった。予想より、ずっと軽かった。

この箱には5カ国、17の相手先との書簡の記録が入っている。条約の草稿が入っている。暗号体系の設計書が入っている。私が1人で積み上げた6年分の仕事が、紙の束として入っている。それが、片腕で軽々と持ち上げられる。

なのに、腕が重かった。

手首から肩にかけて、石でも入ったような重さがあった。箱の物理的な重さとは全く別の何かが、腕ではなく腕の中の何かを——引っ張っていた。

喉の奥で、言葉が形になる前に崩れた。

これは「引き継がない」のではない。

私は「渡さない」のだ。

この中のものは私が書いた。私が考えた。私が徹夜で直した。6年かけて積み上げた記録に、私以外の名前は1文字もない——正確には、私の名前も入っていない。書簡官の役職と、王太子殿下附きという肩書きだけが押してある。

でも、書いたのは私だ。

「これは、私が持ちます」

今度は最初から、声で言えた。

イルが少し驚いた顔をしたが、何も言わなかった。彼女は黙って頷いて、湿布を腰に貼りながら辞典の1冊目を持ち上げた。

廊下を歩きながら、書簡箱を抱えた腕がまだ重かった。

イルが並んで歩いていたが、途中で「残りの整理を——」と部屋に引き返した。私は1人になった。

廊下には他の書記官が何人かいた。顔見知りが2人、目が合った。どちらも軽く頭を下げた。何も言わなかった。私も何も言わなかった。

それでいい、と思う。言うべき言葉が、今の私には見つからない。

箱を、もう少し強く抱えた。

軽い。本当に軽い。でも6年分の記録がある。5カ国との書簡がある。追伸の控えも、全部ここに入っている。誰かに届いていたかもしれない言葉が、紙の重さで存在している。

廊下の窓から、外が見えた。

今日の空は、何色だろう。

私は足を止めずに、ただ窓の外を一瞬だけ見た。青かった。6年間、見る暇がなかった青さが、そこにあった。

足を止めなかったのは、止まり方を忘れているせいかもしれなかった。

王宮の出口まで、もう遠くない。

それは後になって、気づいたことだ。

あの箱には条約の草稿だけでなく、暗号鍵の変更履歴が全て入っていた。5カ国との書簡に使った暗号体系の設計書が入っていた。私が独自に整備した対訳の補足注釈も入っていた。

王宮にその写しはない。私が控えとして作った唯一のものだ。

あの箱は——この国の外交の、背骨そのものだった。