軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第十話 父と宗運、水飴を前に若君を量る

一か月ほどが過ぎた。

阿蘇の館では、若君の病はすっかり過去のものになりつつあった。

阿蘇 惟種は日に日に顔色を戻し、庭を歩き、廊下を走り、高森を相手に木刀を振る真似まで始めている。

それだけなら、ただの快癒で済んだ。

だが、済まなかった。

門前では、妙なものが売れ始めていた。

とろりと甘く、子どもが目を輝かせ、病人にも飲ませやすく、女たちが土産に欲しがる。

水飴(みずあめ) 。

最初は若君の養生のためという名目で台所で作られたそれは、いまや門前で少量ずつ捌かれ、思った以上の反響を呼んでいた。

数で見れば、まだ大したことはない。

だが、門前の売り物としては十分に“匂い”があった。

売れる。

続く。

しかも、ただの一度の珍しさではなく、もう一度買いたいと求める者がいる。

その事実が、館の奥へじわじわと届いていた。

そして同じように、別の噂もまた届いていた。

若君は熱のあと、おかしくなられたのではないか。

狐でも憑いたのではないか。

火の山の神気にあてられたのではないか。

あるいは、何か別のものを持ち帰ったのではないか。

そうした囁きである。

無論、それを表立って口にする者はいない。

だが、誰もが胸の内で一度は考えていた。

館の奥、当主の座す一室で、 阿蘇(あそ) 惟豊(これとよ) は小さな器に入った水飴を見ていた。

昼の光が障子越しに柔らかく差し込み、その薄い飴色を静かに照らしている。

惟豊の向かいには、宗運がいた。

月代を落とした法体の姿で、いつものように無駄なく膝をついている。

「これが、その水飴か」

惟豊が言う。

「はい」

宗運は短く答えた。

「門前で売れていると聞く」

「思ったより、にございます」

宗運の言葉は慎重だった。

だが、慎重であるということは、裏を返せば本当に手応えがあるということでもある。

惟豊は匙を取り、水飴を少しだけすくった。

光を含んで、とろりと糸を引く。

口へ運ぶ。

甘い。

濃く、柔らかく、砂糖のように鋭くはないが、たしかに人を惹く甘さだった。

惟豊はしばらく黙ってそれを舌で転がし、それから小さく息を吐いた。

「……甘いな」

「はい」

「子どもが欲しがるのも分かる」

「女どもも買っております。病人へ持ってゆく者もおります」

惟豊は、器を見下ろしたまま言った。

「実入りは」

「まだ門前の小売りにございますゆえ、大金とは申せませぬ」

「だが」

「続ければ、確かに金になります」

そこで惟豊は、ようやく宗運を見た。

宗運もまた、別の器の水飴を少しだけ口にしている。

甘味を楽しむというより、味を量っている顔だった。

「おぬしは、どう見た」

「売れます」

即答だった。

「量が揃えば、もっと」

「ほう」

「門前だけではなく、館の客への出し物にもなりましょう。薬にも使える。神前にも出せます」

惟豊は、ゆっくりとうなずいた。

悪くない。

いや、かなりいい。

ただの菓子ではない。

使い道がある。

しかも、“阿蘇で作れる”というのが大きい。

しばしの沈黙ののち、惟豊は言った。

「若君が考えた、か」

「左様にございます」

「本当に」

宗運は少しだけ目を伏せた。

「少なくとも、若君の口から出たものにございます」

その答え方に、惟豊はわずかに目を細める。

宗運は断じない。

それが宗運らしかった。

「田のこともそうだったな」

「はい」

「市のことも」

「はい」

「そして今度は水飴か」

「はい」

宗運は、そこで少しだけ間を置いた。

「しかも、理が通っております」

惟豊は鼻で小さく息を吐いた。

そこが一番厄介なのだ。

夢だ神意だ妖だといったものなら、まだ扱いようがある。

笑うか、祭るか、封じるかすればよい。

だが、あの子の言葉は違う。

妙でありながら、理が通っている。

理が通っているくせに、あの年の子が知っているには通りすぎている。

それが、惟豊にも宗運にも、もっとも判断を難しくさせていた。

「家中で何か言う者はおるか」

惟豊が低く問う。

宗運は、正直に答えた。

「おります」

「狐憑き、か」

「はい」

「妖の類とも」

「はい」

「神気にあてられたとも」

「それも」

惟豊は、再び水飴を少し口にした。

甘い。

厄介な甘さだ、と惟豊は思った。

これがまずければ話は早い。

子供の奇妙な思いつきが、たまたま台所を騒がせただけで終わる。

だが、これは甘い。

しかも売れる。

「おぬしはどう見る、宗運」

惟豊の声は静かだった。

「狐か。妖か。神の気か。あるいは、ただあやつの才か」

宗運はすぐには答えなかった。

長く阿蘇家を支えてきた男にとって、こうした問いは軽く口にできるものではない。

阿蘇は火の山の家であり、大宮司の家であり、吉凶や神意と無縁ではいられぬ家だからだ。

やがて宗運は言った。

「分かりませぬ」

惟豊は眉ひとつ動かさず、続きを待った。

「分かりませぬが……少なくとも今のところ、若君の言葉は金を生み、田を動かし、市を変えようとしております」

「それが厄介なのだ」

「はい」

宗運は深くうなずいた。

「妖なら、切れば済みます。

神意なら、祀れば済みます。

ですが若君の言葉は、切るには惜しく、祀るには生々しすぎます」

惟豊は、その言葉に思わず口元をわずかに動かした。

笑ったわけではない。

だが、宗運もまた同じところへ辿り着いているのだと分かった。

「生々しい、か」

「はい。土の匂いがしすぎます」

惟豊は、そこでようやく正面から宗運を見た。

「よい言いようだ」

「恐れ入ります」

「夢を見るにしては、あれは田と市と飴の話をしすぎる」

「左様にございます」

「神に触れた者が、まず台所へ向かうものか」

その言葉に、宗運は少しだけ口元を動かした。

こちらも笑いではない。

苦い納得だ。

「されど、阿蘇の家に生まれた若君が、熱のあとに奇妙な知恵を見せれば、下の者どもが狐を疑うのも無理はございますまい」

「無理はない」

惟豊は器へ視線を落とした。

水飴は静かに光っていた。

火の山。

夢。

奇妙な知恵。

そして実利。

どれかひとつならまだ扱える。

だが、それが全部混ざると厄介だ。

惟豊は、胸の内で静かに認めていた。

惟種は変わった。

少なくとも、惟将を失う前の惟種とは別だ。

だが、その変化が阿蘇家にとって吉か凶かは、まだ決めきれない。

「惟種の意向に沿うべきと思うか」

惟豊の問いに、宗運は少しだけ目を上げた。

それは今までの問いとは違う。

理や実利だけではなく、家として従うかどうかを問うている。

宗運は慎重に答えた。

「まだ、全面には」

「うむ」

「ですが、捨てるには惜しゅうございます」

「うむ」

「ゆえに、量るべきかと」

惟豊はうなずいた。

それでよい。

宗運が惟種に心酔しておらぬのはむしろ安心だった。

だが、切り捨てようともしていない。

それもまた大きい。

「量る、か」

「はい」

「何を」

惟豊はそう問うたが、答えは自分でも半ば分かっていた。

宗運は言う。

「若君が、どこまで分かっておられるのか」

「理を、か」

「理を」

「それだけか」

宗運は、そこでほんのわずかに息を置いた。

「……そして、どこまで“若君”でおられるのか」

静けさが落ちた。

その一言は、今まで避けてきた核心だった。

惟豊は目を閉じた。

父として、その問いを聞くのは痛かった。

だが当主としては、聞かずに済ませるわけにはいかぬ。

「おぬしも、そこを思うか」

「はい」

「わしもだ」

惟豊は正直に言った。

「ただ利を生むだけなら、それでよいとも言える。

だが、惟種の身体に惟種でないものが入っておるのなら、話は別だ」

「はい」

「神意ならまだよい」

「はい」

「だが、妖であれば困る」

「はい」

惟豊は、そこまで言ってから少しだけ苦く笑った。

「だが、妖がこんな飴を作るかもしれぬと思うと、それもまた厄介だな」

宗運は何も言わなかった。

だが、その沈黙の中に、同意があった。

惟豊は器の飴を見た。

売れている。

人を喜ばせている。

金にもなっている。

それを一刀のもとに断てるほど、今の阿蘇家は贅沢ではない。

長い内紛を越えてようやく形を取り戻した家だ。

使えるものは使わねばならぬ。

だが同時に、何に従おうとしているのかは見極めねばならない。

「宗運」

「は」

「惟種を呼べ」

「今、この場へ」

「うむ」

惟豊はまっすぐに宗運を見た。

「飴のことから始めよう」

「は」

「田のことも、市のことも、いずれは問う。

だがまずは、あれが何を見ておるのかだ」

宗運は、深く頭を下げた。

「承知いたしました」

宗運が立ち上がる。

襖の前で一度だけ足を止めた。

「御屋形様」

「何だ」

「若君が、本当に変わっておられたとして」

「うむ」

「それでも阿蘇のために働くのであれば」

惟豊は、その先を聞く前に答えた。

「使う」

宗運は、わずかに目を細めた。

「左様にございますな」

「だが、阿蘇を喰うものであれば切る」

「はい」

宗運は一礼し、部屋を出ていった。

惟豊はひとり、器の中の水飴を見つめた。

甘い。

厄介なほどに。

阿蘇の若君は、熱のあとに奇妙な知恵を持ち始めた。

それが神の恵みか、妖の囁きか、ただの目覚めた才か――まだ分からぬ。

だが少なくとも、この甘味は人を動かした。

そして金を生み、門前に人を寄せた。

それだけで、問いただすだけの価値がある。

惟豊は、最後のひと匙を口に運んだ。

「……惟種」

その名を、小さく呼ぶ。

次にこの部屋へ入ってくる時、

あれは息子として来るのか。

若君として来るのか。

それとも、まだ名のない何かとして来るのか。

惟豊は静かに待った。