軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第三十六話 火の前にて

天文十五年(1546年)九月

朝靄は、戦の始まりを隠しはしなかった。

日が高くなる前だというのに、空気はすでに重い。刈り入れを待つ稲の匂い、土の湿り、兵の汗、馬の息。そうしたものが低く垂れこめる中で、龍造寺家兼は馬上から前方を見ていた。

阿蘇の陣は、思っていたより大きかった。

旗の数。

槍の並び。

左右の張り出し。

後ろに控える荷駄の落ち着き。

数は阿蘇が上だ。

だが、家兼が気にしたのはそこだけではない。

静かすぎる。

寄せ集めの農兵なら、これほど張りつめた場では、どこかがざわつく。槍がぶれ、隣の顔を見、前へ出る前から息が乱れる。だが、今見えている阿蘇勢にはそれが少ない。

前に立つ兵が、前に立つ兵の顔をしていた。

家兼の胸の内に、小さな重みが落ちる。

(阿蘇は、ここまで来たか)

その少し横に、鍋島清房が馬を寄せた。さらに前には、龍造寺家宗、小河信安、納富信景、福地信重、百武賢兼、石井兼清らが、それぞれの持ち場へ散っている。野田勢の残党も一隊となって続いていた。

若い者の顔は強い。

まだ勝てると思っている顔だ。

それは悪くない。

だが、清房の目は家兼と同じものを見ているようだった。

「家兼様」

「申せ」

「阿蘇の兵、思ったより崩れませぬな」

「うむ」

短く答える。

鍋島清房は、淡々と続けた。

「数で押し切れぬ相手ではございませぬ。ですが、勢いだけで割れる陣でもない」

その言葉の裏を、家兼はよく理解した。

つまり、こちらがただ真っ直ぐ当たれば、それなりに血を払うということだ。

少し後ろ、蒲池勢の旗が見えた。

百ほど。

決して少なくはない。

だが、少なくも見える。

前へ出て、こちらと肩を並べる位置ではない。

後ろにいて、見ている位置だ。

家兼の心の底に、また嫌なものが沈む。

蒲池は、自ら先手を取るつもりではない。

こちらに当てさせ、そのうえで阿蘇の底を見ようとしている。

胤栄を出さなかったのは、そのためでもあった。

まだ若い血をここで折りたくはない。

だが、だからといって今日は避けられぬ。

龍造寺は、ここで前へ出ねばならない。

「清房」

「は」

「おぬしはどう割る」

清房はすぐに答えた。

「阿蘇は、兵の骨を立てております。ならば、その骨を折るより前に、呼吸を乱します」

「呼吸」

「はい。正面へ厚く見せ、左右へ少しずつ振り、どこへ本命が来るか迷わせます」

家兼は前を見たまま、わずかに頷いた。

「家宗」

少し前の馬上の龍造寺家宗が振り返る。

「中央を厚く見せよ。だが、初めから槍を潰すな。まず足を止める」

「承知」

「石井兼清」

「はっ」

「左を少し張れ。大きくではない。相手に“来るか”と思わせれば足りる」

「お任せを」

「小河信安、納富信景」

「は」

「中央の後ろを支えよ。前が止まっても押しすぎるな。押しすぎれば詰まる」

「はっ」

家兼は福地信重、百武賢兼にも短く持ち場を与えた。

ただ突撃するだけではない。

突撃の形を崩さぬための手当てをする。

それが老将の戦だった。

武功を立てるといっても、ただ一番前へ飛び出すことではない。

敵のどこを崩せば全体が割れるか。

その一瞬を掴んだ者が、戦では名を取る。

百武賢兼は、槍を握る手を一度だけ締め直した。

福地信重は静かに馬の鼻先を前へ向けた。

納富信景は後ろの足軽へ短く列を整えさせる。

石井兼清は横へ張りつつ、敵の弓の届きを測っている。

若い。

だが、ただ若いだけではない。

阿蘇が新しい理で軍を作っているなら、こちらは古い戦の勘で割りに行く。

「出るぞ」

家兼の声は、老いてなおよく通った。

龍造寺勢が、前へ出る。

先に家宗が中央を押し出し、左右に石井と百武が圧をかける。福地と納富は中央の後ろで槍列の間を詰め、小河信安がその動きを見ながら足軽を制していた。野田勢の残りも、遅れずについてくる。

ただの一斉突撃ではない。

まず中央を厚く見せ、阿蘇に「ここへ来る」と思わせる。

その上で左右がじりじりと寄り、揺らぎが出たところへ本当の押しを入れる。

龍造寺家兼は、この形なら勝てると思った。

阿蘇が多いといっても、数は戦のすべてではない。

肝は、最初に敵の呼吸を奪えるかだ。

ところが、阿蘇は動かなかった。

正確には、動きすぎなかった。

前列は槍を揃え、後ろはわずかに開き、左右は余計に釣られない。

来るなら来いとでもいうように、静かに待っている。

家兼の目が細くなる。

(よく見る)

(宗運か)

(あれはもう、国衆のその場しのぎの兵ではない)

だが、なお遅くはない。

「押せ」

家兼の命で、中央が一段速度を上げた。

家宗の隊が喚声を上げ、百武がそれに合わせる。石井兼清は左から圧を見せ、福地と納富が中央の間を詰める。小河は押しすぎる兵を抑えつつ、前へ前へと勢いを通していく。

突撃には理がある。

音で気を呑み、足で土を揺らし、相手に「止められぬ」と思わせる。

それで一度でも槍列が揺れれば、あとはそこから崩せる。

敵との距離が縮む。

家兼は、今だと思った。

その時だった。

阿蘇の前で、妙な動きがあった。

槍の列の後ろにいた何かが、前へ出る。

筒だ。

鉄の筒。

家兼の胸に、かすかな嫌な予感が走る。

「清房」

「見えております」

鍋島清房の声は静かだった。

だが、その静かさが逆に悪い。

次の瞬間、阿蘇の前が火を噴いた。

轟音。

ただ大きいだけではない。

耳を打ち、腹へ響き、馬までわずかに身をすくめる音だった。

中央の先頭が崩れた。

槍で突かれたのとは違う。

脚を払われたように、いきなり前が沈む。

家宗の前列が一瞬、つんのめる。

「怯むな、押せ!」

家兼が叫ぶ。

百武賢兼がそれに応じるように前へ出る。福地信重も中央の穴を埋めようと兵を寄せる。石井兼清は左の押しを強め、小河信安が「止まるな」と後ろへ怒鳴る。

突撃はまだ死んでいない。

まだ行ける。

そう、家兼は思った。

だが、そこで第二の火が噴いた。

「……何」

思わず、その言葉が漏れた。

一度で終わりではない。

また撃つ。

今度は脚が止まった。

前へ出た兵の膝が折れ、後ろがそこへ絡む。突撃の勢いに、目に見える継ぎ目が生まれる。

鍋島清房が低く言った。

「組を分けておりますな」

家兼は答えなかった。

答える暇がない。

第三の火。

煙。

音。

転ぶ兵。

止まる足。

龍造寺勢の中に、初めてはっきりとした困惑が走った。

数は多くないはずだ。

だが、まだ撃つ。

まだ来る。

そう見える。

家宗が中央を立て直そうと声を張り上げる。百武賢兼はむしろ前へ出ようとした。石井兼清も左から圧を抜いていない。納富信景と福地信重は、中央を押し直そうと足軽を詰める。野田勢もなお槍を前へ向けている。

彼らは弱くない。

ただ押し出されているだけの兵ではなかった。

武功を立てるなら今しかない。

阿蘇の前を破れば、自分たちが龍造寺再興の柱になる。

そう思っていた。

そう思って、前へ出た。

だからこそ、なお立て直そうとする。

だが、その瞬間に戦の理は別のところで決まっていた。

阿蘇の別働隊が、林の陰から出たのだ。

家兼の目が大きく見開かれる。

迂回。

しかも、ただ横へ回したのではない。

退き筋へ食い込む位置だ。

「清房!」

「見えております!」

鍋島清房の声が、今度は強くなる。

「中央を引いてはいけませぬ! 退路へ寄せるな!」

理屈は正しい。

だが、戦場では正しいことが間に合わぬ時がある。

家宗の隊が一度止まり、百武の先が少し沈み、そこへ後ろが詰まり、さらに横から阿蘇の槍が見える。

退けぬ。

押せぬ。

その「半歩の迷い」が、隊全体へ伝わっていく。

家兼には、それが見えた。

農兵なら、ここで崩れる。

阿蘇の常備兵は違った。

前へ出る者は前へ出、止まる者は止まり、別働隊は別働隊のまま退き筋へ入る。

こちらは逆だ。

武功を立てようとする者が前へ出る。

立て直そうとする者が中央へ寄る。

崩すなと抑える清房の理と、押し切って名を取ろうとする武辺の勢いが、ここでぶつかった。

そこへまた、阿蘇の火が鳴る。

もう家兼にはわかった。

これは鉄砲そのものが怖いのではない。

鉄砲をああ使える兵の形が怖い。

しかも、後ろの蒲池百は動かない。

旗は見える。

ざわめきもある。

だが出ない。

原野恵俊の声が届いているのか、蒲池鑑盛が迷っているのか、今となってはどうでもよかった。

事実として、動かない。

それがすべてだ。

龍造寺側の兵にも、それは見えた。

「後詰は!」

「蒲池は何をしている!」

誰かの声が上がる。

その声は、小さくない。

家兼の胸に、焼けるような怒りが走った。

やはりそうか。

先に当て、見ている。

勝てば立てる。

負ければ知らぬ。

その薄い庇護の下で、自分たちは前へ出されたのだ。

「前を立てよ!」

家兼はなお叫んだ。

まだだ。

ここで崩れれば、本当に終わる。

だが戦は、もう「押し切れるか」ではなく「どこまで崩れずに済むか」へ変わっていた。

石井兼清が左でなお踏みとどまろうとする。百武賢兼も前へ出続ける。福地信重と納富信景は後ろの足を止めまいと必死に声を張る。小河信安は列を戻そうと馬を走らせる。家宗も中央を捨てていない。

それでも、駄目だった。

火に足を止められ、槍に前を押さえられ、退路へ別働隊を入れられた。

それで十分だった。

龍造寺勢の列に、決定的な歪みが走る。

家兼は、そこで初めて奥歯を強く噛んだ。

負けだ。

阿蘇に負けた。

だが、それだけではない。

蒲池にも、負けさせられた。

その認識が、老将の腹へゆっくりと落ちていく。

戦は、一瞬で決まった。

だが、その一瞬の前には、それぞれの理があった。

押し切れば武功になると思っていた者たちの理。

家を立て直したい老将の理。

勝たせるつもりの薄い庇護者の理。

そのすべてを、阿蘇は火と槍で断ち切った。

白煙がまだ野に流れている。

その向こうで、龍造寺家兼は、老いた目で阿蘇の陣を見た。

そこには、未来を知る者がいた。

だが、勝ったのは未来そのものではない。

その未来を、兵の形に落としたことだった。