作品タイトル不明
第百五十五話 正室の言葉
惟種は、加世の部屋の前で足を止めた。
冬の空気は冷たい。
だが、胸の内にあるものは、それとは別の重さだった。
大内義隆の文。
珠光姫。
大内の血。
陶隆房、毛利元就、そしていずれ来る厳島。
考えるべきことは多い。
あまりにも多い。
だが、今から話す相手は、国ではない。
加世である。
島津の姫。
阿蘇の正室。
そして、惟種が心から妻と呼ぶ女だった。
惟種は小さく息を吐いた。
「加世」
中から、静かな返事があった。
「はい」
「入るぞ」
「どうぞ」
襖を開けると、加世は火鉢のそばに座っていた。
膝の上には縫い物がある。
だが、惟種を見ると、すぐに手を止めた。
「惟種様」
「……ああ」
惟種は加世の向かいに座った。
言葉が出ない。
大内から文が来た。
珠光姫を迎えることになりそうだ。
側室だ。
そう言えばよい。
ただ、それだけのことだった。
だが、その言葉が喉の奥で止まる。
「加世、その……」
言いかけた時、加世が先に口を開いた。
「大内の姫君のことでございますね」
惟種は黙った。
加世は、静かにこちらを見ていた。
怒っているわけではない。
泣いているわけでもない。
ただ、分かっている顔だった。
「聞いていたのか」
「いいえ」
「では、なぜ」
「惟種様のお顔を見れば、分かります」
加世は少しだけ微笑んだ。
「それに、日新斎様と父上が呼ばれたのでしょう。ならば、島津にも私にも関わる話です」
惟種は、深く息を吐いた。
「すまん」
それしか言えなかった。
加世は首を横に振った。
「謝らないでください」
「いや、謝らせてくれ」
惟種は加世から目を逸らさなかった。
「大内義隆殿より文が来た。息女、珠光姫を阿蘇へ、と」
「はい」
「文には側室とは書かれていない。だが、意味はそうだ」
「分かっております」
「大内の血を阿蘇が預かる。山口が割れた時、その血は旗になる。大内旧臣をただ潰すのではなく、抱えるための筋にもなる」
惟種は言葉を選んだ。
「阿蘇が中国筋へ口を持つことにもなる。周防、長門、安芸、石見。いずれ、九州だけを見ていればよい時期は終わる」
「だから、受けるしかないのですね」
「そうだ」
加世は静かに頷いた。
「お家のためなら、私が怒ってよい話ではございませんね」
「怒ってよい」
惟種は即座に言った。
加世が、少し目を丸くする。
「よいのですか」
「よい」
「お家のためなのに?」
「それでもだ」
惟種は言った。
「家のために必要なことと、お前が傷つかぬことは別だ。必要だからといって、傷つけてよい理由にはならぬ」
加世は、しばらく黙っていた。
やがて、ほんの少し目を伏せる。
「惟種様は、ずるいです」
「すまん」
「そう言われると、怒れなくなります」
「怒ってよいと言っている」
「怒りたいわけではありません」
加世は静かに言った。
「ただ、少しだけ、寂しいのです」
その一言は、刃よりも深く惟種に刺さった。
惟種は、何も返せなかった。
「私は島津の娘です。家のために婚姻があることは知っております。私自身も、島津と阿蘇のためにここへ参りました」
「加世」
「ですが」
加世は顔を上げた。
その目は、先ほどよりも強かった。
「私は、惟種様の正室です」
「ああ」
「それだけは、譲れませぬ」
「当然だ」
「珠光姫を迎えることは、受け入れます。大内の血を預かることも、阿蘇のために必要なのでしょう。私も、珠光姫を粗略に扱うつもりはございません」
加世の声は、静かだが揺らがなかった。
「ですが、ひとつだけ、絶対に譲れぬことがございます」
「何だ」
「阿蘇の嫡流は、私の腹より生まれる御子にしていただきます」
惟種は、黙って加世を見た。
「第一の子がどうなるかは、神仏のみぞ知ること。ですが、阿蘇の次を継ぐ御子は、正室である私の腹より生まれる御子でなければなりませぬ」
それは、加世ひとりの願いではなかった。
島津が阿蘇へ差し出した、正室の言葉だった。
「珠光姫の御子を軽んじよ、という意味ではございません」
「分かっている」
「けれど、阿蘇の嫡流だけは譲れませぬ」
惟種は迷わなかった。
「もちろんだ」
即答だった。
加世が、わずかに息を呑む。
「もちろんだ、加世」
惟種はまっすぐに言った。
「阿蘇の嫡は、お前の子だ。わしの正室は、お前だけだ」
「本当に?」
「誓う」
惟種は、加世の前に手をついた。
「そこは、絶対に違えない」
加世の目が、少し揺れた。
「珠光姫を迎える。大内の血を預かる。いずれ中国筋へ出るための筋にもなるだろう」
言葉にすると、ひどく冷たい。
だからこそ、惟種は目を逸らさなかった。
「だが、阿蘇の家の筋を乱すつもりはない。お前を軽んじるつもりもない」
「惟種様」
「何もない時代なら」
惟種は、そこで一度言葉を切った。
この時代に、何もない時などない。
それでも、言わずにはいられなかった。
「わしは、お前だけを見ていたかった」
加世は何も言わなかった。
「だが、それを時代のせいにはできぬ。阿蘇を大きくしたのも、九州を束ねたのも、大内の血を受けると決めたのも、わしだ」
「はい」
「だから、すまん」
惟種は頭を下げた。
「お前には、すまないとしか言えない」
部屋の中が静かになった。
火鉢の炭が、小さく音を立てる。
しばらくして、加世が動いた。
惟種のそばへにじり寄り、そっと手を伸ばす。
その手が、惟種の頬に触れた。
「惟種様」
「ああ」
「顔を上げてください」
惟種は、ゆっくり顔を上げた。
加世は泣いていなかった。
けれど、その目は少し潤んでいた。
「大丈夫です」
「大丈夫ではないだろう」
「大丈夫にいたします」
加世は静かに笑った。
「私は、あなたの正室ですから」
惟種は、胸の奥が詰まるのを感じた。
「強いな、お前は」
「強くなければ、島津の娘は務まりませぬ」
「そうか」
「それに」
加世は、少しだけ頬を赤くした。
「惟種様に、愛されていないわけではないのでしょう?」
惟種は目を見開いた。
「そんなわけがない」
「では、大丈夫です」
加世の手は温かかった。
戦の話。
政の話。
大内の話。
陶の話。
毛利の話。
どれも消えたわけではない。
珠光姫は来る。
山口は揺れる。
阿蘇は、九州の外へ手を伸ばすことになる。
だが、この手だけは離してはならない。
惟種は、そう思った。
◇
しばらくして、加世が口を開いた。
「珠光姫は、どのような方なのでしょうか」
「まだ詳しくは分からぬ」
「お若いのでしょう?」
「ああ」
「ならば、不安でしょうね」
惟種は、少しだけ驚いた。
加世の声には、嫉妬よりも心配があった。
「自分の家が揺れている中で、遠い阿蘇へ来るのです。しかも、正室のいる殿方のもとへ」
「そうだな」
「私なら、怖いです」
加世は静かに言った。
「ですから、迎えるなら、きちんと迎えてください」
「よいのか」
「粗略にすれば、大内を軽んじたことになります。何より、姫君が哀れです」
惟種は、加世を見つめた。
やはり、加世は正室だった。
自分の立場だけではない。
新しく来る者の立場まで見ている。
「ただし」
加世は、そこで少しだけ目を細めた。
「私の前で、あまり嬉しそうにしないでください」
惟種は思わず咳き込んだ。
「嬉しそうにはせぬ」
「本当ですか」
「本当だ」
「惟種様は、時々お顔に出ます」
「そうか?」
「出ます。特に、面白いものを見つけた時」
「珠光姫を面白いもの扱いはしない」
「それならよいです」
惟種は、ようやく少し笑った。
加世も、つられて笑う。
重かった空気が、少しだけ緩んだ。
話が軽くなったわけではない。
ただ、二人で背負う形になっただけだった。
◇
「加世」
「はい」
「珠光姫が来れば、阿蘇の中に大内の部屋ができる」
「島津の部屋も、大友の部屋も、龍造寺の部屋もあるのでしょう?」
「ああ」
「若者の会で、惟種様がおっしゃっていたことですね。同じ屋根の下に、別々の部屋がある」
「そうだ」
惟種は頷いた。
「だが、屋根が揺れれば、部屋同士がぶつかる。正室と側室も同じだ。扱いを誤れば、家の内に割れ目ができる」
「ならば、割れぬようにいたしましょう」
加世は穏やかに言った。
「私も、阿蘇の屋根を支える者です」
「頼りすぎているな」
「頼ってください」
「よいのか」
「はい。その代わり、私も頼ります」
「もちろんだ」
加世は、惟種の手を握り返した。
「嫡子のことも」
「違えぬ」
「私を正室として立てることも」
「違えぬ」
「珠光姫を粗略にしないことも」
「違えぬ」
「では、大丈夫です」
加世は静かに言った。
「私は、惟種様の隣におります」
惟種は、しばらく何も言えなかった。
言葉にすれば軽くなる気がした。
だから、ただ加世の手を握った。
加世も、それ以上は何も言わなかった。
火鉢の炭が、また小さく鳴った。
◇
夜が深くなった。
惟種は、加世の部屋を出る前にもう一度振り返った。
「加世」
「はい」
「ありがとう」
加世は微笑んだ。
「礼を言われることではございません」
「いや、言わせてくれ」
「では、受け取ります」
「ああ」
「惟種様」
「何だ」
「大内の姫君を迎える時は、私も同席いたします」
「よいのか」
「正室ですから」
加世はまっすぐに言った。
「阿蘇が珠光姫を受け入れるということは、私も受け入れるということです。その形を、皆に見せねばなりませぬ」
惟種は深く頷いた。
「分かった」
「ただし」
「まだあるのか」
「あります」
加世は、少しだけ笑った。
「その日は、私を一番美しく見えるようにしてくださいませ」
惟種は目を瞬かせた。
そして、吹き出しそうになるのをこらえた。
「もちろんだ」
「本当ですか」
「阿蘇の正室が誰か、誰の目にも分かるようにする」
加世は満足そうに頷いた。
「それならば、よろしいです」
惟種は笑った。
この女には敵わない。
そう思った。
だが、敵わなくてよいとも思った。
惟種は襖を開けた。
廊の向こうは冷えている。
だが、先ほどよりも足は軽かった。
珠光姫を迎える話は、まだ始まったばかりである。
大内の割れ目は、まだ広がる。
陶は動く。
毛利も動く。
山口は揺れる。
そして阿蘇は、その揺れへ手を伸ばすことになる。
けれど、まず通すべき筋は通した。
家の筋。
正室の筋。
「惟種様」
背後から、加世の声がした。
惟種は振り返る。
加世は、火鉢のそばで穏やかに笑っていた。
「私は、あなたを愛しております」
惟種は、少しだけ笑った。
「ああ」
そして、はっきりと言った。
「わしも、お前を愛している」
襖が静かに閉まる。
冬の夜は深い。
だが、惟種の胸の内には、確かな火が残っていた。