軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第1話 建国祭の夜に

「──本日より、聖女リーリエを我が正妃として迎え入れることを宣言する」

王太子クラウスの声が、大広間の天井に吸い込まれていく。

私の手は、隣国使節団の配席表を持ったまま止まった。

正直に言えば、驚きはなかった。

半年前から兆候はあった。聖女リーリエが宮廷に出入りする頻度が増え、王太子の側近が正妃カロリーネ様への報告を省き始め、夜会の席順にリーリエの名が挟まるようになった。

私はそれを、配席表の変更として処理してきた。

宰相夫人として十年。私の仕事は、こうした変化を感情ではなく段取りで受け止めることだった。誰がどの席に座り、誰と誰を隣り合わせにしてはならず、どの国の大使にはどの食器を出すか。隣国ライヒスタットの大使ヘレーネ殿は銀の燭台を嫌う。東方の使節団には豚肉を出さない。南方の伯爵は左利きだからカトラリーの向きを変える。

そういうことを、覚えている。

十年分、全部。

やりがいがあった、と思う。少なくとも、そう思い込むことで十年間やってこられた。夫に妻として見てもらえなくても、この仕事があるから大丈夫だと。外交晩餐が成功するたびに、自分の存在意義を確認していた。

配席表のインクが、指先に少し移った。今朝書き直したばかりなのに、もう乾ききっていない。春の湿気のせいだ。

壇上では、王太子がリーリエの手を取っていた。白い手袋の上から、まるで宝物でも扱うように。

リーリエは俯いている。清楚に、控えめに、頬を染めて。

完璧な絵だった。台本があるとしたら、一字一句その通りに演じている。

正妃カロリーネ様は、壇上の端に立っていた。微笑んでいる。五年間、王太子妃として宮廷儀礼を一手に引き受けてきた人が、笑顔のまま凍りついていた。

あの微笑みを保つのに、どれだけの力がいるか。

私にはわかる。

「素晴らしいことだ。聖女の加護は王国の礎である」

誰かが言った。追従の拍手がまばらに広がる。

その拍手の中で、私は配席表を畳んだ。インクが少し滲んだが、もうどうでもよかった。

大広間の隅で、隣国の若い外交官が私に近づいてきた。

「ヴィクトリア殿、先日の貿易草案の件で……」

「それについては来週の……」

「ヴィクトリア」

低い声が割り込んだ。

夫だった。宰相ディートリヒが、いつの間にか私と外交官の間に立っている。こちらを見てはいない。外交官の方を向いて、穏やかな、しかし隙のない笑みを浮かべている。

「貿易草案は宰相府の管轄だ。窓口は私の秘書官を通してくれ」

外交官は一礼して去った。

私は夫を見上げた。

仕事の邪魔をしないでほしい、と言おうとして、やめた。言ったところで、彼にとっては管轄の問題でしかない。私が外交官と話すことへの感情ではなく、業務の線引きの話だ。

十年間、ずっとそうだった。

「……配席表、南方使節の隣にライヒスタットを入れたのか」

「ええ。ヘレーネ殿の要望です」

「そうか」

会話はそれで終わった。夫は壇上に目を向け、眉一つ動かさず王太子の宣言を見ていた。何を考えているのかわからない。いつも、わからない。

私は夫の横顔から目を逸らした。

顎の線が硬い。こめかみの血管が、わずかに浮いている。疲れているのだろう。宰相の仕事は激務だ。それを支えてきたのは私の……いや、補佐官の仕事だ。妻の仕事ではなかった。一度も。

壇上の宣言が終わり、音楽が再開された。

私はカロリーネ様を探した。壇上にはもういない。

控室へ向かう廊下で、白いドレスの背中を見つけた。歩き方は完璧だった。背筋は伸び、裾は乱れていない。でも足が速い。ほんの少しだけ、普段より速い。

「カロリーネ様」

控室の扉を閉めた瞬間、彼女の肩が落ちた。

「……ごめんなさい、ヴィクトリア。見苦しいところを」

「見苦しくありません」

「知っていたの。あなたは気づいていたのでしょう? 配席表の変更が増えた時から」

答えなかった。答えなくても、カロリーネ様はわかっている。

彼女が泣いたのは、私が今まで見た中で初めてだった。声は出さない。ただ涙が落ちる。手袋が濡れていく。

扉が開いた。

「……あたしも来たわよ」

元帥夫人エルヴィラだった。大柄な体を扉の枠に預けて、カロリーネ様を見た。それから、壁に掛かった燭台の火を一つ消した。

「明るすぎると泣きにくいでしょう」

その後ろから、学院長夫人マリアンヌが静かに入ってきた。扉を閉め、鍵をかけた。

四人になった。

誰も何も言わなかった。しばらく、カロリーネ様の呼吸が整うのを待った。エルヴィラが窓を少し開けて、夜の空気を入れた。春の風は少し冷たくて、ちょうどよかった。

「三年」

エルヴィラが言った。

「あたしの夫が女官と寝てるの、三年よ。知ってた?」

マリアンヌが小さく頷いた。

「うちは一年。学院の生徒です」

声は穏やかだった。でも、手が震えていた。マリアンヌの手はいつも穏やかで、推薦状を書く時も慈善の手紙を書く時も震えたことがない。

カロリーネ様が涙を拭った。

手袋を外して、素手で。

「……五年間、私なりにやってきたつもりでした。宮廷儀礼も、夜会の運営も、外交式典の差配も。全部」

「全部やってきた。あなただけが」

私は言った。

「外交の実務は、私が十年やってきました。エルヴィラは軍の式典と補給の連絡を。マリアンヌは貴族家への推薦状と学院の入学審査を」

四人が顔を見合わせた。

「……妻たちがやめたら、この国の上の方は回りませんわね」

マリアンヌが、自分で言って少し驚いたような顔をした。

エルヴィラが笑った。低く、乾いた笑いだった。

「回らないわよ。一週間もしないうちに、あの人たちは自分の靴紐も結べないって気づくわ」

静かになった。

窓の外から、大広間の音楽がかすかに聞こえる。優雅なワルツ。あの音楽の裏で、配席を組み、食器を選び、通訳を手配し、禁忌食材を確認してきたのは、全部私たちだった。

十年間、仕事のやりがいで自分を誤魔化してきた。

でもそのやりがいすら、「私のもの」ではなかった。夫の名前で、夫の地位で、夫の業績として計上される仕事。私はただの……補佐官。

もう、いいのではないか。

「奥様方」

自分の声が、思ったより静かに出た。

「今宵の夜会を最後にいたしましょう?」

エルヴィラが目を細めた。

マリアンヌの手の震えが止まった。

カロリーネ様が、濡れた手袋を握りしめたまま、こちらを見た。

「……ええ」

目が赤い。でも、もう泣いてはいなかった。

「そうしましょう」

私たちは泣くのをやめる。

その代わり、働くのもやめる。

あの人たちが気づいた時にはもう遅い。

……そうなるように、する。

窓の外で、ワルツが終わった。

次の曲が始まる前の、ほんの数秒の沈黙。

あの沈黙の中に、たぶん、この国の未来が詰まっている。

私はインクの滲んだ配席表を、丁寧に四つに折った。

もう書き直すことは、ない。