作品タイトル不明
第7話 離縁届
宰相ディートリヒ・フォン・ヴァイスブルク殿。
本書をもちまして、私ヴィクトリアは──
書き出しまで三日かかった。
離縁届の書式は婚姻局で確認した。書式自体は簡素だ。申請者の名前、被申請者の名前、離縁の正当事由、署名。それだけ。
正当事由の欄に、何を書くか迷った。
不貞、ではない。あの人は不貞をしていない。
遺棄、でもない。同じ屋敷に住んでいた。食事は別で、寝室は別で、会話は業務限定だったが、法的な遺棄には当たらない。
三年以上の感情的別居。
この国の離縁制度には、そういう条件がある。夫婦としての実態がない状態が三年以上続いた場合、離縁の正当事由として認められる。
十年だ。三年どころではない。
感情的別居、と書いた。インクが紙に沁みる音が、妙にはっきり聞こえた。
離縁届の他に、二つの書類を用意した。
財産分割案。私の持参金は別管理で手つかずのため、公爵家の財産を求めない旨を記載した。宰相邸の調度品、食器、書画、馬車──すべて公爵家のもの。私が持ち出すものは、木箱ふたつに入ったものだけ。既に持ち出し済み。
引き継ぎ完了報告書。外交実務に関する引き継ぎ書は既に提出済みであること、未処理の案件はないこと、個人的に保有している外交上の機密情報はないことを記載した。
最後の一文は嘘だ。各国大使との個人的な信頼関係は、最大の機密情報だ。でもそれは書類にできないし、引き継げない。だから「ない」と書いた。
宰相邸の応接室に入るのは、離宮に移ってから初めてだった。
変わっていない。壁紙も、椅子の配置も、窓際の花瓶も。ただ花瓶に花がなかった。以前は私が毎週活けていた。誰も引き継がなかったらしい。
ディートリヒは既に席についていた。
十年間見慣れた顔だ。疲れている。目の下の影が濃くなっている。髪が少し乱れているのは、無意識に手で梳いたからだろう。この人は考え事をすると髪を触る癖がある。
「座ってくれ」
「立ったままで結構です」
座ると長くなる。長くなると、気持ちが揺れる。
私は三通の書類をテーブルに置いた。離縁届、財産分割案、引き継ぎ完了報告書。紙の角が揃うように並べた。最後まで、こういうところだけは丁寧にしてしまう。
「離縁届です。財産分割案と引き継ぎ完了報告書を添えています。ご確認ください」
ディートリヒは書類に目を落とした。
一枚目をめくる。二枚目。三枚目。読む速度が遅い。この人は書類を読むのが速い。外交条約の草案でも、法律の修正案でも、一度で要点を掴む。それが遅い。
読みたくないのか。
読んだら終わりだと思っているのか。
私にはわからなかった。十年間わからなかったことが、今日急にわかるはずもない。
「ヴィクトリア」
「はい」
「待ってくれ」
思ったより、静かな声だった。
「何をですか」
「この……離縁を」
「理由をお聞かせください」
ディートリヒの口が開いて、閉じた。
「……外交が」
「外交は、引き継ぎ書に記載しております」
「国が……」
「国のことは、宰相であるあなたの責務です。私の責務ではありません」
また、間があった。
花のない花瓶が目に入った。水だけが入っている。水は澄んでいるが、花がないと花瓶はただの器だ。
「あなたが必要としていたのは」
声が出た。思ったより平坦に出た。
「妻ではなく、補佐官です」
ディートリヒの顎が動いた。何かを噛み締めている。
「補佐官が必要でしたら、求人を出してください。外交実務に精通した人材は、この国にもいるはずです。私でなくても」
「違う」
低い声だった。
「違う。だが……」
ディートリヒの手が、テーブルの上で握られた。
「何が違うのか、俺にはまだ言えない」
俺。
この人が一人称を崩すのを聞いたのは、初めてかもしれない。公の場では「私」、執務中も「私」。崩れたことがない人だった。
それが今、崩れている。
私、ではなく、俺。
十年間積み上げてきた合理主義の壁に、ひびが入っている。でもひびの向こうに何があるのか、この人自身がわからないのだ。
わかってほしかった、と思う。
十年前でなくてもいい。五年前でも、一年前でも。
あなたの壁の向こうに何があるのか、私に見せてほしかった。
でも、待っている間に私が消える。
「十年待ちました」
声が震えそうになったので、少しだけ間を置いた。花瓶の水を見た。透明で、冷たそうで、何の色もない。
「仕事にやりがいがあったから、待てました。でもそれは……あなたに愛されていない現実から目を逸らすための、言い訳でした」
ディートリヒが顔を上げた。
「もう少しだけ待てたかもしれません。でも、待っている間に私が消えてしまう。宰相夫人という肩書の中に、ヴィクトリアという人間が溶けて、なくなってしまう」
言い終えた。
言いたかったことは、たぶんもっとある。でも今日はここまでだ。これ以上言うと、泣く。
ディートリヒの手が動いた。
テーブルの上を滑って、私の手に──
止まった。
指先が、私の指先の数寸手前で止まっている。
触れようとして、やめた。触れる資格がないと思ったのか。触れたら引き留めてしまうと思ったのか。
その手を見た。
大きな手だ。書類を捌く時は正確で、ペンを持つ時は滑らかで、でも私に触れたことは……数えるほどしかない。結婚式の日と、公の場でエスコートする時と。それだけ。
目が熱くなった。
一瞬だけ。ほんの一瞬だけ、涙が滲んだ。
拭った。手の甲で、乱暴に。
「離縁届は婚姻局にも提出いたします。審査期間は六十日です」
立ち上がった。書類はテーブルに残した。
「失礼いたします」
振り返らなかった。
廊下に出て、革靴の底が石を叩く音を聞いた。自分の足音だ。宰相邸の廊下は長い。この廊下を十年間、毎日歩いた。
今日が最後だ。
正面玄関を出た時、空が高かった。夏に近づいている。光が白い。
離宮に戻ると、フリーデ閣下が待っていた。
カロリーネ様の応接室に通されていて、砂糖なしの茶を飲んでいた。離宮の茶葉なので、いつもより薄い。フリーデは気にしていない様子だった。
「遅かったわね」
「すみません。宰相邸に寄っていました」
「離縁届?」
「ええ」
フリーデは何も聞かなかった。この人は必要のない質問をしない。
「報告があるわ」
フリーデは茶を置いた。
「神官オスカーに会ってきた。……証言する、と言ったわよ」
手元の茶器を置く音が、思ったより大きかった。受け皿の上で磁器が鳴った。
「供述書は?」
「取った。私が直接。法的に有効な形式で」
フリーデは鞄から封筒を取り出した。蝋で封がされている。大法官の紋章。
「オスカーの言い分はこうだ。聖女リーリエに浄化の代行を強要されていた。断れば宮廷神官の職を失うと脅されていた。彼自身に浄化偽装の悪意があったわけではなく、上位者の命令に逆らえなかった」
「信じますか、それは」
「半分は本当だろう。半分は自分を守るための誇張。でもそれは問題ではない。重要なのは、浄化を実際に行っていたのはリーリエではなくオスカーだったという事実。それを本人が認めて署名した」
フリーデは封筒をテーブルに置いた。
「減刑の条件で合意した。通常であれば宮廷追放と投獄。証言の対価として、免職のみ。投獄は免除」
「それは……公正ですか」
「公正よ。共犯者の自主的な証言による減刑は、制度として認められている。感情的には納得しにくいかもしれないけれど、法は感情で動かないわ」
フリーデらしい答えだった。
「もう一つ」
フリーデが続けた。
「オスカーとの面会の際、宮廷警備兵に一人、話を聞いた。マティアスという男で、以前から浄化の儀に立ち会うたびに違和感を覚えていたそうだ」
「違和感?」
「浄化の清浄さが、聖女の手からではなく横の神官から感じられる、と。魔法の才能がない一般人でも、浄化の方向感覚は肌でわかるものだそうよ」
リゼッテと同じだ。リゼッテも、幼い頃の教会での感覚から気づいた。
「マティアスは独立した証人になりますか」
「なる。告発側と利害関係がない第三者で、職務上の観察に基づく証言。リゼッテの証言の中立性を補完する」
フリーデは茶を飲み干した。
「証拠は揃ったわ。聖女の件について整理すると……物証が触媒粉末の鑑定結果。証人がリゼッテと警備兵マティアス。共犯者の自白が神官オスカーの供述書。そしてリーリエ本人に浄化の再現を求めれば、おそらく失敗する。四重の証拠」
四重。
「学院の件は」
「ゾフィーの架空推薦元は評議会の調査で確定している。ルイーゼたちの証言も揃っている。女官アンナの資料盗用は、エルヴィラの式典計画書との筆跡照合で証明可能」
フリーデは立ち上がった。
「あとは時期の問題ね。収穫祭の夜会で裁定を行うなら、それまでに全ての証拠を整理して書面にまとめる必要がある。……私は準備を始めるわ」
「フリーデ閣下」
「何」
「ありがとうございます」
フリーデは眉を上げた。
「礼を言われることではないわ。証拠があるから動く。それだけよ」
そう言って出ていった。靴音が規則正しい。フリーデの靴音はいつも同じリズムだ。感情で歩調が変わらない人。
一人になった応接室で、テーブルの上の封筒を見た。大法官の紋章入りの封蝋。
中に入っているのは、一人の気弱な神官の言葉だ。脅されて、逆らえなくて、五ヶ月間黙っていて、ようやく口を開いた人間の声。
私はあの宰相邸の応接室で、十年分の言葉を口にした。
オスカーは、この封筒の中で、自分の沈黙を破った。
声を上げるのに必要な時間は、人それぞれだ。
夜、離宮のサロンに四人が集まった。
「証拠は揃った」
私が言うと、三人の顔が変わった。
エルヴィラは拳を握った。マリアンヌは目を閉じた。カロリーネ様は、膝の上で両手を重ねた。
「あとは、収穫祭の夜を待つだけです」
窓の外は夏の初めの闇だった。虫の声が聞こえる。春のローズマリーの匂いは薄くなって、代わりに夏草の青い匂いがする。
カロリーネ様が立ち上がって、棚から紙とペンを取り出した。
「辞任申請書を書きます。今夜のうちに」
「お手伝いしましょうか」
マリアンヌが聞いた。
「いいえ。これは、自分の手で書きたいのです」
カロリーネ様はペンを握った。土に慣れた手で、紙の上にインクを走らせる。
ペンの先が紙を引っ掻く音だけが、夏の夜の離宮に響いていた。