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作品タイトル不明

第六十四話 まだ寄らぬ家

天文十六年(一五四七年)十月。

球磨の朝は、秋になると音が澄む。

夏のあいだは山も川も濃く鳴る。

蝉は耳を埋め、雨は土を叩き、風もまた湿りを含んで重く渡る。

だが十月に入ると、それらが少しずつ剥がれてゆく。川音は近くなり、木々のざわめきは薄くなり、空だけが高く残る。

相良晴広は、その高い空をしばらく見ていた。

若い当主である。

そう見られることには慣れている。

実際、若い。家督を継いだのも去年のことにすぎぬ。

だが、若いからといって、好きに焦ってよいわけではない。

むしろ逆だった。

相良の家は、焦ってよい家ではない。

焦れば割れ、割れれば痩せ、痩せれば人吉も球磨もたちまち軽くなる。

それを、この家は嫌というほど知っていた。

だからこそ晴広は、朝の冷えた空気の中でいつも一度、自分に言い聞かせる。

急ぐな。

だが、見逃すな。

館の奥では、すでに小さな座が整えられていた。

上村頼興。

内河義則。

この二人がいれば、今の相良は軽くは崩れぬ。

頼興は実父であり、一門の中でもっとも重い男である。

晴広が去年家督を継いだあとも、家中が妙にざわつかず、古い軋みが表へ出すぎなかったのは、この男が後ろにいたからだ。

そして義則は、声の大きな働きをする男ではない。

だが、こういう時に何を言い、何を言わぬべきかを違えぬ。

家が静かに持ちこたえる時には、こういう者ほど重い。

晴広が座へ入ると、二人はすでに待っていた。

形式ばった礼は少ない。

この三人にとっては、それでよかった。

最初に口を開いたのは、義則だった。

「名和が、正式に阿蘇へ臣従したとのことにございます」

晴広はすぐには答えなかった。

分かっていた。

報せは入っている。

だが、人づての噂として耳へ入るのと、こうして家の中の言葉として改めて置かれるのとでは、重さが違う。

「ついに、か」

そう言った声は、思ったより平らだった。

驚きがないわけではない。

だが、意外でもない。

あの冬の山中の密談の時から、名和がどちらへ傾くかは見えていた。

若い当主ではあったが、行興は軽くはなかった。

軽くないからこそ、最後には理のある方へ寄るだろうと思っていた。

頼興が低く言う。

「名和は、よう決めましたな」

「うむ」

「若さで逆に迷うかと思うたが」

晴広はそこで、ほんの少しだけ口元を緩めた。

「若いからこそ、余計な意地が薄かったのでしょう」

自分へも半ば向けた言葉だった。

年を取るほど、人は過去へ引かれる。

昔の顔。

昔の面目。

昔の筋。

それに縛られて、引くべき時に引けぬことがある。

名和行興には、まだそれが薄かった。

だから、見て、決めた。

義則が、机の上へ文を一つ置いた。

「阿蘇へ送った祝いへの返礼も、すでに」

「丁寧か」

「はい」

「当たり前だ」

晴広は言った。

「今の阿蘇は、その辺りを違えぬ」

それが、厄介なのだ。

勝って驕るなら崩しようもある。

だが、勝ったあとに礼を欠かず、血を絶やさず、民へ施しまでしてしまう。

そういう家は、外から見た時に“逆らう理由”が薄くなる。

頼興が、そこでまっすぐ晴広を見た。

「それで」

「うむ」

「当家は、どう致します」

その問いこそ、今日の座の本当の芯であった。

名和は決めた。

少弐は追い詰められている。

大友は焦り始めている。

阿蘇は肥後と筑後を太らせつつある。

ならば相良は、どう立つのか。

晴広はすぐには答えなかった。

目の前にあるのは、一見すれば単純な道だ。

阿蘇へ寄る。

あるいは距離を取り続ける。

もしくは大友や少弐に寄せて、阿蘇へ楔を打つ。

だが、実際にはどれも単純ではない。

阿蘇を敵に回す利は薄い。

それは、もはや考えるまでもない。

名和が臣従した以上、阿蘇は南北に糸を伸ばした。

島津との縁もある。

そこへ相良まで軽々しく敵対すれば、挟まれる形になる。

だが、今すぐ名和のように膝を折るかと言えば、それも違う。

名和は若く、父の代を終えたばかりで、寄ることで家を太らせる道を選んだ。

相良は違う。

晴広は去年家督を継いだばかりだが、その背にはまだ頼興がいる。

家中も、今のところはよく締まっている。

南の島津宗家とも、まだ露骨に刃を向け合うほどではない。

つまり相良は、まだ急いで賭けに出るほど追い込まれてはいなかった。

それが、逆に難しい。

追い込まれていない時の決断ほど、理由を問われるからだ。

「今年は、動かぬ」

晴広はようやく言った。

義則は小さく頭を下げた。

頼興は黙ってその先を待つ。

「阿蘇へ逆らう利は薄い」

晴広は続ける。

「だが、名和のように今すぐ臣従するほど、当家は追い込まれてもおらぬ」

その言葉に、頼興が静かに頷く。

「はい」

「ならば今年は測る」

晴広の声は平らだった。

「祝いは送る。礼も欠かぬ。だが、わしは行かぬ」

義則がそこで言葉を添えた。

「行けば、寄ったと見られましょうな」

「そうだ」

「行かねば敵と見られるほど、阿蘇もまだ暇ではございませぬ」

晴広はそれに小さくうなずいた。

「少弐もある。大友もある。龍造寺を抱えた肥前筋もある」

「はい」

「今の阿蘇は、こちら一つへ無理に手を伸ばすより、先に大きな筋を固める」

だからこそ、相良にはまだ測る時間がある。

その時間をどう使うかが、今の当主の仕事だった。

だが、そこで頼興が低く言った。

「測るだけでは、いずれ遅れますぞ」

晴広は父を見る。

「分かっております」

「名和が臣従したのは、ただ怖かったからではありますまい」

「うむ」

「阿蘇の理を見たからにございましょう」

晴広はしばし黙った。

まさにそこだった。

名和がただ追い詰められて頭を下げたのなら、まだ見下せる。

だが、あれは違う。

少し試し、差を知り、そのうえで線を越えた。

そこが重い。

義則が、声を落として言った。

「阿蘇の手法、取り入れられぬものか」

晴広の目が動く。

「他家にできるのなら、当家にもできることはございましょう」

頼興が、その言葉を黙って受けている。

「つては薄うございます」

義則は続けた。

「されど、探れぬこともありますまい」

それは、この日の座でいちばん大事な言葉だった。

晴広は、その一言を胸の内でゆっくり転がした。

阿蘇の強さは、ただ兵にない。

そこはもう見えている。

民を逃がさぬ。

軽くして残す。

市を止めぬ。

村を戻す。

そして勝つたびに国が太る。

もしそれが本当に“理”であるなら、阿蘇だけのものとして見ているわけにはいかぬ。

「探る」

晴広は言った。

頼興も義則も、顔を上げる。

「兵の強さすべては無理だ」

晴広は続けた。

「だが、村の戻し方、市の立て方、軽く取って総量で勝つ理なら、当家にも拾えるところがあるやもしれぬ」

義則が深く頭を下げた。

「はい」

「ただし、露骨にはするな」

「商人筋にございますか」

「まずはそこだ」

晴広は言う。

「商いをする者は、どこの市が立ち、どこの市が痩せたかをよく知っておる」

「寺筋も使えましょう」

頼興が口を開いた。

「往来の僧は、村の顔つきを見る」

「うむ」

「流れてきた百姓や、鍛冶、荷運びも拾えます」

晴広は、父の言葉を継いだ。

「名和筋からも、少しずつ探れるであろう」

義則がそこで、慎重に問うた。

「阿蘇へ直接、人を立てますか」

「まだ早い」

晴広は即座に答えた。

「今それをやれば、学ぶ前に警戒される」

相手は阿蘇である。

こちらの静観も、当然どこかまでは読んでいる。

そのうえで、いま表向きに無理をしても利は薄い。

「まずは外から拾う」

晴広は言った。

「どの村で人が戻ったか。市に何が増えたか。年貢をどう軽くしたか。流民をどう座らせたか」

「はい」

「そして、真似できるところからやる」

頼興が、その言葉にわずかに目を細めた。

「殿」

「何だ」

「それは、阿蘇へ寄ることになりますかな」

晴広は、その問いに少しだけ考えてから答えた。

「寄るのではない」

「では」

「負けぬようにするのだ」

その言葉で、座は静まった。

相良は今すぐ臣従しない。

だが、阿蘇を無視するつもりもない。

学ぶべきものは学ぶ。

盗めるものは盗む。

そして最後に、寄るか、並ぶか、なお距離を取るかを決める。

それが今の晴広の答えだった。

「少弐は来年が重かろう」

頼興が低く言った。

「うむ」

「大友も、阿蘇を恐れて動くやもしれませぬ」

「それも見よう」

「島津宗家とは、なお急いで荒立てぬで済みましょう」

「それゆえ、今年は測れる」

晴広は言った。

そう、相良にはまだ測る余地がある。

若くして家督を継いだが、後ろには頼興がいる。

南とも今はまだ大きく軋んでいない。

家中も、すぐ割れるほど脆くはない。

ならば、他家が血を流しながら答えを出している間に、こちらは答えの出し方そのものを見ておくべきだった。

「祝いは続ける」

晴広が言う。

「礼は欠かぬ。だが、深入りはせぬ」

「はい」

「阿蘇のやり方は探る。だが、真似るにしても相良の身の丈でやる」

「は」

「今年はそれでよい」

義則が、そこで初めて少しだけ口元を緩めた。

「相良らしゅうございますな」

「褒めておるのか」

「他にどう申しましょう」

頼興もまた、わずかに笑った。

「急がず、だが手ぶらでもおらぬ。たしかに当家らしい」

晴広は、その二人の顔を見て、ようやく少し肩の力を抜いた。

名和のように一歩踏み出す家がある。

少弐のように追い詰められて構える家がある。

相良はそのどちらでもない。

まだ寄らぬ。

まだ賭けぬ。

だが、ただ座して眺めてもいない。

その位置を、自分で選べたことが少しだけ安堵でもあった。

座が解ける頃には、日もだいぶ傾いていた。

空は高く、川の音は朝より近い。

館の外では、秋の風がやや強くなっている。

義則は商人筋へ回す名を思い、

頼興はどの村から手を入れるべきかを考えていた。

晴広は一人残り、開けたままの庭を見た。

阿蘇は太っている。

名和は下った。

少弐は来年を越えられるか分からぬ。

大友もまた焦り始めている。

ならば相良は、どうするか。

「まだ寄らぬ」

晴広は誰に言うでもなく、ぽつりと呟いた。

「だが、見ぬふりもせぬ」

その二つを違えぬことこそ、今の自分の役目であると、ようやく腹の底で定まった気がした。

秋の風が庭を渡る。

その風の下で、相良もまた静かに形を変え始めていた。