作品タイトル不明
第百六十一話 明るい夜
天文二十年(一五五一年)四月。
阿蘇の館では、静かに忙しさが増していた。
大内の珠光姫を迎える。
その一言だけなら簡単である。
だが、実際に動かすとなれば、簡単なことなど何一つなかった。
正室ではない。
されど、大内の姫である。
粗略に扱えば、大内を軽んじたことになる。
厚く扱いすぎれば、加世の面目を傷つける。
華やかに祝えば、山口の不穏と義隆の立場を忘れたように見える。
沈みすぎれば、阿蘇が大内の血を忌んでいるようにも見える。
その針の穴のようなところへ、礼と実務を通さねばならない。
当然、宗運の仕事である。
少なくとも、これまでならそうだった。
◇
「宗運様」
鍋島種茂が、文箱を抱えて部屋へ入った。
その後ろには、島種清もいる。
宗運の前には、文と帳と木札が積まれていた。
珠光姫の居所。
大内付きの女房衆。
加世へ通す日取り。
婚姻の儀の次第。
寺への使い。
大内から持ち込まれた調度の置き場。
山であった。
宗運は、その山を前に、いつも通り涼しい顔をしている。
そこが、種茂には余計に恐ろしかった。
「どうした」
宗運は顔を上げずに言った。
「珠光姫様の居所について、こちらで整えました」
「早いな」
「宗運様が、早くせよと仰せでしたので」
「そうだったか」
「ですので、早くいたしました」
種茂は木札を広げた。
「大内付きの女房衆は、姫君の近くへ。ただし阿蘇の作法を知らぬため、加世様付きより二人を添えます。大内の調度は姫君の部屋へ入れますが、阿蘇の調度も混ぜます。大内だけの部屋にも、阿蘇だけの部屋にも見せぬためです」
宗運の筆が止まった。
「続けよ」
「はっ」
種清が後を継いだ。
「婚姻の儀は、華やかな祝言にはいたしませぬ。加世様への挨拶、阿蘇家中への示し、盃の儀、御居所定め。この四つを軸とし、宴は控えめに」
「控えめとは」
「酒を抑え、歌舞はなし。膳は整えますが、祝いというより、迎え入れの膳にいたします」
宗運は、ようやく顔を上げた。
「誰の案だ」
「種茂殿と相談いたしました」
種清が答えた。
「加世様の面目を立てつつ、珠光姫様を粗略にせぬ形を探した結果にございます」
宗運は、しばらく二人を見ていた。
そして、少しだけ頷いた。
「悪くない」
種茂は、ほっと息を吐きかけて、すぐに止めた。
宗運の前で安堵を見せると、次の仕事が飛んでくる。
それを、最近ようやく学んだ。
だが、宗運は逃がさなかった。
「よい。そのまま進めよ」
「はっ」
「寺への根回しは種清。女房衆と居所は種茂。膳と盃の次第は二人で詰めよ」
種茂は頭を下げた。
「承りました」
そこで種茂は、少しだけ迷った。
言うべきか。
言わぬべきか。
結局、言った。
「宗運様」
「まだ何か」
「恐れながら、その山は半分、我らで引き取らせてくださいませ」
宗運の眉が、わずかに動いた。
「山?」
「文と帳にございます」
「これは、わしが見るものだ」
「恐れながら、それでは宗運様のお体が持ちませぬ」
言ってから、種茂は自分でも少し驚いた。
種清も横でわずかに目を見開く。
宗運は、筆を持ったまま固まった。
「今、何と」
「申し上げました」
種茂は腹を括った。
「今の阿蘇は、宗運様お一人が倒れれば止まるものが多すぎます。若君も、惟豊様も、宗運様に頼りすぎておられます」
「それを、わしに申すか」
「はい」
種茂は頭を下げた。
「宗運様のそばで学べと申しつけられました。ならば、宗運様の仕事も少しは引き受けねば、学びになりませぬ」
部屋が静まった。
種清が、静かに後を添える。
「わたくしも同じ考えにございます。宗運様が見ねばならぬものと、我らが下読みできるものを分けてくださいませ」
宗運は、しばらく二人を見ていた。
やがて、低く息を吐く。
「……若者というのは、時に恐ろしいことを言う」
「恐れながら」
種茂は頭を下げたまま言う。
「宗運様ほどではございませぬ」
種清が、ほんの少し咳をした。
笑いを堪えたのかもしれない。
宗運は、二人を睨むように見た。
だが、目は怒っていなかった。
「よい」
宗運は文の山を二つに分けた。
「種茂、こちらを見よ。種清、そちらだ。下読みし、要点を三つにまとめて戻せ」
「三つにございますか」
「四つ以上なら、読んでいないのと同じだ」
「……承りました」
「それと」
宗運は、淡々と続けた。
「わしが倒れる前提で動くのはやめよ」
種茂は、思わず顔を上げた。
「前提ではございませぬ。備えにございます」
「言い方が若君に似てきたな」
「それは、喜んでよいのでしょうか」
「よくない」
宗運は即答した。
種茂と種清は、深く頭を下げた。
阿蘇の内で、仕事は少しずつ移り始めていた。
宗運一人の背に乗っていたものを、若い者たちが少しずつ引き受け始めている。
それは、阿蘇が大きくなりすぎた証でもあった。
◇
同じ頃。
惟種は珠光姫を連れて、阿蘇の館の内を歩いていた。
もちろん二人きりではない。
珠光姫付きの女房もいる。
阿蘇の女房もいる。
少し離れて警固もいる。
それでも、珠光姫にとっては初めて見るものが多かった。
廊はよく拭かれ、角には灯が置かれている。
昼であっても、暗いところには明かりがある。
火鉢の熱は部屋ごとに違い、煙は不思議なほど少ない。
珠光姫は、ある一室に入ったところで足を止めた。
「暖かい……」
思わず漏れた声だった。
惟種が振り返る。
「寒いかと思ったが」
「いいえ。逆に、暖かくて驚きました」
「この部屋は客を通すことが多い。壁と戸を少し直して、熱が逃げにくくしてある」
「戸を、ですか」
「隙間が多いと、火をいくら焚いても寒い」
惟種は、当然のように言った。
「火を増やすより、逃がさぬ方がよいこともある」
珠光姫は、部屋を見渡した。
派手ではない。
山口のような雅な飾りも少ない。
だが、暖かい。
ただ暖かいというだけで、人の息が楽になる。
そのことが、珠光姫には少し不思議だった。
「山口とは、違います」
「そうだろうな」
「山口は、小京都とまで呼ばれておりました」
惟種は頷いた。
「聞いている」
「公家の方々もおり、寺もあり、唐物もあり、歌も香もありました」
「大内は、雅を知る家だ」
「はい」
珠光姫は、少しだけ目を伏せた。
「ですが、阿蘇は……」
「阿蘇は?」
珠光姫は、言葉を探した。
「まるで違います」
それは、悪い意味ではなかった。
「雅ではない、という意味か」
「いいえ」
珠光姫は首を横に振った。
「雅がないのではありません。ただ、ここは見せるための美しさより、暮らすための仕組みが先にあるように見えます」
惟種は、少し意外そうにした。
「よく見ている」
「そうでしょうか」
「そうだ」
惟種は、少しだけ笑った。
「阿蘇は京を作りたいわけではない」
「京を、ではない」
「ああ」
惟種は廊の先を見た。
「人が暮らせる国を作りたい」
珠光姫は、その横顔を見た。
その言葉は大きい。
けれど、惟種の声には飾りがなかった。
この人は、本気でそう言っている。
そう感じた。
◇
館を出ると、道が広がっていた。
阿蘇の町は、珠光姫が想像していた山の国とは違っていた。
人が多い。
荷が多い。
声が多い。
商人が荷を運び、職人が木槌を打ち、女たちが野菜や布を選んでいる。
子どもが走り、年寄りが日向で話している。
兵もいるが、村を威圧するような歩き方ではない。
珠光姫は、自然と足を止めた。
「人が……」
「多いか」
「はい」
山口にも人は多かった。
博多にも人は多いと聞く。
だが、ここは違った。
人がただ集まっているのではない。
動いている。
忙しい。
けれど、追われているだけではない。
顔に、どこか力がある。
「皆、よく働きますね」
「働かねば食えぬからな」
惟種はあっさり言った。
「だが、働けば食えると思えるようにはしたい」
その言葉に、珠光姫は少し驚いた。
「働けば、食える」
「当たり前のようで、当たり前ではない」
惟種の声は、少しだけ低くなる。
「戦が続けば、働いても奪われる。年貢が重すぎれば、働くほど痩せる。道が悪ければ、荷を出しても腐る。市が荒れれば、作っても売れぬ」
珠光姫は黙って聞いていた。
「だから、食えるようにする。荷が動くようにする。病で倒れぬようにする。火事で焼けぬようにする。盗みに入られぬようにする」
惟種は、通りの先を指した。
「そのための道であり、灯であり、番であり、帳だ」
珠光姫は、その先を見た。
道の端に、木でできた小さな柱がある。
昼だから火は入っていない。
だが、夜には灯されるのだろう。
「夜にも、明かりがあるのですか」
「ある場所にはある」
「夜道に」
「全部ではない。まだ足りぬ。だが、館の周り、市の近く、蔵の前、番所の周りには置いている」
「なぜですか」
「暗いと、人は悪いことを考える」
惟種は当然のように言った。
「悪いことを考える者は、暗い道を好む」
珠光姫は、思わず惟種を見た。
「夜まで治めるのですね」
「できるところからな」
その言い方は、少しも大仰ではなかった。
◇
市へ近づくと、匂いが変わった。
焼いた魚の匂い。
煮た豆の匂い。
米の匂い。
甘いものの匂い。
薬草の匂い。
木と油と鉄の匂い。
珠光姫は、少し混乱した。
豊かである。
ただ珍しい物がある、というだけではない。
食べる物がある。
選ぶ物がある。
売る者がいて、買う者がいる。
そのことが、強い。
「こちらは」
女房が小声で言う。
「阿蘇の市にございます」
珠光姫は、市の中を見た。
米俵が積まれている。
干し魚が並ぶ。
山菜もある。
卵もある。
豆腐らしき白いものもある。
甘い菓子を売る者までいる。
山の国だと思っていた。
だが、山だけではない。
「これほど食べ物があるのですね」
「足りているとは言わぬ」
惟種は答えた。
「場所によっては、まだ苦しい。戦の後は、もっと苦しい。だが、少なくとも阿蘇の中心では、飢えを減らすようにしている」
「飢えを、減らす」
「なくすとは言えぬ」
惟種は正直だった。
「だが、減らすことはできる」
珠光姫は、並ぶ米を見た。
山口でも、食べる物に困ったことはない。
大内の姫である。
飢えなど遠いものだった。
だが、ここで見る豊かさは、姫の膳の豊かさとは違った。
民の手の中に、食べ物がある。
それが、珠光姫には衝撃だった。
歩いていると、数人の民がこちらに気づいた。
「あ、若君様だ」
誰かが言った。
すぐに頭が下がる。
それだけなら、どこの国にもある。
領主へ頭を下げるのは当然だ。
だが、その中に、手を合わせる者がいた。
拝むように。
珠光姫は驚いた。
惟種は、すぐに渋い顔をした。
「やめよ」
民は慌てて頭を下げた。
「ですが、若君様」
「拝むな」
「けれど、うちの子は、薬師様と若君様の御触れで助かりました」
年配の女だった。
顔には深い皺がある。
だが、目は明るい。
「村を離せ、湯を沸かせ、病の者を一所に寝かせるなと。最初は皆、怖がりました。けれど、その通りにしたら、うちの子は戻りました」
惟種は、困ったように息を吐いた。
「助けたのは薬師と、看た者たちだ」
「でも、若君様が命じてくださらねば、誰も動きませなんだ」
「だからといって拝むな。わしは神仏ではない」
女は、また頭を下げた。
「へえ」
惟種は、少しだけ肩を落とした。
珠光姫は、その横顔を見ていた。
民が主を恐れるのは見たことがある。
民が主にすがるのも見たことがある。
だが、今のは少し違った。
恐れより、感謝に近い。
そして惟種は、それを嫌がっている。
「拝まれるのは、お嫌なのですか」
歩き出してから、珠光姫は問うた。
「嫌だ」
惟種の返事は早かった。
「なぜですか」
「拝まれると、人は間違える」
「何を」
「自分が偉いのだと」
珠光姫は黙った。
「わしがやっているのは仕組みを作ることだ。薬師が働き、村が動き、女房衆が看病し、帳が残る。その結果として助かる者が出る」
惟種は言った。
「それを一人の手柄にすれば、次に同じことができなくなる」
「だから、拝ませない」
「そうだ」
珠光姫は、少しだけ目を伏せた。
山口にも、敬われる者は多かった。
拝まれる者もいた。
大内の当主も、時に人々の畏れと敬いを受けた。
だが、阿蘇の若君は、拝まれることを嫌う。
それは謙虚なのではない。
仕組みが壊れることを嫌っているのだ。
◇
夕刻が近づくころ、惟種は珠光姫を館へ戻した。
帰り道、灯に火が入れられ始めていた。
一つ。
二つ。
三つ。
夕闇の中に、小さな明かりが並ぶ。
珠光姫は、足を止めた。
「本当に、夜が明るいのですね」
「少しだけだ」
惟種は言った。
「少しだけでも、違います」
珠光姫は、灯を見ていた。
山口の夜は美しかった。
香があり、歌があり、月を眺める庭があった。
だが、阿蘇の夜は違う。
飾るための明かりではない。
人が歩くための明かりである。
悪事を減らすための明かり。
蔵を守るための明かり。
帰る者を迷わせぬための明かり。
夜を治める灯だった。
「惟種様」
「何だ」
「阿蘇へ来て、よかったのだと思います」
惟種は、少し驚いたように珠光姫を見た。
珠光姫は、灯から目を離さなかった。
「まだ、怖いことはあります。父上のことも、山口のことも、考えぬ日はございません」
「ああ」
「ですが」
珠光姫は、ゆっくりと言った。
「大内の名を残すなら、ここでよかったのだと思います」
惟種は、すぐには答えなかった。
その言葉は、重かった。
救いでもある。
同時に、責めでもある。
ここでよかった。
そう言われるほど、惟種の胸には痛みが増す。
それでも、惟種は頷いた。
「そう思えるようにする」
「はい」
「今だけでなく、これからも」
珠光姫は、初めて少しだけ微笑んだ。
「お願いいたします」
◇
館へ戻ると、種茂と種清が廊を走らぬぎりぎりの早足で動いていた。
手には文箱。
脇には木札。
顔には、すでに疲れが見えている。
惟種は声をかけた。
「種茂」
種茂が足を止め、すぐに頭を下げる。
「若君」
「何をしている」
「珠光姫様の婚姻の儀に関わる次第を詰めております」
「宗運は」
「宗運様には、少しでもお休みいただこうと」
惟種は目を瞬いた。
「宗運を?」
「はい」
種清が横から答える。
「休めとは申しておりませぬ。ですが、宗運様がご覧になる前に、こちらで下読みを済ませることにいたしました」
「それは、休ませていると言うのか」
「少なくとも、倒れるのを遅らせることはできます」
惟種は、思わず口元を動かした。
「本人に言ったのか」
「申し上げました」
種茂が真顔で答える。
「怒られなかったか」
「少しだけ」
「少しで済んだのか」
「たぶん」
惟種は、少しだけ笑った。
珠光姫は、そのやり取りを見ていた。
阿蘇は大きな国を作っている。
だが、その中で働く者たちは、こうして互いを見ている。
重い柱を、若い者が支えようとしている。
それもまた、山口ではあまり見なかった景色だった。
「頼んだ」
惟種が言う。
種茂と種清は同時に頭を下げた。
「はっ」
そしてまた、早足で去っていった。
◇
その夜。
珠光姫の部屋には、暖かい火が入れられた。
膳には、米と汁、山の野菜、魚、豆を使った料理、小さな甘味が並んだ。
大内の膳ほど雅ではない。
だが、温かく、豊かだった。
珠光姫は、箸を取る前にしばらく膳を見ていた。
阿蘇は、山の国だと思っていた。
だが、ここには食べ物がある。
灯がある。
道がある。
薬師がいる。
暖かい部屋がある。
働く者の顔に、力がある。
山口とは違う。
大内とは、全然違う。
その違いは、寂しくもあった。
けれど、同時に少しだけ心強かった。
ここでなら、大内の名はただの哀れな名にならずに済むかもしれない。
珠光姫は、そう思った。
◇
夜半近く。
惟種は、宗運を呼んでいた。
婚姻の儀の細かい次第について、最後の確認をするためである。
宗運は、いつも通り静かに座っていた。
だが、目元にはわずかな疲れがある。
「種茂と種清が、そなたを休ませようとしていたぞ」
「そのようですな」
「よいことだ」
「若君まで、そのように」
「倒れられては困る」
「倒れませぬ」
「倒れる者ほど、そう言う」
宗運は、少しだけ不満そうに目を伏せた。
その時だった。
廊の向こうから、足音がした。
速い。
ただし、乱れた足音ではない。
訓練された者が、急いでいる音である。
惟種と宗運は、同時に顔を上げた。
「若君」
襖の外から声がした。
「入れ」
入ってきたのは、急使であった。
旅装のまま、膝をつく。
顔には泥があり、息は荒い。
惟種の胸が、冷たく沈んだ。
来た。
そう思った。
急使は、額を畳につけた。
「山口より、急報にございます」
宗運の目が細くなる。
惟種は、声を抑えた。
「申せ」
急使は、一度息を整えた。
そして、低く告げた。
「義隆様、山口を落ち、大寧寺にて果てられました」
部屋の火が、小さく揺れた。
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
惟種は、目を閉じた。
知っていた。
知っていたはずだった。
それでも、その報せは胸を裂いた。
阿蘇の夜は明るい。
だがその夜、山口の火は、ついに上がった。