作品タイトル不明
消せなかった渇望
なにも言えない彼の戦いに、寄り添い続けようと思った――
ディルヘイド。亡霊たちの村落。
その住居の一つに、身重となったルナの姿があった。
十月十日が過ぎ、普通ならばとっくに産まれている時期ではあったが、いつまで経っても陣痛は始まらない。
その代わりに、ルナは日に何度も胎動を感じていた。
胎内で赤子が動く。
それが滅びを伴い、黒き粒子が彼女の内側で渦巻いた。
並の母胎ならば、一瞬で滅び去っただろうが、しかしルナは一瞬苦しげな吐息をこぼすに留まる。
まだ彼女はその記憶を思い出してはいないが、災禍の胎が赤子の滅びを飲み込んでいるのだ。
「よしよし、アノスは今日も元気ね」
膨らんだ自身の腹を、ルナは優しく撫でる。
赤子に伝わったか、再び胎動を感じた。
「いつお外に出たいかなぁ? まだお母さんのお腹の中がいいの?」
ルナはお腹の中の赤ん坊に話しかける。
この一時が、彼女はなによりも好きだった。
「あのね、アノスはヴォルディゴードの血族だから、滅びの根源を持ってるんだって。滅びの根源って言ってもわからないかなぁ? すっごく強いのよ?」
赤ん坊に笑いかけるように、ルナは言う。
「頑丈な母体じゃないと、産む前に死んじゃうらしいんだけど、大丈夫。お母さんはこう見えて、けっこう強いみたい。ちゃんとアノスを産んであげるから、心配しないでいつでも出てきていいからね」
「どうだろうな」
セリスが部屋に入ってくる。
彼がここへ来るのは数日ぶりだ。
身重のルナをおいてどこへ行っていたかと言えば、戦場である。
ディルヘイドで起きた紛争に顔を出し、その首謀者二人を斬り捨てて来た帰りだった。
説明もなく突然出ていったセリスを、けれども彼女は満面の笑みで迎えた。
「おかえりなさい、あなた」
「ヴォルディゴードの子を宿した母は、胎動とともに衰弱していく」
セリスはルナに近づき、そのお腹に手をやった。
魔眼を光らせ、彼は胎内にいる赤子の深淵を覗く。
「滅びの根源は、生誕に反す。胎児には死と滅びが栄養なのだ。母体が滅びに近ければ近いほど、ヴォルディゴードの子が産まれる環境が整う。胎動が滅びの力を伴うのはそのためだ」
「でも、わたしは平気よ? 少し体が辛いこともあるけど」
不思議そうにルナが言った。
「それだけ、お前は母体として強靱ということだ。俺の母も強い母体の持ち主だったが、今ぐらいの時期には声を発することすらできなかったと聞く」
「……じゃ、わたしぐらい母体が強い人は、どうやって産むの?」
「前例はない」
それを聞き、ルナはほんの少し暗い表情を見せた。
「……わたしの前世に関係あるのかな?……」
セリスは答えない。
ルナの表情がますます曇った。
「まだ思い出せないけど、でもね、漠然と不安があるの。アノスが悪い子になるんじゃないかって。もしかしたら、産んじゃいけないんじゃないかって。その気持ちが、どんどん強くなって……」
「思い上がるな」
彼女の不安を、セリスが一蹴する。
「お前が産むのは、お前の子ではない。ヴォルディゴードの子だ。善も悪もない。たとえ、お前の子がこの世界を滅ぼす宿命をお仕着せられようとも、ヴォルディゴードの滅びの根源はその宿命すらも滅ぼす。我が血族が、滅びの王だ」
苛烈な言葉を放つセリスの瞳に、ルナは視線を奪われる。
もしかしたら、彼はまだ思い出していないルナの前世を知っているのかもしれない、そんな風に彼女は思った。
知りたかったが、尋ねても、答えはくれないだろう。
前世のことを口にしないのは、二人の間で暗黙のルールとなっていた。
「そうよね。どんな子になるかなんて、わたしたちの育て方次第よね」
ルナは笑顔を浮かべた。
セリスは自分のために、そう言ってくれたはずだ。
不安に思わなくてもいい。
運命に負けない強い子になる。
きっと、そういう意味のはずだから。
どうしてここまで徹底して彼が亡霊を演じるのか、それは今のルナにはわからない。
前世の自分にも、はっきりとはわからなかったのかもしれない。
ただルナは思うのだ。
彼は自分を押し殺し続けているからこそ、亡霊でいられるのではないかと。
その瞳はいつも遠い未来を見据え、今ではなく未来の可能性のために戦っている。
誰も見ていないこの場所で、本音を少し口にしたところで、それにつけ込めるほどの魔族はそう滅多にいないだろう。
だけど、ほんの僅かでも情を見せてしまえば、もう亡霊には戻れないのかもしれない。
彼は誰より強く、なにより厳しく、そして本当はひどく脆いのだ。
亡霊であり続けなければ、自分を押し殺し続けていなければ、生者であることを思い出してしまう。
仲間すら平気で見殺しにできる幻名騎士団の長、他者を滅ぼすだけの狂った亡霊だと皆は言うが、実際は違う。
助けたくて仕方がない。守りたくて仕方がないはずなのだ。
本心に蓋をするために、彼は常に狂った亡霊を演じ続ける。
その優しさが溢れ出さないように。
「ねえ。邪魔になったら、わたしのことも滅ぼす?」
「愚問だ」
ふふっとルナは笑った。
「なにがおかしい?」
「おかしくないわ。あなたの足枷にならないのが嬉しいの。いいじゃない? あなたに見捨てられたら、そのとき、わたしは本当に亡霊の妻になれる気がするの。それって素敵なことじゃない?」
セリスはただ冷めた視線をルナへ送る。
「守らないでね、絶対。わたしはあなたにだけは守られたくない」
言わずとも、彼がルナを守ることはないだろう。
それでも、自ら望んだことだと伝えておきたかった。
魂をすり減らしながらも戦い続ける彼の心に、自分だけは傷痕を残したくはなかったのだ。
「馬鹿め」
セリスは立ち上がり、踵を返す。
「ここはじきに引き払う。エドナス山脈にあるツェイロン家の集落へ行け。奴らはお前に恩義を感じている。出産までは面倒を見てくれるであろう」
振り返りもせず、セリスは部屋を出て行く。
そんなことはとっくの昔にわかっているルナは、当たり前のように彼を送り出した。
「行ってらっしゃい、あなた。気をつけてね」
ドアが閉められた。
ルナはすぐに支度をして、ツェイロン家の集落へ向かう。
道中は 一番(ジェフ) に護衛をしてもらい、何事もなく到着した。
ツェイロンの血族たちとは以前に懇意にしていた。
セリスが言った通り、ルナは彼らを助けたことがあり、ツェイロンの魔族は皆、彼女に恩義を感じている。
突然訪れたルナを彼らは歓迎し、身の回りの世話を買って出てくれた。
最初は料理ぐらいは手伝おうと思っていたが、日に日に胎動が強くなり、彼女の体が衰弱し始めた。
滅びの力がどんどん強くなり、彼女の胎内を蝕んでいくのだ。
次第にルナは体を起こすことさえやっというほどになり、一日の大半をベッドで過ごすようになった。
そんな、ある日のことだった――
一人の男がルナの部屋を訪ねてきたのは。
「やあ」
その男の表情は、一言で言えば虚無だった。
薄く微笑んでいるにもかかわらず、心はまるでそうは見えない。
なにを考えているのかまるでわからなかった。
「初めまして、亡霊の花嫁」
なぜだろうか。
物腰の柔らかい彼の挨拶を聞き、ルナは嫌な予感がした。
なんでもない言葉一つに、胸がざわつく。
「一つ尋ねたいのだけれど」
薄気味悪い声に反応し、胎動が響いた。
「君が死んだら、セリス・ヴォルディゴードは本当の顔を見せてくれると思うかい?」
瞬間、ルナは体に鞭を打って、ベッドから飛び起きた。
彼は敵だ。
それも、どこからか、セリスの名を知るほどの。
ルナは素早く< 真闇墓地(ガリアン) >の魔法陣を描く。
だが、その魔法陣から放たれたのは真白の光、発動したのは< 枷結界封絶(デ・グレバイド) >だった。
「な、にっ……?」
光が手足にまとわりつき、手枷、足枷に変化する。
あっという間に光の枷が、ルナの手足を拘束し、その魔力を封じた。
その男――グラハムの隣に姿を現したのは、幼い男の子。
ツギハギの服を纏い、一本の羽根ペンを握りしめている。
狂乱神アガンゾンだ。
その権能にて、ルナが描いた魔法陣を改竄し、彼女を縛りつけたのだ。
「試してみよう」
< 創造建築(アイビス) >で牢獄が作られ、彼女はそこに閉じ込められる。
「出してっ……!」
グラハムは薄く微笑み、去っていった。
< 枷結界封絶(デ・グレバイド) >は時間とともに消えるが、衰弱したルナに、そこから抜け出す術はない。
ほどなくして、人間の兵がやってきてツェイロンの集落を占領した。
グラハムはそこでツェイロンの血族たちを解剖し、おぞましい魔法実験を始めたのだ。
ルナは助けを期待しなかった。
彼は来ない。
来たとしても、自分を助けることはない。
ゆえに、やるべきことは一つだけ。
滅びに近づく母体で、己の身に宿した愛しい我が子を産むことだった。
覚悟を決めたルナはひたすらに機会を待つ。
そうして、とうとうそのときがやってきた。
「きゃあぁっ……!」
集落の広場に連行されたルナは、蹴り飛ばされ、地面を転がった。
魔族に恨みを抱く人間の兵たちが、憎悪に任せて彼女をいたぶり始めたのだ。
お腹だけは必死に守りながら、ルナは感じていた。
幻名騎士団がここへ来ている。
隠蔽魔法に優れる彼らの居場所は、並の魔族には見通せない。
けれども、なぜか彼女の魔眼にはそれがなんとなくわかるのだ。
未来を願う、彼らの渇望が。
セリスが今、どんな想いでこの光景を見ているかと思うと、胸が詰まった。
ちょうど、そのときだ。
お腹の子が――アノスが、怒りを発するかのようにその滅びの力を周囲にまき散らし始めた。
救うわけにはいかないセリスの代わりに、母を守ろうとするように。
ああ、きっと、この子は優しい子に育つ。
ルナはそんな風に思った。
瞬く間に、その場にいた人間たちは皆、灰へと変わった。
「素晴らしいね。ヴォルディゴードの血統、滅びの力。まるで世界の理から外れているようだよ」
グラハムが言う。
「母胎の滅びが近くなったことで、魔力が増したといったところかな?」
彼の魔眼がルナへと向けられる。
すると、彼女の前に漆黒の炎が現れ、壁を構築した。
まるで母を守るかのように。
「……アノス……」
ルナが呟く。
「いいのよ……いいの……あなたは産まれることだけに力を使って……お母さんが必ず、産んであげるから……」
「美しいね。子を守る母の愛情。命を賭して、君は彼を産むんだろう」
グラハムは言った。
「母胎が滅びることで、彼は生を得ることができる。滅びの宿命を背負って」
漆黒の炎がすべて消えた瞬間、ルナはグラハムへ向かって駆けた。
その周囲に暗闇が広がり始める。
「< 真闇墓地(ガリアン) >」
ルナの魔法により、光の一切届かない暗黒がそこに訪れる。
「困ったね。なにも見えないじゃないか」
視界のない静寂の中――
グジュ、と命の終わる音がした。
グラハムの手がルナの腹を斬り裂いていたのだ。
「……ぁ…………」
がっくりと膝をつき、彼女は倒れる。
それでもお腹を守るように手をやって。
「あなた……後は……」
瞬間、その暗雲から雷が落ちるが如く、紫電が疾走し、ガウドゲィモンがグラハムの心臓を貫いていた。
ジジジ、と激しい紫電がグラハムの体内で荒れ狂う。
その根源めがけて、セリスはありったけの滅びの魔法をぶつけた。
「< 滅尽十紫電界雷剣(ラヴィア・ネオルド・ガルヴァリィズェン) >」
膨大な紫電がグラハムの体を、その根源を消滅させた。
セリスは魔眼を光らせ、周囲に視線を配る。
脅威はもうない。
それを冷静に確認した後、セリスはゆるりと倒れているルナのもとへ歩いていった。
「あなた……」
彼女は息も絶え絶えに言葉をこぼす。
その姿を、セリスはただ無言で見つめた。
ああ、これで最期なのだろう。
ルナは悟った。
最期だから、こうして見つめてくれているのだ。
「……なにか、言うことはないのですかっ?」
一番(ジェフ) が、彼のもとへ歩いてくる。
「最後に、なにか言ってあげてくださいっ! 師よっ! 滅びゆく者にぐらい、せめて情けをっ!」
彼はいつも優しい。
それに亡霊には向かない子だ、とルナは思う。
おぼろげな前世の記憶でも、似たようなところがあったような気がする。
「亡霊の妻に、それは望んでなったのだ」
その言葉が、なによりのはなむけだった。
きっと、わたしと彼にしかわからない。
初めて妻と呼んでくれた。
ちゃんと彼の妻であり続けることができた。
それが嬉しかった。
「いいのよ、 一番(ジェフ) 。わたしは幸せだった」
「……しかし、奥方様……それではあまりに……」
ゆっくりとルナは首を振る。
今はわからないかもしれない。
一番(ジェフ) は前世の記憶を忘れている。
「滅びの根源がね、ヴォルディゴードの血統……産まれるのは、それに反しているの……だからね、なにかが代わりに、死ななきゃならないの……ヴォルディゴードの妻となった者の宿命なのよ……」
きっと 一番(ジェフ) も、いつかセリスの真意に気がつくだろう。
彼の悲しい戦いに。
「……滅びる母胎が……アノスには一番……。これでいいの」
看取ってくれるなんて思わなかったな。
そう思ったら、涙と笑顔がこぼれてきた。
「……ありがとう……」
そばにいさせてくれて。
あなたの子供を産ませてくれて。
亡霊の妻らしく逝かせてくれて。
ありがとう。
「……アノス。生きて、誰よりも強い子になって……お父さんを、助けてあげてね……」
もう声を出すことはできない。
彼女の胸の中で、最後の想いが溢れかえった。
――いつか、夢見た家庭とは全然違ったな――
――この子を育ててあげることもできない――
――だけど、理想に満ちた甘い夢より、ずっといいわ――
――思い通りにならない過酷な現実の中で、
それでも精一杯生きることを教えてくれた――
――なにも言えないあなたの戦いに、寄り添い続けてきた――
――あなたの無言に優しさを感じて――
――あなたの瞳に楽しさを感じて――
――あなたの拒絶に、愛を感じたわ――
――誰にも言えないあなたの本当の気持ちをわたしだけが知っている。
だから、あなたの分まで愛情で満たして、あなたの分まで沢山沢山喋ったわ――
――ねえ――
――ねえ、あなた――
――沢山、沢山、喋ったけど、
わたしの気持ちはちゃんと届いていたのかな?――
――あなたの気持ちを、わたしはちゃんと理解できていたのかな?――
――ごめんね。最期なのに、こんなことを思って――
――こんな生者みたいなことを思う女は、あなたは嫌いだよね――
――なにもいらない――
――結婚なんてしなくていい――
――ありふれた家庭もいらない――
――穏やかな日々も、なにも――
――だけど――
――ぜんぶいらないと思ったけれど、
胸の奥に一つだけ、どうしようもない渇望が残っていた――
――わたしは――
――あなたの言葉が欲しかった――