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作品タイトル不明

第六十五話 太った家の重さ

秋の評定は、冬のそれより音が多い。

外では風が落ち葉を転がし、庭の木が乾いた枝を鳴らす。廊を渡る者の足音も、夏より少し高く響く。空は高い。だが、空が高いということは、同じだけ遠くまで見えてしまうということでもあった。

天文十六年の秋、阿蘇の館には、そういう遠さを量る空気があった。

戦は勝った。

筑後は手に入った。

名和は正式に下った。

少弐には調略の文が入り、肥前の人心はすでに揺れ始めている。

ここまでだけを見れば、順風であった。

だが惟種は、順風ほど怖いものはないと知っていた。

風は、吹いている時ほど人の足を軽くする。

軽くなった足は、とかく地を踏み外しやすい。

その日の評定は、広間いっぱいに人を入れるほどではなかった。

だが、軽くもなかった。

上座に惟豊。

その少し下に惟種、宗運、宗傳。

北里政久、田代宗傳、甲斐宗運、高森惟房、そして旧龍造寺の家宗、鍋島清房、石井兼清、小河信安らも列している。

いま阿蘇は、内だけで国を量れる家ではない。

筑後を抱え、名和を抱え、その先に肥前を見ている。

ゆえに、この評定は家中の確認であると同時に、阿蘇がいまどこまで来たかを、自分で見誤らぬための座でもあった。

惟豊が短く言った。

「始める」

その一声で、座が静まる。

最初に板を広げたのは宗傳だった。

「まず、内のことにございます」

広げられた板には、肥後、筑後、そして名和筋の村々まで細かく印が付いていた。田、蔵、市、川筋、荷の口、荒れ地の戻り、寺子屋の置き場まで、前の評定よりもはるかに書き込みが多い。

「筑後は、立ち直りの早いところから、すでに目に見えて戻り始めております」

宗傳が言う。

「柳川筋はまだ荒れが深うございますが、北里殿・田代殿の差配により、城番は安定し、起請文もほぼ行き渡りました。村の戻りも、当初の見込みより早うございます」

北里が短く続けた。

「勝った兵の私闘、押領、勝手な徴発はきつく止めております。村へ手を出した者は、阿蘇の兵とて容赦なく咎めました」

「よい」

惟豊が頷く。

北里の顔つきは、もう戦場のそれだけではなかった。

城と国衆を押さえ、警固の筋を通し、村の気を見ながら歩く者の顔になっている。

宗傳がさらに板の別の端を指した。

「名和筋は、もっと素直にございます」

その言い方に、何人かの口元がわずかに動いた。

「もとより阿蘇のやり方を少し取り入れておった分、飲み込みが早い。取り立ての軽重、市の口、荒れ地の戻し方、いずれも大きな乱れなく回り始めております」

宗運が横から静かに言う。

「小さき家は、決まれば早い」

「はい」

宗傳は頷いた。

「反対に、筑後は広く、戦の傷も深い。されど、阿蘇の方式はすでに違いを出し始めております」

惟種は、その板を黙って見ていた。

いきなり絞らぬ。

荒れ地へ先に入れる。

市を止めぬ。

流れてきた者を座らせる。

兵に村を荒らさせぬ。

どれも派手ではない。

だが、そういう地味なことが国の底を変える。

宗傳が、少し声を低くした。

「石高にございます」

座の空気が一段締まる。

もう皆、この家では数字がただの飾りでないことを知っていた。

数字は、田の実りであり、民の残りであり、兵の腹であり、文の重さでもある。

「昨年の見立ては二十万石に迫る勢い、と申し上げました」

宗傳が板に手を置く。

「本年は二十八万石見込みと見ておりました」

そこまでは、すでに座の者たちの頭にある。

「されど」

一拍置く。

「筑後と名和を取り込み、今や帳面の上では四十万石に届く勢いにございます」

ざわり、と空気が動いた。

大きな声は上がらない。

だが、息の漏れる音だけで十分だった。

四十万。

その響きは、家中にとってもまだ重い。

夢ではない。

もう、ただの山家でもない。

高森惟房が思わず小さく言った。

「四十、か」

「もっとも」

宗傳はすぐに続けた。

「取ったばかりの地を含みますれば、実りはまだそこまで参りませぬ。筑後の戻りはこれからにございます。されど、勢いとしてはそこまで来ております」

鍋島清房が、その板を見ながら低く言った。

「石高だけなら、もう九州でも軽く見られる家ではありませぬな」

誰も、それを否定しない。

惟豊がそこで口を開いた。

「石高だけなら、だ」

短く、重い言葉だった。

「格も、名分も、外聞も、まだ一足で並ぶものではない」

「は」

「だが、それでも四十万に届く勢いまで来たことは、忘れるな。家は太った」

その言葉を受けて、座の中にいる者らもあらためて背を正した。

惟豊はこういう時、浮き足立つことを許さぬ。

だからこそ、この家はここまで来たのだと分かる。

宗運が次の板を出した。

「次に、外向きにございます」

今度は地図ではない。

文と印の流れが分かる板である。

「大内とは、浅うございますが、文が通い始めました」

何人かが顔を上げる。

「深くは寄りませぬ」

惟種が言った。

「寄ると飲まれる」

「はい」

宗運が受ける。

「されど、文の筋を持つのは利にございます。大内にとっても、阿蘇がただの山家ではないと知れ始めておりましょう」

惟豊が黙って聞く。

大内は遠い。

だが遠いからこそ、格と文の橋にはなる。

深く寄れば巻き込まれる。

浅く結び、必要な時にだけ使う。

それが今の阿蘇の筋だった。

「大友は」

惟豊が問う。

宗運が別の文を取り上げた。

「相変わらずにございます」

「警戒しておるか」

「はい。露骨に兵を動かすには至らずとも、文の端々、行き来する者どもの顔、裏からの誘い――いずれも、こちらを軽く見ておりませぬ」

惟種はその言葉を聞きながら、先の大友の座を思い出していた。

鬼童。

阿蘇。

次代。

あちらもまた、こちらを見ている。

「大友の調略は」

甲斐宗運が問う。

「いくつか来ております」

宗運は落ち着いて答えた。

「されど、今のところは撥ねております。こちらの筋が通り、家中が割れておらぬゆえにございます」

清房が小さく息を吐く。

「家中が割れておらぬ、か」

「うむ」

惟種は言った。

「だから今は、まだ入れぬ」

それだけで十分だった。

今の阿蘇の強さは、城でも石高でもなく、家中がまだ一つの筋で回っていることにある。

宗運が、今度はさらに西の方へ指を移した。

「相良は様子見にございます」

その言葉には、どこか苦みがあった。

「祝いは送る。礼も欠かさぬ。されど、当主はなお出て参りませぬ」

「らしいな」

惟豊が言う。

「はい」

宗運は頷く。

「阿蘇を敵に回す利は薄いと見ております。だが名和のように、今すぐ臣従するほどには追い込まれておらぬ。ゆえに、動かぬ」

「それで終わりか」

惟豊が問う。

「終わりませぬ」

宗運の目が、わずかに細くなる。

「探っております」

座の何人かが顔を上げた。

「何をだ」

「阿蘇のやり方を、にございます」

惟種は黙っていた。

やはりそう来たか、とだけ思う。

「商人筋、寺筋、流れてきた百姓、鍛冶、荷運び――そうしたところから、こちらの軽税、市の立て方、村の戻し方を拾わせております」

北里が低く笑う。

「厭らしい」

「相良らしゅうございます」

宗運は平らに言った。

「まだ寄らぬ。だが、見ぬふりもせぬ」

それは、よい当主の選び方でもあった。

敵ではない。

味方でもない。

だが、こちらを学び始めた。

それだけで、周りがこの家をどう見始めているかが知れる。

そして最後に、宗運は板の上の北を示した。

「少弐にございます」

座の空気がまた変わる。

家宗の目が静かに細くなる。

石井兼清の肩が、ほんのわずかに強ばる。

この話が、やがて自分たちの話になることを、誰よりもよく知っているからだ。

「こちらの文は、すでに幾つかの国衆へ入っております」

宗運が言った。

「露骨に動く者はまだおりませぬ。されど、心の揺れは出ております」

「誰が」

惟豊が問う。

「今ここで名を広く申すべきではございませぬ」

宗運は答える。

「ただ、協力を求めてくる者が出始めております。城より先に、人の方が揺れておる」

家宗が、そこで初めて口を開いた。

「旧き縁が、まだ残っております」

「うむ」

惟種が短く答える。

「少弐は、今年はこちらへ大きくは出ますまい」

宗運が言う。

「だが来年、決戦を覚悟しておるように見受けられます。大友の裏の手も、うっすらと見える」

「兵か」

「そこまでは」

宗運は首を振る。

「むしろ米、銭、武具。兵を出さず、後ろから火を保たせる形かと」

惟豊が小さく鼻を鳴らした。

「大友らしい」

「はい」

「大内は」

「少弐より使者が出ております」

清房の目が動く。

「助けを乞うためではあるまいな」

「おそらく」

宗運は答えた。

「少なくとも、まだ少弐は健在していると示すためにございましょう。大内にとっても、肥前の火が完全に消えぬ方が利と見る向きはありましょうが、今さら少弐を立てるほどの厚みはありますまい」

惟種は黙ってそれを聞いた。

少弐は折れかけている。

だが、まだ折れてはいない。

だからこそ、来年が重い。

宗傳が、そこで別の板へ手を移した。

「内のことに戻ります」

話題が変わっても、座の重さは軽くならなかった。

「産育方の取り決めが、ようやく村に根づき始めております」

惟豊が目を向ける。

「どうだ」

「まだ大きくは申せませぬ。されど、村によっては、生まれてすぐ落ちる子が目に見えて減ってきております」

座の中で、その言葉を軽く聞く者はいない。

戦の手柄のように華やかなものではない。

だが、人の数が減らぬということが、あとでどれだけ国を変えるかを、この家はもう知り始めていた。

「産婆役も、少しずつ定まりました」

宗傳は続ける。

「母乳の足りぬ家へのつなぎも、方の方から動くようになっております。煮た水と粥を使えというお触れも、村々で通り始めました」

宗運が補う。

「難しい薬ではありませぬ。手と水と乳と休み。だが、その四つが揃うだけで、やはり違う」

惟種は何も言わなかった。

ここは、言わぬ方がよいところだ。

宗傳がさらに言った。

「寺子屋と書付の習いも、前より広がっております。町では札を読める者、村では帳面をつけられる者が増え始めました」

「どれほどだ」

惟豊が問う。

「まだ誰でも、とは参りませぬ」

「うむ」

「されど、兵の荷駄、蔵の札、村の割り付け、そのいずれにも違いが出ております」

つまり、国の足が少しずつ速くなっているのだ。

ここまで聞いて、座の中には確かな手応えがあった。

筑後は戻り始めた。

名和は素直に組み込まれた。

石高は四十万石に届く勢い。

大内とは浅く結び始めた。

大友の調略は撥ねている。

相良は学び始めた。

少弐は来年へ備えている。

産育方も寺子屋も、じわじわと根づいてきた。

これだけ積めば、誰でも少し気が大きくなる。

だからこそ、惟豊はそこで長く黙った。

その沈黙だけで、座の空気が少しずつ変わってゆく。

皆もまた、それを感じて姿勢を正す。

やがて惟豊が言った。

「よう積んだ」

低い声だった。

「ここまで来たことは、偶然ではない」

誰も口を挟まない。

「惟種の先見、宗運の差配、宗傳らの帳面、北里と田代の働き、家中の武、村の戻り、市の伸び――皆が噛んでおる」

惟種は父の横顔を見ていた。

褒めている。

だが、ここで終わる父ではないことも知っている。

「だが」

惟豊の声が、そこで一段重くなる。

座の中の誰もが、その先を待った。

「うまく行っていると思うな」

広間が静まり返る。

「うまく行くのが当たり前ではない」

その一言は、板の上の数字よりも強く響いた。

「勝ちが続けば、人は気が緩む。家が太れば、そのぶん綻びもまた大きくなる」

惟豊は座を見渡した。

「今の阿蘇は、こければ前より大きくこける」

誰も、息を抜かない。

「筑後はまだ立て直しの途中だ。名和も、下ったばかりだ。少弐は来年を見ておる。大友はなおこちらを嫌う。相良は静かに見ておる。大内もまた、文が通ったからといって安堵する相手ではない」

それは、今日まで評定の上に並んだものを、もう一度別の形で置き直す言葉でもあった。

「ゆえに」

惟豊は言った。

「気を引き締めよ」

「はっ」

声が揃う。

「うまく行くのは、うまく行くように人が動いておるからだ。止まれば崩れる。緩めば入られる。ここから先ほど、足元を見ろ」

「はっ」

再び声が揃った。

それで評定は終わった。

人が立つ。

板が下がる。

文箱が閉じられる。

だが、誰の顔にも、先ほどまでのわずかな浮きはもうない。

北里は筑後の冬を思い、

田代は蔵と年の実りを思い、

宗運は少弐と大友と相良の腹を思い、

家宗と清房は、まだ旗になっておらぬ龍造寺の先を思っていた。

惟種は最後まで座に残った。

四十万石。

そこへ届く勢い。

遠いようでいて、もう板の上にはある数字だ。

だが、数字があるから国ができるのではない。

数字の裏にある田と人と文と飯が回って、初めて家は太る。

父の言葉は重かった。

だが、その重さがあるから、まだこの家はまっすぐ歩ける。

惟種は、片づけられてゆく板の向こうをしばらく見ていた。

勝ちの先は、まだ長い。

だからこそ、気を引き締めねばならぬ。

秋の評定は終わった。

だが、それは一区切りであって、安堵ではなかった。

太った家には、太った家の重さがある。

その重さに押し潰されぬようにすることこそ、これからの阿蘇に要る仕事だった。