軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第19話 契約更新と独占欲

王宮の地下で起きた暴走事故から三日。

日常は、驚くべき速度で復旧していた。

宰相執務室。

私はデスクに向かい、最後の計算を終えたところだった。

カチャリ、と万年筆を置く。

「……完成しました」

私は一枚の羊皮紙を手に取り、満足げに頷いた。

タイトルは『王宮地下施設損壊および精神的苦痛に対する損害賠償請求書』。

末尾に記された金額は、ゼロの数が多すぎて一見すると暗号のようだ。

「確認を、閣下」

「ああ」

隣のデスク――事故後、なぜか私のデスクと隙間なく密着して配置された――に座るサイラス様が、書類を受け取る。

彼は金額を見て、微かに口角を上げた。

「……妥当だな。むしろ安い」

「帝国の年間軍事予算の二割に相当しますが」

「あの大魔導炉は我が国の心臓だ。それに、君を危険に晒した慰謝料が含まれていない。後で『サイラス個人の精神的苦痛』として倍額を上乗せしておこう」

本気だ。

この人は、私に関わることになると金銭感覚がバグる。

まあ、払うのは帝国だ。知ったことではない。

コン、コン。

扉がノックされた。

「入れ」

現れたのは、赤い髪の男。

ルーカス皇子だった。

初登場時の派手な軍服ではなく、旅装に近いシンプルなコートを羽織っている。

背後には、護衛のエリーゼ様が控えていた。彼女は私と目が合うと、こっそりと親指を立てて見せた。

「よう。請求書ができただろうと思ってな。取りに来てやったぞ」

ルーカス皇子は悪びれもせず、執務室に入ってきた。

サイラス様が無言で請求書を突き出す。

皇子はそれを受け取り、金額を見て口笛を吹いた。

「ヒューッ。容赦ないな。これじゃあ俺の小遣いが十年分吹っ飛ぶ」

「払えなければ領土の割譲でも構わんぞ」

「冗談だ。払うさ。……勉強代としては、高くついたがな」

皇子は請求書を懐にしまい、私に向き直った。

その瞳から、以前のような粘着質な欲望は消えていた。

あるのは、どこか清々しい、敗北者の色。

「リリアーナ補佐官。お前をスカウトするのは諦める」

「賢明なご判断です」

「勘違いするなよ。条件面で負けたわけじゃない」

彼は肩をすくめ、チラリとサイラス様を見た。

「あの暴走事故の時。お前たちは言葉も交わさずに、完璧に連携していた。……あんな『二人で一つの生命体』みたいな動きを見せられてはな。俺が入る隙間なんて、最初からなかったわけだ」

彼は自嘲気味に笑った。

「俺が欲しかったのは『優秀な部品』だったが、お前はすでにこの国の、いや、あいつの『中枢システム』だったということだ。……引き抜けば、両方壊れる」

意外な評価だった。

彼は彼なりに、私の本質を見ていたらしい。

「そういうことだ。さっさと帰れ」

サイラス様が冷たく言い放つ。

ルーカス皇子はニヤリと笑い、踵を返した。

「ああ、帰るさ。国に帰って、俺も『自分の補佐官』を育てることにするよ。……エリーゼ、覚悟しておけ。リリアーナ直伝の効率化で鍛えてやる」

「はっ! 望むところです、殿下!」

エリーゼ様が嬉しそうに答える。

二人は風のように去っていった。

嵐のような来訪者たち。

彼らが去った後の執務室には、再び静寂が戻ってきた。

私は大きく息を吐き、肩の力を抜いた。

「……終わりましたね」

「いや。まだだ」

サイラス様の声が硬い。

見ると、彼は引き出しから、分厚い書類の束を取り出していた。

厚さにして三センチはある。

表紙には『雇用契約変更合意書(改定版)』と書かれていた。

「……閣下。それは?」

「今回の件で痛感した。既存の契約では、セキュリティホールが多すぎる」

彼は真剣な顔で、その束を私の前に置いた。

「読んでくれ。そして、サインを」

私は眼鏡の位置を直し、ページをめくった。

第一条から、不穏な空気が漂っている。

『第一条: 乙(リリアーナ) は、 甲(サイラス) の許可なく、王国外の勢力と接触、交渉、および移籍の協議を行うことを永続的に禁止する』

いわゆる競業避止義務だ。

まあ、ここまでは分かる。国家機密を知りすぎているからだ。

だが、次がおかしい。

『第五条:乙が危険区域(レベル3以上)へ立ち入る際は、必ず甲が同行するものとする。単独での行動はいかなる理由があっても認めない。トイレを除く』

トイレは除外されていて安心した。

だが、これは護衛というより監視だ。

『第十条:乙の魔力が三割以下に低下した場合、甲は直ちに魔力供給(接触を含む)を行う権利と義務を有する』

『第十二条:乙に対する他者からの勧誘、求愛、および長時間の視線接触に対し、甲はこれを排除する権限を持つ』

……だんだん、雇用契約書なのか婚姻届なのか分からなくなってきた。

ページをめくる手が重い。

最後の方には、もはや業務とは関係のない項目が並んでいる。

『第二十条:乙は甲に対し、一日一回以上の「 生存報告(ハグ) 」を行うこと』

『第二十一条:甲は乙に対し、生涯にわたり、世界で一番美味しい紅茶と、平穏な居場所を提供することを誓約する』

私は最後のページまで読み終え、顔を上げた。

サイラス様は、祈るような目で私を見ていた。

その表情は、最強の宰相ではなく、ただの恋する男のそれだった。

「……重いです、閣下」

「自覚している」

「これは労働契約ではありません。束縛です」

「否定しない」

彼は開き直った。

そして、私の手を強く握った。

「また、あんな思いをするのは御免だ。君が私の手の届かない場所へ行ってしまう夢を、三日間見続けている」

彼の手が震えている。

あの「氷の宰相」をここまで追い詰めてしまったのは、他ならぬ私の無茶な行動だ。

魔導炉の中で、彼がどれほどの恐怖と戦いながら私を守っていたか。

それを思えば、この重い契約書も、彼なりの「安全装置」なのだと理解できる。

私はため息をついた。

呆れているのではない。

愛おしくて、仕方がないのだ。

「……ペナルティ条項が足りません」

「なに?」

「私がこの契約を破った場合、および、閣下が私を守りきれなかった場合の罰則です」

私は万年筆を取り出し、最後の余白に書き加えた。

『特記事項:本契約に違反した場合、違反者は相手に対し、一生をかけて償い、愛し続ける刑に処す』

「これで、どうですか?」

私がニッコリと笑うと、サイラス様は目を丸くし、それから顔を真っ赤にして、手で口元を覆った。

「……君には、勝てない」

「当たり前です。私は貴方の補佐官ですから」

私は署名欄に、流れるような筆記体で自分の名前を書き入れた。

『リリアーナ・ベルンシュタイン』。

いずれ、この姓が変わる日が来るのだろう。

その時もきっと、こんな風に契約書を交わしている気がする。

「はい、提出します」

私が書類を差し出すと、サイラス様はそれを大切そうに受け取り、金庫へとしまった。

カチャリ、と鍵がかかる。

もう逃げられない。

でも、逃げるつもりなど最初からなかった。

「……ありがとう、リリアーナ」

「仕事に戻りましょう、閣下。帝国からの賠償金が入ったら、次は空調設備だけでなく、給湯室の全面リフォームを計画していますから」

私は新しい手帳を開いた。

そこには、彼と過ごす未来の予定が、びっしりと詰まっている。

忙しい日々は続く。

けれど、隣には彼がいる。

それだけで、どんな激務も「幸せな日常」に変わるのだ。

私はペンを走らせた。

窓の外では、久しぶりの穏やかな陽光が、王都を照らしていた。