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作品タイトル不明

第五十五話 武士の生きざま

天文十六年(一五四七年)七月。

夏の夜は、昼よりも深い。

昼の熱を地に溜めたまま、風だけが少し涼しくなる。草は夜露を含み、遠くで馬が鼻を鳴らす。見張りの声が短く渡り、焚火の赤が陣のあちこちで低く息をしていた。

阿蘇方の本陣は、旭志口から阿蘇北外輪山へ入る出口を見下ろす小高い地に置かれていた。

旧菊池圏の北寄り。

広すぎず、狭すぎぬ地。

敵四千が思うままに横へ広がるには窮屈で、こちら三千五百が受け止めるにはちょうどよい。ここを抜かせれば、北の骨が緩む。ここで叩けば、菊池も筑後も一気にこちらへ寄る。

だから、ここでよかった。

軍議の板が広げられたのは、宵が更けてからだった。

集まった顔ぶれは重い。

宗運。

鍋島清房。

家宗。

石井兼清。

小河信安。

高森惟房。

北里政久。

名和方からは内河義則。

そして、島津より来た若武者が一人。

新納忠元。

歳は若い。だが若いだけの顔ではなかった。島津の一門筋に連なる家の者にして、すでに場数を踏み始めた武者である。体つきは細く締まり、立ち居に無駄がない。目は静かだが、静かなだけに、いつでも刃へ変わりうる鋭さがあった。

このたび島津が寄越した兵二百は大軍ではない。

だが、その二百を率いて来たのが名ばかりの使者でなく、この新納忠元であるということが重かった。

惟種は板の上に置かれた地図を見下ろしていた。

宗運が低く言う。

「では、改めて」

惟種はうなずいた。

指が中央へ落ちる。

「敵は四千」

誰も口を挟まない。

「蒲池が中央を厚く取る。少弐は右へ寄せる」

鍋島清房が小さくうなずいた。

「少弐が旧龍造寺を睨むのは、まず間違いありませぬな」

「うむ」

惟種は答える。

「だからこちらも、それを受ける形にする」

指が中央をなぞる。

「中央は阿蘇本隊。森羅衆を前に置き、鉄砲を輪番で回す」

高森惟房が顔を上げた。

「最初から撃ちますか」

「いや」

惟種は言った。

「引きつける」

「どこまで」

「敵の前列の腹へ、初撃がそのまま食い込むところまでだ」

宗運が横から補う。

「脅す音は要りませぬ。欲しいのは最初の穴にございます」

「はい」

「一の組、二の組、三の組で輪番にいたします。間を空けず、音を止めませぬ」

新納忠元がそこで初めて口を開いた。

「十も越えて鳴れば」

若い声だった。だが浮いてはいない。

「雑兵から先に足が揺れましょう。止まらぬ音は、弾より先に心を折ります」

惟種が忠元を見る。

「島津でもそうか」

「鉄砲は、撃たれる前から怖ろしいものにございます」

忠元は静かに答えた。

「まして、止まらぬとなればなおさらに」

惟種は小さくうなずいた。

「その通りだ」

次に右を指す。

「右は名和三百と旧龍造寺」

家宗の顔がわずかに締まる。

内河義則も静かに頭を下げた。

「少弐が来る」

惟種は言った。

「来るなら、ここで受ける」

家宗が低く答える。

「承る」

「耐えるだけではない。少弐が揺れたら、すぐ押せ」

石井兼清が太い声で言った。

「押しすぎれば列が乱れますぞ」

「先に熱くなるな」

惟種は即座に返す。

「相手の心が退いてからだ」

清房が、その横で小さく笑った。

「若君は、肥前の者の悪い癖をよう御存じだ」

「負ける時ほど前へ出たがる」

「は」

「だからこそ、先に心を折る」

左へ指が移る。

「左は阿蘇の選抜」

北里政久が胸を張る。

「お任せを」

「ただし、突っ込むな」

北里の顔がわずかに曇る。

「……はい」

「左は勝ちに行く翼ではない。崩れぬ翼だ。中央が敵を削るまで、黙って受けろ」

宗運が、そこで板の左後を軽く叩いた。

「勝ちへ行くのはこちらにございます」

皆の視線が、新納忠元へ集まる。

「島津二百と、阿蘇の遊撃百余」

宗運は続ける。

「最初からは出ませぬ。敵が崩れた時のみ動く」

惟種が言った。

「新納殿」

「は」

「そなたの二百は、敵の側面から後ろへ回れ」

「退路を断つため、にございますか」

「それだけではない」

惟種は言う。

「城へ逃げる顔を刈れ。主だった将を討て。帰る先を失わせろ」

忠元の目がわずかに細くなる。

「重い役ですな」

「重い役だから、そなたに頼む」

忠元は深く頭を下げた。

「島津の兵、二百。必ずや刃になります」

宗運が低く言う。

「道案内も添えましょう。敵が崩れてからでは、地の利のある者が一番効きます」

内河義則が静かに問うた。

「名和は、どこまで前へ出ればよろしゅうございますか」

惟種は義則を見た。

「無理はするな」

「は」

「そなたらは、この戦で忠を見せれば足りる。死に場所を争うな。崩れぬことを優先せよ」

義則は、その言葉を黙って受けた。

名和は、もうほとんど阿蘇へ寄っている。

だが今はまだ完全臣従ではない。ここで名和に武辺の意地を見せさせる必要はない。必要なのは、崩れず、約を違えず、阿蘇側で戦ったという事実だった。

宗運が板の上を軽く叩いた。

「今度の戦は、奇を競う場ではございませぬ」

誰も口を挟まない。

「中央で受け、鉄砲で止め、崩れたところを食う。それだけにございます」

惟種がうなずいた。

「うむ。今はそれでよい」

高森惟房が問う。

「横から崩すのではなく、まず正面で止めるので?」

「そうだ」

惟種は言った。

「向こうは数で来る。ならば、まず前へ出られぬと分からせる」

宗運が続ける。

「鉄砲は脅しのためではありませぬ。止めるためにございます。止まったところへ槍を合わせる」

清房が低く言った。

「少弐の方から崩れましょうな」

「おそらくな」

惟種は答えた。

「崩れたら、その時に初めて後ろを食う」

宗運が、少しだけ口元を緩めた。

「車懸りの陣のようなものは、まだ早うございますな」

「早い」

惟種は即座に答えた。

「渦を巻いて突っ込むような真似は、もっと兵が揃い、もっと練れてからだ。今の場で欲を出せば、かえって崩れる」

それで十分だった。

今回の戦に要るのは、凝った形ではない。

整えた兵が、整えたまま敵を止めること。

それこそが、いまの阿蘇の強さだった。

家宗がそこでやや低く言った。

「少弐が崩れれば、蒲池は前へ出ますかな」

「出る」

惟種は迷わず答えた。

皆がその顔を見る。

「退いた先に、もう明日がないからだ」

清房が目を伏せた。

「……あり得ますな」

「あり得るではない。そうなる」

惟種の声は静かだった。

「蒲池は、少弐のようには逃げぬ。家ごと賭けて来る」

その一言は、陣屋の空気を冷やした。

敵を侮る者はもういない。

鉄砲で削る。

練度で上回る。

理もこちらにある。

それでもなお、追い詰められた武士が最後に見せる刃は、最も危うい。

新納忠元が、ふと口を開いた。

「ならば」

「何だ」

「蒲池が前へ出た時こそ、勝ちは近い」

惟種が目を向ける。

「なぜだ」

「家の将が、最後の突撃に自ら出る時は、もう後ろが死んでおります」

忠元は言った。

「将の勇ではなく、軍の終わりにございます」

宗運が低く笑った。

「若いが、よう見ておられる」

「島津もまた、楽な家中ではございませぬ」

その返しに、少しだけ場の息が緩む。

惟種は最後に全員を見渡した。

「勝つために戦う」

誰も口を挟まない。

「だが、それだけでは足りぬ」

惟種は言った。

「この戦で菊池を押さえ、筑後を押さえる。逃がした敵を籠もらせぬ。だから勝ったあとまでが戦だ」

宗運が深くうなずく。

「は」

「今夜のうちにもう一度、兵へ徹底しろ。森羅衆は撃つ順を違えるな。槍組は間を空けるな。遊撃は先に出るな」

「承る」

「名和には無理をさせるな」

内河義則が頭を下げる。

「ありがたく」

「島津は」

惟種が忠元を見る。

「勝負どころまで刃を収めよ」

「御意」

忠元は静かに応じた。

軍議はそこで終わった。

だが、誰もすぐには立たなかった。

板の上にはまだ地形があり、兵の置き場があり、明日の死に場所と生き場所が残っている。焚火の赤が揺れ、そのたびに皆の顔の陰影が少しずつ変わった。

外では夜風が草を鳴らしていた。

夏の夜は濃い。

濃いが、永くはない。

明ければ、もう言葉ではなくなる。

惟種は最後に板を見下ろし、静かに言った。

「明日は」

声は低い。

「阿蘇が勝つ」

それは願いではなかった。

決めるための言葉だった。

夏の朝は、思っているより静かに明ける。

まだ陽が高くなる前、旭志口へ続く道の先には薄い靄が残っていた。草は夜露を含み、馬の脚が通るたびに冷たい雫を散らす。だが、その静けさは長くは保たぬと、惟種には最初から分かっていた。

本陣から見れば、敵はすでに形を取り始めている。

前に蒲池の旗。

その奥に少弐の旗。

その間を埋めるように雑兵どもが続く。

四千。

少なくはない。

だが、怖じるほどではない。

もし阿蘇が三年前の阿蘇のままであったなら、この野で正面から受けてよい相手ではなかっただろう。

だが今は違う。

兵は飯を食い、鍛えられ、槍は三人一組で動くように仕込まれている。森羅衆は鉄砲の輪番を身に入れ、火薬と弾は途切れぬよう後ろで回る。誰がどこで抜け、どこへ入るかまで、すでに腹へ落ちている。

宗運が、惟種のやや後ろで低く言う。

「来ますな」

「うむ」

中央には阿蘇本隊と森羅衆。

右には名和三百と旧龍造寺の衆。家宗、石井、小河、納富、福地らがそこへ入り、鍋島清房もまた、その側で差配に目を光らせていた。

左には阿蘇の選抜。

そしてその左後、まだ表へ出ぬ位置に、新納忠元の率いる島津二百と阿蘇の遊撃隊が控えている。

惟種は短く命じた。

「まだ撃つな」

中央の鉄砲隊は沈黙したままだ。

敵にこちらの間合いを読ませぬためである。近づける。もっと近づける。こちらが欲しいのは、ただ脅す音ではない。最初の一撃で、前列の腹へ穴を穿つことだ。

敵は進む。

蒲池は正面を厚く取っている。

少弐はやや右へ寄り、旧龍造寺勢を睨むような形になっていた。

それを見て、惟種は小さくうなずいた。

やはり来たか、と思う。

少弐は阿蘇だけを見ているのではない。阿蘇の中に組み込まれ、今まさに立ち直りつつある龍造寺を見ている。ならばあちらは、龍造寺のいる側へ自然に引かれる。

家兼に約したことが、戦場の布陣にまで響いている。

「若君」

宗運が言う。

「もう少し」

「うむ」

敵がさらに詰まる。

声が聞こえる。

槍の穂先が夏の朝日を返す。

惟種は、そこで手を上げた。

「撃て」

最初の一斉射が鳴った。

音が、野をひっくり返す。

前列の敵兵が、何が起きたか分からぬまま、いくつもまとめて崩れた。馬が一頭、悲鳴のように嘶いて横へ倒れ、その下敷きになった兵が泥を蹴る。

間を置かず、二の組が撃つ。

三の組が続く。

音が止まらぬ。

蒲池も少弐も、一度目の衝撃には耐えた。すぐには崩れない。崩れないからこそ、ここまで前へ出た。

だが、止まらぬ。

四度。

五度。

六度。

敵の列は前へ出ようとするたびに削られる。槍を寝かせても、足が揃わぬ。前の者が倒れ、その躓きを越えようとしたところへ、また次の音が落ちる。

惟種は中央だけではなく、右も見た。

名和と旧龍造寺の列はまだ崩れていない。家宗が兵を押さえ、石井兼清が前へ出すぎる若い者を怒鳴って戻している。小河信安と納富信景は横へ流れかけた兵の間を埋め、福地信重が列を崩さぬよう旗を動かしていた。

阿蘇の中へ入った龍造寺が、いま初めて、阿蘇の形で戦っている。

それが見えた。

八度。

九度。

十度。

少弐側の列に、はっきりと揺れが走った。

前へ出る足より、後ろを見る顔の方が増えている。

槍より先に、心が退き始めたのだ。

惟種は言った。

「右、少し出せ」

家宗の側へ伝令が飛ぶ。

右の列が、ひと息だけ前へ出た。

押すのではない。敵の揺れへ、体重をかけるのだ。

十二度。

十三度。

十四度。

ここで、少弐側の一角がついに崩れた。

誰かが先に退いた。

それを見た隣が下がった。

下がるなと怒鳴る声があった。

だが、その怒鳴る者自身の横を、別の兵が走り抜けた。

十五度目の音が鳴ったとき、もう誰の耳にも勝敗は見えていた。

少弐の列が、はっきりと後ろへ流れた。

雑兵が散る。

旗が傾く。

逃げる者を斬って止めようとする小将の姿まで見えたが、止まりはしない。

その中で、ただ一つだけ、逆に前へ出る旗があった。

蒲池である。

惟種は目を細めた。

敵の中央、そのもっとも深いところで、なお旗がこちらへ向かってくる。もう連合の勝ちはない。そんなことは、あれを率いる者が一番よく分かっているはずだった。

それでも前へ出る。

蒲池鑑盛は、もう十分に知っていた。

敗けた、と。

鉄砲の音が止まらぬ。

少弐は崩れた。

雑兵どもはもう足を戦へ向けていない。

ここから立て直すことなどできぬ。退けば終わる。籠もっても終わる。

柳川へ帰ったところで、守護の理も、面目も、もう戻らぬ。

ならば、残るのは一つしかない。

鑑盛は、荒く息を吐いた。

兜の下で血の匂いがする。どこかで弾が掠めたのだろう。肩口が熱い。だが、そんなことはもうどうでもよかった。

背後では、自軍が崩れていた。

見慣れた旗が、ひとつ、またひとつと後ろへ流れる。

若い侍が叫びながら退く。

雑兵が槍を捨てて走る。

中にはまだこちらを見ている者もいた。

命を預ける先を失い、ただ当主の背だけを見ている目だった。

鑑盛は、その目を見た。

ここで退けば、この者らの明日まで折れる。

いや、明日どころではない。

蒲池という家そのものが、笑いものとして後に残る。

「我らは後がない……!」

喉の奥から、血混じりの声が絞り出された。

「もはやここで、一か八かの賭けに出るほかあるまい!」

周りの者どもが顔を上げる。

まだ残っている者はいる。

少ない。だが、いる。

それで足りる。

「蒲池につらなるものは、わしに続け!」

声が裂ける。

「武士はなめられたら終わりだ!!」

馬腹を蹴った。

それは、勝つための突撃ではなかった。

敗けたあとに、なお武士であるための突撃だった。

鉄砲がまた鳴る。

前へ出た一騎の横で、従う者が顔を吹き飛ばされる。

別の者の馬が首を撃たれ、横倒しになる。

倒れた主従を飛び越えるように、鑑盛はさらに前へ出た。

「阿蘇の小童よぉ……!」

肩に一発、脇腹に一発、弾が掠める。

もう一発が兜の鉢を叩き、視界が白く弾けた。

それでも手綱は離さぬ。

「これが武士の生きざまよぉおお!!」

声が野を裂いた。

残った者どもも、それに続いた。

家一世一代の最後の一撃。

そう呼ぶほかない突撃だった。

惟種は、その突撃を見た。

まっすぐ、本陣へ向かってくる。

崩れた軍の中で、そこだけが逆巻く波のように前へ出る。

宗運がその横で、低く言った。

「愚かですな」

だが、その声音には侮りがなかった。

「されど、後がないのが分かっておる」

鉄砲の音がなお続く。

「若君」

宗運は言う。

「これが武士ですぞ」

惟種は、答えなかった。

いま見ているものが、ただの勇ではないことは分かっていた。家が潰れる時、後ろへ道のない武士が、最後に前へしか出られぬことも。

だからこそ、それを受けるこちらは冷たくなければならぬ。

「中央、受けよ!」

惟種の声が飛ぶ。

槍三人組が前へ出る。

森羅衆は撃ち方を少しだけずらし、突っ込んでくる蒲池勢の左右へ弾を散らす。正面を撃ち抜きすぎれば、味方の槍にまで食い込むからだ。

鑑盛の馬が、ついに胸を撃たれた。

大きく嘶き、前脚を折る。

鑑盛の体が前へ投げ出される。

地を二度、三度と転がり、槍を取り落としかける。

脇腹の傷が開き、鎧の継ぎ目から血が滲んだ。

だが、そのまま終わらない。

鑑盛は片膝をつき、土を掴んで立ち上がった。

息はもうまともに入っていない。

それでも視線だけは、なお阿蘇本陣を向いていた。

周りでは従う者たちが一人、また一人と斬られ、突かれ、倒れてゆく。

それでもなお、鑑盛の周りだけは、最後の火が燃え残るように前へ出ようとした。

「まだかぁっ!」

叫びが、もはや声とも獣の吠えともつかぬ。

阿蘇の槍が一本、脇腹を裂く。

別の兵の太刀が兜の縁を打ち、鑑盛の体がよろめく。

それでも止まらない。

惟種の本陣までは、もう届かぬ。

それは誰の目にも明らかだった。

だが、それでもなお前へ出るのが、あれの最後の矜持なのだと、惟種には見えた。

宗運が一歩だけ前へ出ようとした。

惟種が手で止める。

「出るな」

「はい」

「ここで受ける」

鑑盛の足が、ついに止まる。

槍が一つ、二つ、三つと突き立つ。

膝が折れる。

それでも顔だけは、なおこちらを向いていた。

歯の間から血を吐き、何かを言おうとしたのかもしれない。

だが、声になる前に、もう一太刀が入った。

蒲池鑑盛は、その場に崩れた。

ほんの一瞬、戦場の音が引く。

次いで、どこかから声が上がった。

「蒲池鑑盛、討ち取ったり!!」

その一声が、野を割った。

敵の足が、そこで完全に折れた。

少弐勢はもう止まらぬ。

崩れ、散り、旗を捨てて逃げる。

「新納殿!」

惟種が叫ぶ。

「いまです!」

左後で待っていた忠元が、すでに馬を返していた。

「島津勢、続け!」

若い声が鋭く飛ぶ。

島津二百と阿蘇の遊撃隊が、一気に敵の側面から後ろへ回り込んだ。最初からそれを待っていたのだ。

逃げ道へ刃を入れる。

城へ帰ろうとする者を断ち、主だった顔を狙う。

新納忠元は若かった。

だが若いだけではない。細く鋭い刃のように、崩れ始めた敵の綻びへ、ためらいなく兵を差し込んだ。阿蘇の軽装兵もそれに続く。逃げる者を追い、捨てきれぬ旗を刈り、首だけでなく、帰るべき顔も失わせてゆく。

右では家宗が叫んでいた。

「少弐を逃がすな!」

その声に、旧龍造寺の兵がいっそう前へ出る。

石井兼清が槍を振るい、小河信安が退路を読む。

名和勢もまた、ここで退かぬ。行興が約した三百は、ただの貸しではなく、この戦のあとに自らの家を阿蘇へ寄せる覚悟を示す三百でもあった。

それでも、少弐冬尚だけは逃げた。

あと一歩だった。

側近どもが体を捨てるように道を作り、その隙へ冬尚は馬を返した。追いすがった者もあったが、乱れた敵味方と土煙の中で、首ひとつぶんだけ間に合わぬ。

家宗が悔しげに声を荒げる。

だが、宗運はそれを聞きながら、低く言った。

「よい」

惟種が目を向ける。

「冬尚は逃げた。されど、今日の敗けは消えませぬ」

その通りだった。

蒲池はここで折れた。

主だった重臣・武将どもも、多くは討たれるか捕縛された。

少弐もまた勝って帰ることはできぬ。

冬尚が生き延びたところで、これはもう小さな負けではない。

国をかけて押し寄せた側が、正面から砕かれたのだ。

惟種は、なお戦場を見ていた。

倒れた蒲池鑑盛の周りだけが、まだ妙に空いている。

味方であれ敵であれ、あの最後の突撃を見た者は、本能で一歩だけ距離を取るのだろう。

愚かだ。

だが、それだけでは片づけられぬ。

古い武士の最後のかたちを、いま確かに見たのだと、惟種は思った。

それでも、勝つのはそちらではない。

勝つのは、家を痩せさせず、兵を崩さず、理を整え、そして最後にその武士の突撃まで受け切る側だ。

宗運が言った。

「若君」

「何だ」

「終わりましたな」

惟種は、ゆっくりとうなずいた。

「まだだ」

「……はい」

「筑後も、肥前も、これから押さえる」

戦には勝った。

だが、勝っただけでは家の勝ちにはならぬ。

そのことを、惟種はもう知っている。

夏の空は高かった。

鉄と火薬と血の匂いが、なお野に残っている。

けれど、その匂いの中で、勝敗だけはもう定まっていた。

蒲池鑑盛が倒れたその瞬間、この戦の骨は折れたのだ。

そしてその先に、阿蘇が本当に取りに行くべき国の形が、ようやくはっきりと見え始めていた。