作品タイトル不明
第百五十四話 大内の文
天文十九年(一五五〇年)十二月。
阿蘇の館に、また西から文が届いた。
大内義隆よりの文である。
もっとも、それは最初の文ではなかった。
山口からの文は、すでに何度か届いている。
初めは、祝言に参じられなかった詫び。
次に、西国の静謐を願う言葉。
その次は、博多の商いを荒らさぬよう、互いに慎むべしというもの。
いずれも、丁寧な文であった。
大内の格を落とさず。
阿蘇を侮らず。
朝廷と幕府への筋を外さず。
博多という銭の流れにも触れている。
美しい文であった。
美しいが、惟種はそれを読むたび、どこか引っかかっていた。
大内は静かすぎる。
阿蘇が九州を平らげた。
島津を内に入れた。
大友の名を残し、龍造寺と鍋島を用い、相良も名和も阿蘇の帳へ入れた。
その阿蘇が博多へ手を伸ばそうとしている。
大内が、何も思わぬはずがない。
だというのに、届く文はいつも整っていた。
整いすぎていた。
◇
惟種が呼ばれたのは、昼を過ぎた頃である。
惟豊の部屋には、すでに人がいた。
惟豊。
日新斎。
島津貴久。
甲斐宗運。
その顔ぶれを見た瞬間、惟種は足を止めた。
嫌な予感がした。
これは、ただの文の披露ではない。
阿蘇だけの話でもない。
島津の面目にも関わる話だ。
「若君」
宗運が静かに頭を下げた。
「来られましたか」
「来たが」
惟種は、部屋の中を見回した。
「なぜ日新斎殿と貴久殿がおられる」
日新斎は、穏やかに笑った。
「さて。わしも呼ばれましてな」
「貴久殿もか」
貴久は、少しだけ申し訳なさそうに頭を下げた。
「はい」
惟種は、惟豊を見た。
惟豊は文を前に置いていた。
その表情は、いつもより少し固い。
「惟種」
「はい」
「大内義隆殿より文が届いた」
「それは聞いております」
「此度の文は、わし宛である」
惟豊は、文の上に手を置いた。
「だが、そなたへも別封がある」
惟種は眉を動かした。
惟豊への文。
惟種への文。
家の筋と、実を動かす者への筋。
大内義隆は、そこを外していない。
惟種は、内心で少しだけ感心した。
やはり、義隆は見えていない男ではない。
◇
惟豊は、まず自分宛の文を開いた。
声は静かだった。
「大内義隆殿は、阿蘇との友誼をさらに太くしたいと申しておられる」
惟種は黙って聞いた。
「西国は今、乱れやすき時にある。九州は阿蘇が静め、山陽山陰は大内が保つ。互いに背を向けず、朝廷と幕府を仰ぎ、商いを荒らさず、寺社を乱さず、民を疲れさせぬことが肝要である、と」
「まっとうですな」
日新斎が言った。
「まっとうすぎる」
惟種は呟いた。
惟豊は文を少し進めた。
「その上で、義隆殿はこう申しておられる」
部屋の空気が変わった。
「息女、珠光姫をもって、阿蘇との縁をさらに深めたい、と」
惟種は、少しだけ息を止めた。
珠光。
大内義隆の娘。
史実では、大寧寺の変で義隆とともに死ぬはずの娘。
その名が、ここで出る。
惟豊は続けた。
「文には、側室という言葉はない。だが、意味はそうであろう」
惟種は、ゆっくり日新斎と貴久を見た。
なるほど。
だから、この二人がいるのか。
結婚したばかりだぞ。
つい先日、島津の姫を正室に迎えたばかりだぞ。
そう思ったが、口には出さなかった。
出せる空気ではない。
これは女の話ではない。
大内の血を、阿蘇へ入れる話である。
そして、島津の正室を軽んじる話になってはならない。
だから日新斎と貴久がいる。
筋を通すために。
◇
惟種は、自分宛の文を受け取った。
紙は上質である。
筆は乱れていない。
文面は丁寧だった。
大内の格があった。
媚びてはいない。
だが、助けを求める匂いはあった。
義隆は、阿蘇を敵と見ていない。
少なくとも、今は。
むしろ、山口の外へ、大内の血を逃がす道を探している。
惟種は、文を畳んだ。
「来るなら、いつです」
宗運が答えた。
「早ければ、来春四月ごろかと」
「四月」
「山口の内が、まだ形を保っているうちに、ということでしょう」
「まだ、か」
惟種は苦く笑った。
その言い方だけで分かる。
宗運は、山口の内を相当見ている。
「大内は、そこまで危ういか」
宗運はすぐには答えなかった。
その沈黙が、答えだった。
「宗運」
「はい」
「お前、何をしていた」
日新斎が目を細めた。
貴久も宗運を見る。
宗運は、まったく悪びれずに頭を下げた。
「山口に、いくつか文を入れております」
「いくつか?」
「はい」
「いくつだ」
「必要なだけにございます」
「それは数ではない」
「数えると、若君が嫌な顔をされます」
「もうしている」
宗運は淡々としていた。
「文治の者には、阿蘇が朝廷と幕府の筋を乱さぬ家であると知らせました。武断の者には、阿蘇を攻めれば長引くと知らせました。商人には、博多が荒れれば荷が止まると知らせました。寺社には、九州静謐を乱すことの不義を知らせました」
惟種は黙った。
「大内家中の割れ目に、それぞれ違う楔を打ちました。阿蘇を討てば得をする、ではなく、阿蘇を討てば自分が損をする。そう思わせるために」
日新斎が、低く笑った。
「なるほど。大内が静かだったのではない。静かにさせていたのですな」
「その通りにございます」
宗運は、さらりと言った。
惟種は頭を抱えたくなった。
宗運、すげえ。
いや、すごいを通り越して怖い。
そしてこの男、本当にいつ寝ている。
「宗運」
「はい」
「お前、過労で死ぬぞ」
「まだ死にませぬ」
「まだ、では困る」
「必要なことにございます」
宗運の声は淡々としていた。
「若君が九州を取られた直後でございます。勝った後ほど、外から楔を打たれやすい。筑前を揺らされ、博多の荷を止められ、阿蘇の文官を嫌う者を煽られれば、九州はすぐにきしみます」
惟種は、黙って聞いた。
「戦場で負けるとは申しませぬ」
宗運は続けた。
「ですが、戦に勝っても、帳が破れます。蔵が止まります。人が逃げます。病を数える者が途切れます。今の阿蘇にとって、それは敗北に近い」
惟種は、深く息を吐いた。
その通りだった。
阿蘇は勝った。
だが、勝ったばかりだ。
各地に文官を置き、帳を入れ、蔵を改め、名を数え、病を数え、道を整えている最中である。
そこへ大内が筑前から楔を打てば、戦には勝てても、治めるものが壊れる。
それを宗運が抑えていた。
文と噂と商人と僧で。
兵を動かさずに、兵を止めていた。
◇
惟豊が静かに言った。
「義隆殿は、阿蘇を見ておる」
「でしょうな」
惟種は頷いた。
「敵にするには重い。だが、下につけるには大きすぎる。だから縁を結ぶ」
日新斎が言った。
「大内の血を受ければ、阿蘇は九州の外を見ることになりますな」
「周防、長門、安芸、石見」
宗運が地名を並べた。
「山陽、山陰への口ができます」
貴久は、少し表情を引き締めた。
「それは、島津にとっても小さな話ではございませぬ」
「分かっております」
惟種は貴久を見た。
「加世を軽んじるつもりはありません」
貴久は静かに頷いた。
「その言葉を聞きたかったのです」
日新斎は、扇をゆっくり閉じた。
「正室の面目を立てること。大内の姫を粗略にせぬこと。その二つが通るなら、島津は異を唱えませぬ」
「ありがたい」
「ただし」
日新斎の目が細くなった。
「大内の血を受けるなら、その血はただの飾りでは済みませぬぞ」
「でしょうね」
惟種は苦く笑った。
分かっている。
珠光を受け入れるということは、義隆の血を阿蘇が預かるということだ。
それは、いずれ山口が荒れた時、大内家中に口を出す筋になる。
いや、口を出さざるを得なくなる。
史実では、この先に大寧寺がある。
義隆は死ぬ。
その後、陶晴賢が動き、毛利元就が伸び、最後には厳島が来る。
天文二十四年。
厳島。
陶晴賢。
毛利元就。
阿蘇が大内の血を受けるなら、その流れをただ眺めている理由はなくなる。
中国筋へ手を伸ばす口ができる。
それは救いか。
野心か。
惟種は、自分でも分からなかった。
◇
史実では死ぬはずの者に、また縁ができる。
大内義隆。
珠光を受ければ、義父となる男。
そして、足利義藤。
幕府は、正直いらない。
古い器だ。
ひびが入り、底が抜けかけている。
いずれ信長の火に焼かせればよい。
自分の刃で斬る必要はない。
だが、義藤という男まで嫌いなわけではない。
むしろ、嫌いではなかった。
古い家も、古い仕組みも、いずれ変えねばならない。
だが、その中にいる者すべてを、史実のまま死なせたいわけではない。
大内も同じかもしれない。
西国の古い秩序は、いずれ組み替える。
だが、義隆という男を、そのまま死地へ置きたいわけではない。
珠光を受ける。
それは、大内の血を救うことでもある。
同時に、大内の名を阿蘇の手札にすることでもある。
情だけではない。
利だけでもない。
その二つが、同じ文の中に入っている。
だから厄介だった。
◇
「若君」
宗運が呼んだ。
惟種は顔を上げた。
「どちらにせよ、今の阿蘇は大きな戦を避けるべきにございます」
「分かっている」
「九州は取った。ですが、まだ治まりきってはおりませぬ」
「分かっている」
「大内と戦えば、勝敗以前に九州の腹が裂けます」
「分かっていると言っている」
「では」
宗運は静かに問うた。
「お受けになりますか」
部屋が静かになった。
惟豊も、日新斎も、貴久も、惟種を見ている。
惟種はしばらく文を見た。
大内義隆の筆。
整っている。
まだ折れていない。
だが、急いでいる。
その急ぎ方が、ひどく静かだった。
「受ける、正確には受けるしかない。だが、陶殿にも文を出さねばならん」
惟種は言った。
貴久が小さく息を吐いた。
日新斎は目を閉じる。
惟豊は、深く頷いた。
宗運は、表情を変えなかった。
惟種は続けた。
「今、大内を敵に回す意味はない。九州の仕組みを固める方が先だ。珠光姫を受ければ、大内との戦は遠ざかる。博多も荒れにくい」
「はい」
「それに」
惟種は、文を指で押さえた。
「大内の血を受けるなら、阿蘇は中国筋へ口を持つ」
宗運の目が、わずかに細くなった。
日新斎が笑う。
「やはり、そこまで見ますか」
「見ないふりをしても、いずれ見える」
惟種は言った。
「山口が割れれば、周防も長門も荒れる。陶が動けば、毛利も動く。博多にも響く。九州だけ見ていればよい時期は、もう終わりかけている」
貴久は重く頷いた。
「南は島津が支えます」
「頼む」
「ただし、加世には」
「分かっている」
惟種は、貴久の言葉を遮らずに受けた。
「加世には、わしから話す」
◇
惟豊が言った。
「文の返しは、すぐには出さぬ方がよい」
「なぜです」
「軽く受けたと思われてはならぬ。大内の血を受けるのだ。阿蘇としても、島津としても、筋を整えねばならぬ」
日新斎が頷く。
「その通りですな。大内の姫を粗末に扱う形になってもならぬ。かといって、正室を押しのける形にもできませぬ」
宗運が続けた。
「まずは、友誼を喜ぶ文を返します。その上で、詳細は改めて。迎えの人数、道中の警固、博多か豊後か、あるいは海路か陸路か。すべて詰めねばなりませぬ」
「四月なら」
「冬の海は避けられます。山口がまだ保っていれば、間に合うかと」
「保っていれば、か」
惟種は小さく呟いた。
それは、あまりにも細い橋だった。
だが、橋があるなら渡るしかない。
渡らなければ、珠光は山口に残る。
義隆もまた、あの割れ目の中に残る。
それを見過ごせるほど、惟種は冷たくなりきれていなかった。
そして、見過ごしてよいほど、大内の血は軽くなかった。
◇
話はまとまった。
大内義隆へは、丁重な返書を送る。
珠光姫の件は、阿蘇として前向きに受ける。
ただし、島津の正室の面目を立てること。
迎えの筋を整えること。
道中の安全を阿蘇が保証すること。
大内の姫として遇すること。
それらを外さない。
惟種は、立ち上がった。
「若君」
宗運が声をかけた。
「どちらへ」
「加世のところだ」
貴久が、静かに惟種を見た。
惟種は、その視線を受けて頷いた。
「筋は通す」
そして、少しだけ息を吐いた。
「加世に話してくる」
誰も止めなかった。
惟豊も。
日新斎も。
貴久も。
宗運も。
それぞれが、違う顔で惟種を見送った。
廊へ出ると、冬の空気が肌に触れた。
阿蘇の山は、遠く静かに見えている。
九州は、まだ治まりきっていない。
大内は、割れ始めている。
幕府は、いずれ崩れる。
信長は、東で火を大きくしようとしている。
そして、阿蘇のもとへ、大内の姫が来るかもしれない。
惟種は歩きながら、ひとつだけ思った。
結婚したばかりなんだがな。
だが、それでも歩みは止めなかった。
まずは、加世に話さねばならない。
国の筋を通す前に。
家の筋を通すために。
そして惟種の天下の為に