作品タイトル不明
第三十三話 県境の兵
天文十五年(一五四六年)七月
夏の熱は、人の油断を許さなかった。
朝から陽は高い。風はある。だが涼しさはない。
田は青く盛り、門前の市には荷と人が絶えず流れている。黒川からは石が下り、鍛冶場の火は赤く、飴と玻璃は銭を呼んでいた。
見えるところだけを見れば、阿蘇はよく回っている。
だが、よく回っている家ほど、外からは割れ目を探される。
その朝、山の耳が一人、宗運の屋敷へ駆け込んだ。
硝石丘の近くで、見慣れぬ男が捕らえられたという。
商人を装っていた。
だが足の運びは商人ではない。荷も軽すぎる。問い詰める前に、男は舌を噛もうとした。
宗運は、その報せを聞いてすぐ、惟豊と惟種を小座敷へ呼んだ。
障子は半ば開いている。
外では蝉が鳴いていた。うるさいほどに鳴いているのに、部屋の中だけは妙に静かだった。
惟豊はすでに座についている。
宗運の前には、板が三枚。帳面が二つ。
惟種はそれを見ただけで、今日の場が相談ではないと知った。
これは報告であり、決裁の場だ。
「若君」
惟種が座るなり、宗運は口を開いた。
「大友の手が、深くなっております」
惟種は目を細めた。
「硝石丘か」
「はい」
宗運は短く答えた。
「場所までは知られておりませぬ。ですが、嗅ぎ回られております」
惟豊の顔がわずかに険しくなる。
「花音衆は何をしていた」
「働いております。ゆえに捕らえました」
宗運は淡々と言った。
「破られたのではなく、踏ませた、と見るべきかと」
惟種はその言葉で理解した。
大友は、まだ刃を抜いていない。
だが鞘に手は掛けている。
火薬場。硝石丘。新たな市。境目の者たち。
阿蘇が急に膨らみ始めた理由を、向こうも探っている。
「兵は」
惟種が問うと、宗運は一枚目の板を前へ出した。
「常に動かせる者、三百五十」
惟豊が眉を上げる。
「もうそこまで揃えたか」
「村へ完全には戻しておりませぬ。警固、走り、普請、訓練を名目に回しております」
宗運は板を指で押さえた。
「夏の終わりには四百。無理をすれば五百も見えます。ですが、いま大事なのは数ではございませぬ」
「崩れぬ形か」
惟種が言うと、宗運は小さく頷いた。
「はい」
板には、兵の分けが記されていた。
槍。弓。走り役。荷駄。番役。
そして、まだ名を持たぬ小さな組。
鉄砲を扱う者。
数は多くない。二十丁にも届くかどうか。
だが、鉄砲そのものより先に、鉄砲を使える軍の骨を作ろうとしている。
宗運の仕事は速い。
速すぎるほどだった。
「三百五十のうち、槍と近接が二百弱。弓が七十。警固、伝令、普請、荷駄が五十ほど。鉄砲の前身に三十」
「森羅衆の種だな」
惟豊が言う。
「はい」
宗運は表情を変えずに答えた。
「若君の言われた通り、鉄砲は撃つ者だけでは成り立ちませぬ。運ぶ者、守る者、合図を見る者、退く道を空ける者が要ります」
惟種は黙って聞いた。
自分が以前、断片的に話したことを、宗運はすでに形にし始めている。
ありがたい。
そして、恐ろしい。
この男は、思いつきを軍に変える。
「無理は出ておらぬか」
惟豊が問う。
「今のところは」
「今のところ、か」
「銭と米で支えております。田の増え、市の伸び、飴と玻璃の利が効いております。境目戦の後に流れてきた者も使えます」
宗運は二枚目の板を出した。
「ですが、外から見れば、阿蘇は急に兵を抱え始めた家に見えましょう」
「だから大友が嗅ぐ」
惟種が言うと、宗運は頷いた。
「境目衆への誘いも増えております。市には妙な風聞も流れております。山道を探る者も出ました」
惟豊は腕を組んだ。
「戦になるか」
「まだ、そこまでは」
宗運は即答した。
「ですが、放っておけば秋には面倒になります」
惟種は板を見つめた。
大友。
境目。
火薬場。
三百五十の兵。
阿蘇は、もう小さく眠っていられる家ではなくなっている。
膨らんだ家は、必ず見られる。
見られるなら、どう見せるかを選ばねばならない。
「若君」
宗運が三枚目の板を置いた。
「ここから先は、若君のお考えを入れたい」
「もう入れておるだろう」
「骨は組みました。ですが、動きはまだです」
宗運の声は低い。
「若君の手元に、試しの小組を置いております。二十七名。高森を頭に、北里、光永も付けております。表では供回り。実際には、若君の理を試すための組です」
惟種は少しだけ目を細めた。
「勝手に進めたな」
「怒られますか」
「いや」
惟種は板に目を落とした。
「正しい」
宗運の口元が、わずかに動いた。
「では、何を教えますか」
「勝つことではない」
惟種は即座に答えた。
「まず、死なぬことだ」
惟豊が顔を上げる。
宗運も、わずかに目を細めた。
「前へ出ることより、退く時に崩れぬこと。頭が倒れても止まらぬこと。左右を見て、合図で動くこと。逃げるのではなく、退いてまとまること」
「笛、旗、声」
宗運が言った。
「三つの合図は、すでに分けております」
惟種は思わず息を漏らした。
「宗運よ。本当に、人の仕事を減らすな」
「若君が言う前に形にしておけば、話が早い」
惟豊が、ほんの少し笑った。
「近ごろ宗運は、惟種の先回りを覚えたな」
「覚えざるを得ませぬ」
蝉の声が一段高くなった。
その声を聞きながら、惟種の頭の奥で、別の火が灯った。
大友だけではない。
北だ。
佐賀。
龍造寺。
去年、少弐の内訌で龍造寺家純と周家が斬られた。
幼い円月は曽祖父の家兼に連れられ、筑後へ逃げた。
そして今年。
龍造寺家兼は、蒲池の助けを得て挙兵する。
馬場頼周を討ち、龍造寺を再興する。
前世で知った歴史が、夏の熱気とともに浮かび上がる。
阿蘇から見れば遠い。
だが、遠い火ほど風に乗る。
北で火が上がれば、大友も少弐も揺れる。
国人たちは、どちらに付くかを迷う。
迷う者は、強そうな方を見る。
ならば。
こちらから、見せてやればいい。
「境目でやらせよう」
惟種が言うと、惟豊が目を向けた。
「何をだ」
「練兵です」
宗運は驚かなかった。
ただ、少しだけ眉を動かした。
「大友に見せるためですか」
「それもある」
惟種は答えた。
「だが、大友だけではない」
惟豊が腕を組む。
「申せ」
「阿蘇が兵を抱え始めたことは、もう隠せませぬ。ならば隠し損ねるより、こちらの都合のよい形で見せた方がよい」
惟種は板を指で叩いた。
「三百を境目へ出す。名目は警固。山道の確認。乱れを防ぐための備え。武具は見せる。ただし火薬場と鉄砲の中身は見せぬ」
宗運の目に、静かな光が入った。
「見せる兵と、隠す兵を分ける」
「そうだ」
「大友の目を、境目へ寄せる」
「そうだ」
「その間に、花音衆が嗅ぎ回る者を炙る」
「それもある」
惟豊は黙って聞いていた。
惟種は続ける。
「境目で練兵すれば、こちらの兵も鍛えられる。山道、峠筋、川筋、退き口を覚える。高森の小組も試せる」
「だが、やりすぎれば挑発になる」
惟豊が言った。
「なります」
惟種は認めた。
「ですが、何もしなければ、向こうはもっと深く入ってきます。いま必要なのは、戦を始めることではありませぬ」
「では何だ」
「阿蘇は噛めぬ、と知らせることです」
部屋が静まった。
蝉の声だけが聞こえる。
宗運は、ゆっくり頷いた。
「噛めぬ家だと思わせる」
「はい」
「そして、噛もうとした者を見つける」
「はい」
惟豊はしばらく黙っていた。
やがて、短く言った。
「よし」
それだけで決まった。
「境目で練兵を行え。ただし、露骨に大友を挑発するな。あくまで阿蘇の地を守る備えとして見せる」
「承知」
宗運が頭を下げた。
「兵の数は」
「三百」
惟種が答えた。
「残りは奥に置く。見せる槍、見せる弓、見せぬ鉄砲。荷駄は多めに見せろ。長く動ける家だと思わせる」
「承知」
「高森の小組は前に出しすぎるな。まだ試しだ」
「心得ております」
「陣の変えを入れろ」
宗運は板を寄せた。
「横へ開く。細く抜ける。退いてまとまる。この三つでよろしいですか」
「まずはそれでいい」
惟種は言った。
「兵は複雑なことを一度には覚えぬ。だが三つできれば、戦で死ににくくなる」
惟豊が、ふっと息を吐いた。
「いつの間にやら、兵を死ににくくする話をするようになったな」
「死ねば、勝っても減ります」
惟種はそう答えた。
「勝っても減る、か」
宗運が小さく繰り返す。
「まことに若君らしい」
それからは、細かな詰めに入った。
どの峠筋を使うか。
どこまで兵を見せるか。
どこから先は花音衆に見張らせるか。
荷の量。
日数。
夜営の場所。
あえて残す足跡。
消すべき足跡。
話が一段落したころには、外の陽は少し傾いていた。
惟豊が立ち上がる。
「兵はそのまま進めよ。境目の練兵も行う」
「承知」
宗運も立つ。
「若君」
「うむ」
「高森らには、明日から少し強く入れます」
「泣かせるな」
「泣くかもしれませぬ」
「なら、泣いたあと立たせろ」
「承知」
宗運は、いつものように何でもない顔をしていた。
だが惟種には分かる。
この男も、もう先を見ている。
大友の手。
境目の揺れ。
北で上がる龍造寺の火。
そして阿蘇が、ただ守るだけの家ではなくなる日を。
小座敷を出ると、夏の光が廊下に落ちていた。
田は青い。
市は賑わう。
山は動く。
火は育つ。
兵も、揃い始めている。
史実の阿蘇にはなかった速さだった。
だが、速さは力であると同時に、危うさでもある。
惟種は足を止め、遠くの山を見た。
龍造寺。
その名を、まだ誰にも言うつもりはない。
言えば、こちらが北の火を待っていたように見える。
だが備えは打てる。
備えを見た者が、勝手に恐れることもある。
勝手に寄ってくる者もいる。
勝手に牙を剥く者もいる。
惟種は夏の光の中で、静かに目を細めた。
境目での練兵。
阿蘇にとっては、ただの備え。
だがその備えは、山を越え、川を越え、人の噂に乗って広がっていく。
そして思わぬ場所で、まだ起きていないはずの火に、風を送ることになる。