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作品タイトル不明

第百六十一話 明るい夜

天文二十年(一五五一年)四月。

阿蘇の館では、静かに忙しさが増していた。

大内の珠光姫を迎える。

その一言だけなら簡単である。

だが、実際に動かすとなれば、簡単なことなど何一つなかった。

正室ではない。

されど、大内の姫である。

粗略に扱えば、大内を軽んじたことになる。

厚く扱いすぎれば、加世の面目を傷つける。

華やかに祝えば、山口の不穏と義隆の立場を忘れたように見える。

沈みすぎれば、阿蘇が大内の血を忌んでいるようにも見える。

その針の穴のようなところへ、礼と実務を通さねばならない。

当然、宗運の仕事である。

少なくとも、これまでならそうだった。

「宗運様」

鍋島種茂が、文箱を抱えて部屋へ入った。

その後ろには、島種清もいる。

宗運の前には、文と帳と木札が積まれていた。

珠光姫の居所。

大内付きの女房衆。

加世へ通す日取り。

婚姻の儀の次第。

寺への使い。

大内から持ち込まれた調度の置き場。

山であった。

宗運は、その山を前に、いつも通り涼しい顔をしている。

そこが、種茂には余計に恐ろしかった。

「どうした」

宗運は顔を上げずに言った。

「珠光姫様の居所について、こちらで整えました」

「早いな」

「宗運様が、早くせよと仰せでしたので」

「そうだったか」

「ですので、早くいたしました」

種茂は木札を広げた。

「大内付きの女房衆は、姫君の近くへ。ただし阿蘇の作法を知らぬため、加世様付きより二人を添えます。大内の調度は姫君の部屋へ入れますが、阿蘇の調度も混ぜます。大内だけの部屋にも、阿蘇だけの部屋にも見せぬためです」

宗運の筆が止まった。

「続けよ」

「はっ」

種清が後を継いだ。

「婚姻の儀は、華やかな祝言にはいたしませぬ。加世様への挨拶、阿蘇家中への示し、盃の儀、御居所定め。この四つを軸とし、宴は控えめに」

「控えめとは」

「酒を抑え、歌舞はなし。膳は整えますが、祝いというより、迎え入れの膳にいたします」

宗運は、ようやく顔を上げた。

「誰の案だ」

「種茂殿と相談いたしました」

種清が答えた。

「加世様の面目を立てつつ、珠光姫様を粗略にせぬ形を探した結果にございます」

宗運は、しばらく二人を見ていた。

そして、少しだけ頷いた。

「悪くない」

種茂は、ほっと息を吐きかけて、すぐに止めた。

宗運の前で安堵を見せると、次の仕事が飛んでくる。

それを、最近ようやく学んだ。

だが、宗運は逃がさなかった。

「よい。そのまま進めよ」

「はっ」

「寺への根回しは種清。女房衆と居所は種茂。膳と盃の次第は二人で詰めよ」

種茂は頭を下げた。

「承りました」

そこで種茂は、少しだけ迷った。

言うべきか。

言わぬべきか。

結局、言った。

「宗運様」

「まだ何か」

「恐れながら、その山は半分、我らで引き取らせてくださいませ」

宗運の眉が、わずかに動いた。

「山?」

「文と帳にございます」

「これは、わしが見るものだ」

「恐れながら、それでは宗運様のお体が持ちませぬ」

言ってから、種茂は自分でも少し驚いた。

種清も横でわずかに目を見開く。

宗運は、筆を持ったまま固まった。

「今、何と」

「申し上げました」

種茂は腹を括った。

「今の阿蘇は、宗運様お一人が倒れれば止まるものが多すぎます。若君も、惟豊様も、宗運様に頼りすぎておられます」

「それを、わしに申すか」

「はい」

種茂は頭を下げた。

「宗運様のそばで学べと申しつけられました。ならば、宗運様の仕事も少しは引き受けねば、学びになりませぬ」

部屋が静まった。

種清が、静かに後を添える。

「わたくしも同じ考えにございます。宗運様が見ねばならぬものと、我らが下読みできるものを分けてくださいませ」

宗運は、しばらく二人を見ていた。

やがて、低く息を吐く。

「……若者というのは、時に恐ろしいことを言う」

「恐れながら」

種茂は頭を下げたまま言う。

「宗運様ほどではございませぬ」

種清が、ほんの少し咳をした。

笑いを堪えたのかもしれない。

宗運は、二人を睨むように見た。

だが、目は怒っていなかった。

「よい」

宗運は文の山を二つに分けた。

「種茂、こちらを見よ。種清、そちらだ。下読みし、要点を三つにまとめて戻せ」

「三つにございますか」

「四つ以上なら、読んでいないのと同じだ」

「……承りました」

「それと」

宗運は、淡々と続けた。

「わしが倒れる前提で動くのはやめよ」

種茂は、思わず顔を上げた。

「前提ではございませぬ。備えにございます」

「言い方が若君に似てきたな」

「それは、喜んでよいのでしょうか」

「よくない」

宗運は即答した。

種茂と種清は、深く頭を下げた。

阿蘇の内で、仕事は少しずつ移り始めていた。

宗運一人の背に乗っていたものを、若い者たちが少しずつ引き受け始めている。

それは、阿蘇が大きくなりすぎた証でもあった。

同じ頃。

惟種は珠光姫を連れて、阿蘇の館の内を歩いていた。

もちろん二人きりではない。

珠光姫付きの女房もいる。

阿蘇の女房もいる。

少し離れて警固もいる。

それでも、珠光姫にとっては初めて見るものが多かった。

廊はよく拭かれ、角には灯が置かれている。

昼であっても、暗いところには明かりがある。

火鉢の熱は部屋ごとに違い、煙は不思議なほど少ない。

珠光姫は、ある一室に入ったところで足を止めた。

「暖かい……」

思わず漏れた声だった。

惟種が振り返る。

「寒いかと思ったが」

「いいえ。逆に、暖かくて驚きました」

「この部屋は客を通すことが多い。壁と戸を少し直して、熱が逃げにくくしてある」

「戸を、ですか」

「隙間が多いと、火をいくら焚いても寒い」

惟種は、当然のように言った。

「火を増やすより、逃がさぬ方がよいこともある」

珠光姫は、部屋を見渡した。

派手ではない。

山口のような雅な飾りも少ない。

だが、暖かい。

ただ暖かいというだけで、人の息が楽になる。

そのことが、珠光姫には少し不思議だった。

「山口とは、違います」

「そうだろうな」

「山口は、小京都とまで呼ばれておりました」

惟種は頷いた。

「聞いている」

「公家の方々もおり、寺もあり、唐物もあり、歌も香もありました」

「大内は、雅を知る家だ」

「はい」

珠光姫は、少しだけ目を伏せた。

「ですが、阿蘇は……」

「阿蘇は?」

珠光姫は、言葉を探した。

「まるで違います」

それは、悪い意味ではなかった。

「雅ではない、という意味か」

「いいえ」

珠光姫は首を横に振った。

「雅がないのではありません。ただ、ここは見せるための美しさより、暮らすための仕組みが先にあるように見えます」

惟種は、少し意外そうにした。

「よく見ている」

「そうでしょうか」

「そうだ」

惟種は、少しだけ笑った。

「阿蘇は京を作りたいわけではない」

「京を、ではない」

「ああ」

惟種は廊の先を見た。

「人が暮らせる国を作りたい」

珠光姫は、その横顔を見た。

その言葉は大きい。

けれど、惟種の声には飾りがなかった。

この人は、本気でそう言っている。

そう感じた。

館を出ると、道が広がっていた。

阿蘇の町は、珠光姫が想像していた山の国とは違っていた。

人が多い。

荷が多い。

声が多い。

商人が荷を運び、職人が木槌を打ち、女たちが野菜や布を選んでいる。

子どもが走り、年寄りが日向で話している。

兵もいるが、村を威圧するような歩き方ではない。

珠光姫は、自然と足を止めた。

「人が……」

「多いか」

「はい」

山口にも人は多かった。

博多にも人は多いと聞く。

だが、ここは違った。

人がただ集まっているのではない。

動いている。

忙しい。

けれど、追われているだけではない。

顔に、どこか力がある。

「皆、よく働きますね」

「働かねば食えぬからな」

惟種はあっさり言った。

「だが、働けば食えると思えるようにはしたい」

その言葉に、珠光姫は少し驚いた。

「働けば、食える」

「当たり前のようで、当たり前ではない」

惟種の声は、少しだけ低くなる。

「戦が続けば、働いても奪われる。年貢が重すぎれば、働くほど痩せる。道が悪ければ、荷を出しても腐る。市が荒れれば、作っても売れぬ」

珠光姫は黙って聞いていた。

「だから、食えるようにする。荷が動くようにする。病で倒れぬようにする。火事で焼けぬようにする。盗みに入られぬようにする」

惟種は、通りの先を指した。

「そのための道であり、灯であり、番であり、帳だ」

珠光姫は、その先を見た。

道の端に、木でできた小さな柱がある。

昼だから火は入っていない。

だが、夜には灯されるのだろう。

「夜にも、明かりがあるのですか」

「ある場所にはある」

「夜道に」

「全部ではない。まだ足りぬ。だが、館の周り、市の近く、蔵の前、番所の周りには置いている」

「なぜですか」

「暗いと、人は悪いことを考える」

惟種は当然のように言った。

「悪いことを考える者は、暗い道を好む」

珠光姫は、思わず惟種を見た。

「夜まで治めるのですね」

「できるところからな」

その言い方は、少しも大仰ではなかった。

市へ近づくと、匂いが変わった。

焼いた魚の匂い。

煮た豆の匂い。

米の匂い。

甘いものの匂い。

薬草の匂い。

木と油と鉄の匂い。

珠光姫は、少し混乱した。

豊かである。

ただ珍しい物がある、というだけではない。

食べる物がある。

選ぶ物がある。

売る者がいて、買う者がいる。

そのことが、強い。

「こちらは」

女房が小声で言う。

「阿蘇の市にございます」

珠光姫は、市の中を見た。

米俵が積まれている。

干し魚が並ぶ。

山菜もある。

卵もある。

豆腐らしき白いものもある。

甘い菓子を売る者までいる。

山の国だと思っていた。

だが、山だけではない。

「これほど食べ物があるのですね」

「足りているとは言わぬ」

惟種は答えた。

「場所によっては、まだ苦しい。戦の後は、もっと苦しい。だが、少なくとも阿蘇の中心では、飢えを減らすようにしている」

「飢えを、減らす」

「なくすとは言えぬ」

惟種は正直だった。

「だが、減らすことはできる」

珠光姫は、並ぶ米を見た。

山口でも、食べる物に困ったことはない。

大内の姫である。

飢えなど遠いものだった。

だが、ここで見る豊かさは、姫の膳の豊かさとは違った。

民の手の中に、食べ物がある。

それが、珠光姫には衝撃だった。

歩いていると、数人の民がこちらに気づいた。

「あ、若君様だ」

誰かが言った。

すぐに頭が下がる。

それだけなら、どこの国にもある。

領主へ頭を下げるのは当然だ。

だが、その中に、手を合わせる者がいた。

拝むように。

珠光姫は驚いた。

惟種は、すぐに渋い顔をした。

「やめよ」

民は慌てて頭を下げた。

「ですが、若君様」

「拝むな」

「けれど、うちの子は、薬師様と若君様の御触れで助かりました」

年配の女だった。

顔には深い皺がある。

だが、目は明るい。

「村を離せ、湯を沸かせ、病の者を一所に寝かせるなと。最初は皆、怖がりました。けれど、その通りにしたら、うちの子は戻りました」

惟種は、困ったように息を吐いた。

「助けたのは薬師と、看た者たちだ」

「でも、若君様が命じてくださらねば、誰も動きませなんだ」

「だからといって拝むな。わしは神仏ではない」

女は、また頭を下げた。

「へえ」

惟種は、少しだけ肩を落とした。

珠光姫は、その横顔を見ていた。

民が主を恐れるのは見たことがある。

民が主にすがるのも見たことがある。

だが、今のは少し違った。

恐れより、感謝に近い。

そして惟種は、それを嫌がっている。

「拝まれるのは、お嫌なのですか」

歩き出してから、珠光姫は問うた。

「嫌だ」

惟種の返事は早かった。

「なぜですか」

「拝まれると、人は間違える」

「何を」

「自分が偉いのだと」

珠光姫は黙った。

「わしがやっているのは仕組みを作ることだ。薬師が働き、村が動き、女房衆が看病し、帳が残る。その結果として助かる者が出る」

惟種は言った。

「それを一人の手柄にすれば、次に同じことができなくなる」

「だから、拝ませない」

「そうだ」

珠光姫は、少しだけ目を伏せた。

山口にも、敬われる者は多かった。

拝まれる者もいた。

大内の当主も、時に人々の畏れと敬いを受けた。

だが、阿蘇の若君は、拝まれることを嫌う。

それは謙虚なのではない。

仕組みが壊れることを嫌っているのだ。

夕刻が近づくころ、惟種は珠光姫を館へ戻した。

帰り道、灯に火が入れられ始めていた。

一つ。

二つ。

三つ。

夕闇の中に、小さな明かりが並ぶ。

珠光姫は、足を止めた。

「本当に、夜が明るいのですね」

「少しだけだ」

惟種は言った。

「少しだけでも、違います」

珠光姫は、灯を見ていた。

山口の夜は美しかった。

香があり、歌があり、月を眺める庭があった。

だが、阿蘇の夜は違う。

飾るための明かりではない。

人が歩くための明かりである。

悪事を減らすための明かり。

蔵を守るための明かり。

帰る者を迷わせぬための明かり。

夜を治める灯だった。

「惟種様」

「何だ」

「阿蘇へ来て、よかったのだと思います」

惟種は、少し驚いたように珠光姫を見た。

珠光姫は、灯から目を離さなかった。

「まだ、怖いことはあります。父上のことも、山口のことも、考えぬ日はございません」

「ああ」

「ですが」

珠光姫は、ゆっくりと言った。

「大内の名を残すなら、ここでよかったのだと思います」

惟種は、すぐには答えなかった。

その言葉は、重かった。

救いでもある。

同時に、責めでもある。

ここでよかった。

そう言われるほど、惟種の胸には痛みが増す。

それでも、惟種は頷いた。

「そう思えるようにする」

「はい」

「今だけでなく、これからも」

珠光姫は、初めて少しだけ微笑んだ。

「お願いいたします」

館へ戻ると、種茂と種清が廊を走らぬぎりぎりの早足で動いていた。

手には文箱。

脇には木札。

顔には、すでに疲れが見えている。

惟種は声をかけた。

「種茂」

種茂が足を止め、すぐに頭を下げる。

「若君」

「何をしている」

「珠光姫様の婚姻の儀に関わる次第を詰めております」

「宗運は」

「宗運様には、少しでもお休みいただこうと」

惟種は目を瞬いた。

「宗運を?」

「はい」

種清が横から答える。

「休めとは申しておりませぬ。ですが、宗運様がご覧になる前に、こちらで下読みを済ませることにいたしました」

「それは、休ませていると言うのか」

「少なくとも、倒れるのを遅らせることはできます」

惟種は、思わず口元を動かした。

「本人に言ったのか」

「申し上げました」

種茂が真顔で答える。

「怒られなかったか」

「少しだけ」

「少しで済んだのか」

「たぶん」

惟種は、少しだけ笑った。

珠光姫は、そのやり取りを見ていた。

阿蘇は大きな国を作っている。

だが、その中で働く者たちは、こうして互いを見ている。

重い柱を、若い者が支えようとしている。

それもまた、山口ではあまり見なかった景色だった。

「頼んだ」

惟種が言う。

種茂と種清は同時に頭を下げた。

「はっ」

そしてまた、早足で去っていった。

その夜。

珠光姫の部屋には、暖かい火が入れられた。

膳には、米と汁、山の野菜、魚、豆を使った料理、小さな甘味が並んだ。

大内の膳ほど雅ではない。

だが、温かく、豊かだった。

珠光姫は、箸を取る前にしばらく膳を見ていた。

阿蘇は、山の国だと思っていた。

だが、ここには食べ物がある。

灯がある。

道がある。

薬師がいる。

暖かい部屋がある。

働く者の顔に、力がある。

山口とは違う。

大内とは、全然違う。

その違いは、寂しくもあった。

けれど、同時に少しだけ心強かった。

ここでなら、大内の名はただの哀れな名にならずに済むかもしれない。

珠光姫は、そう思った。

夜半近く。

惟種は、宗運を呼んでいた。

婚姻の儀の細かい次第について、最後の確認をするためである。

宗運は、いつも通り静かに座っていた。

だが、目元にはわずかな疲れがある。

「種茂と種清が、そなたを休ませようとしていたぞ」

「そのようですな」

「よいことだ」

「若君まで、そのように」

「倒れられては困る」

「倒れませぬ」

「倒れる者ほど、そう言う」

宗運は、少しだけ不満そうに目を伏せた。

その時だった。

廊の向こうから、足音がした。

速い。

ただし、乱れた足音ではない。

訓練された者が、急いでいる音である。

惟種と宗運は、同時に顔を上げた。

「若君」

襖の外から声がした。

「入れ」

入ってきたのは、急使であった。

旅装のまま、膝をつく。

顔には泥があり、息は荒い。

惟種の胸が、冷たく沈んだ。

来た。

そう思った。

急使は、額を畳につけた。

「山口より、急報にございます」

宗運の目が細くなる。

惟種は、声を抑えた。

「申せ」

急使は、一度息を整えた。

そして、低く告げた。

「義隆様、山口を落ち、大寧寺にて果てられました」

部屋の火が、小さく揺れた。

誰も、すぐには言葉を発しなかった。

惟種は、目を閉じた。

知っていた。

知っていたはずだった。

それでも、その報せは胸を裂いた。

阿蘇の夜は明るい。

だがその夜、山口の火は、ついに上がった。