軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

最終話 仮机ではなく、正式な席をいただきました

翌朝の監査局は、前日までより少しだけ騒がしかった。

ベルクマン商会から押収した箱と帳簿が届き、会計局からは追加の照合作業依頼が流れ込み、近衛は朝から三度も廊下を走った。

それでも、不思議と空気は悪くない。

ようやく全員が《《同じ敵》》を見ているからだろう。

王太子の気分でも、婚約者の沈黙でもなく、目の前の数字と証拠だけを相手にしている場は、思った以上に息がしやすかった。

「寝ていませんね」

ヒルダ書記主任が、私の顔を見るなり言った。

「少しは」

「それを寝たとは言いません」

ぴしゃりと返され、私は小さく肩をすくめた。

でも気分を害しないのは、この人が私を客人ではなく《《働かせる前提の同僚》》として見ているからだろう。

それに、実際あまり寝ていないのは本当だった。

今朝の私の机には、新しい札が置かれていた。

仮机、ではない。

木札には整った字でこう記されている。

《《監査局 特別補佐席》》。

私はその札を見て、しばらく言葉が出なかった。

たった一枚の木札なのに、婚約指輪よりよほど重く感じる。

名前のための席ではなく、仕事のための席。

前世でも今世でも、私が本当に欲しかったのはたぶんこういうものだったのだと思う。

「お気に召しませんでしたか」

ヒルダ書記主任が少しだけ意地悪く訊く。

「いいえ」

私は首を振る。

「思っていたより、ずっと嬉しいだけです」

その答えに、彼女は眼鏡の奥で少しだけ目を細めた。

そのとき、廊下の向こうから短い足音が近づいてくる。

近衛の靴音ではない。

無駄がなく、急ぎすぎず、でも待たせる気もない歩き方だった。

「陛下がお呼びです」

ユリウス殿下が扉口で告げた。

「商会と会計局の照合が揃った」

私は立ち上がる。

机の上の札が目に入る。

仮机ではなくなった席を一度だけ見てから、私はユリウス殿下の後ろへ続いた。

小会議室は、謁見の間よりずっと狭い。

けれど、狭いぶんだけ逃げ道もなかった。

長机の奥に国王陛下。

左に宰相と会計長。

右にユリウス殿下。

その向かいに、近衛へ挟まれるようにして座らされているのは、ガルストン会計監督官、ラドフォード主計補佐官、そしてベルクマン商会の支配人だった。

全員が、一晩で十歳ほど老けた顔をしている。

「セシリア嬢」

国王陛下が私を見た。

「昨夜から今朝にかけての照合で、ようやく流れが見えた」

「はい」

「念のため、そなたの口からも聞かせてくれ」

私は長机の上へ広げられた紙束へ目を落とした。

昨夜私が引いた照合表に、ヒルダ書記主任が補注を足し、会計長が王家側の総括欄を書き込み、近衛が押収品の出所を赤い札で示している。

数字がようやく《《一枚の真実》》になっていた。

「王太子府の不足金は、単独の浪費ではありません」

私はゆっくりと言った。

「結界院補修費、施療院支援費、街道修繕費など、急を要する予算から一時的に流用し、王太子府の私的裁量支出へ回す。

その不足を、婚約者である私の保証で一度だけ埋める。

翌月、別の名目でさらに不足が出れば、また次の保証へ飛ばす。

この繰り返しです」

ガルストンが顔をしかめる。

でも、そこで口を挟まないのは賢明だった。

数字の途中で口を出すと、自分で穴を広げることが多い。

「さらに」

私はベルクマン商会の帳簿を示した。

「一部の高純度蒼石は結界院向け数量として計上しつつ、実際には宝飾加工用へ回されていました。

結界院へは規格ぎりぎりの下位石を納め、数量だけ合わせていたのです」

会計長が重々しく頷く。

「検査済みだ。

東区画の出力低下も説明がつく」

「そして不足分を次も継ぎ足すため、私の私印を写した偽印を用意し、白紙保証状まで整えていた」

そこで私はベルクマン支配人を見た。

「婚約解消後も、私の名で保証を走らせるつもりだったのでしょう」

支配人の頬が引きつる。

隣のラドフォードは、最初からこちらを見ない。

ガルストンだけが、まだどこかで切り抜けられると思っている顔をしていた。

古くから帳簿を弄ってきた人間特有の、悪い強気だ。

「違いますな」

案の定、ガルストンが口を開いた。

「私はただ、王太子府の混乱を最小限に抑えようとしただけです。

結界院が止まれば国が揺らぐ。

公爵令嬢の保証を一時的に用いることも、広い意味では国益――」

「婚約解消後の令嬢の印を、本人の許可なく使うことが国益か」

ユリウス殿下が平坦に遮った。

その一言で、ガルストンの弁舌はぴたりと止まる。

「しかも一時的、というわりに、偽印は少なくとも二度使う予定だった」

私は焦げた手紙の写しを机へ置いた。

「《《令嬢印はあと二度まで使える。次で切る》》。

これはあなたの字ではありませんが、あなたの確認印が押された帳簿の月と綺麗に一致しています」

「それはラドフォードが……!」

ついに、ガルストンが隣の男へ責任を振った。

ラドフォードは青ざめたまま、やっと顔を上げる。

「私は命じられただけです!」

「誰に」

「ガルストン監督官と……それから、王太子府の側近からも」

そこまで言って、ラドフォードは口をつぐんだ。

誰の名を出せば自分が一番軽く済むか計算しているのが、見ていてよく分かる。

でももう遅い。

今さら人を選んで吐いたところで、抜かれた帳簿も偽印も戻らない。

「命じられただけ、か」

国王陛下が低く言った。

「その言葉で、公爵令嬢の印を写し、王家の支出を騙し、結界院の石を抜く罪が軽くなると思うなら、会計を扱う資格はない」

ラドフォードはそこで項垂れた。

ベルクマン支配人も、顔色を失ったまま何も言えない。

ガルストンだけがまだ唇を動かしていたが、もはや何を言っても数字は覆らないだろう。

「処分を申し渡す」

国王陛下の声は疲れていた。

だが、その疲れの奥にある怒りは十分伝わった。

「ガルストン会計監督官、罷免。

ラドフォード主計補佐官も同じく罷免のうえ拘束。

ベルクマン商会は当面の王家取引を停止し、資産と帳簿を差し押さえる。

王太子府に連なる側近・商会・事務官については監査局にて継続調査」

三人の顔から、最後の色が消えた。

これでようやく終わりだ、と私は思う。

王太子の浪費だけではない。

そのまわりに巣を作った実務側と商人側の腐りまで、やっと表へ出たのだから。

「セシリア嬢」

国王陛下が、今度はまっすぐ私を見る。

「そなたが帳簿を残していなければ、この件はあと半年は表へ出なかっただろう」

「そうかもしれません」

私は答えた。

本当は、前世ではもっと長く隠されていた。

でも、それは今ここで口にすることではない。

「立替分については、王家正式会計よりヴァルテール公爵家へ返還する。

また、今後は婚約その他の私的関係を理由に、家門の保証を会計へ混ぜることを禁ずる通達を出す」

その言葉に、胸の内で何かが静かにほどけた。

謝罪だけでは足りない。

でも、仕組みが一つ直るなら、少なくとも同じ罠へ次の誰かを落とすことは減る。

「ありがたく存じます」

「もう一つ」

国王陛下は続けた。

「ユリウスから聞いている。

監査局でそなたを使いたいそうだ」

私は思わず、ユリウス殿下へ視線を向けた。

灰色の目はいつも通り静かだった。

でも、こちらを見返す視線に躊躇いはない。

「私は《《使いたい》》とは申しません」

彼が淡々と言う。

「必要です」

短い。

短いのに、その一言は妙に重かった。

気の毒だからでも、埋め合わせでもない。

純粋に《《必要》》だと言われることが、こんなにまっすぐ胸へ落ちるとは思わなかった。

「王家監査局に正式な補佐官席を設ける」

国王陛下が言う。

「俸給は局長補佐級。

私印と職印の管理は監査局規定で別保管。

必要なら侍女一名の同伴も認める。

どうだ」

条件が良すぎて、一瞬だけ言葉が出なかった。

前世では、私は婚約者という名目で働かされ、報酬も権限も曖昧なまま、最後に罪だけを被せられた。

今は違う。

席がある。

俸給がある。

印の管理も線引きされる。

しかも侍女一名、つまりマリーまで一緒に守れる。

「条件を一つだけ」

私は顔を上げた。

「申し上げてよろしいでしょうか」

「聞こう」

「王太子府関連の監査について、今後も《《婚約者だったから詳しい》》ではなく、《《私が数字を読めるから任せる》》という扱いにしていただきたく存じます」

部屋が少し静かになった。

でもそれは不快な沈黙ではない。

ただ、想定よりまっすぐな条件だったのだろう。

「当然だ」

先に答えたのはユリウス殿下だった。

「そなたを欲しいのは、その頭と手が必要だからだ。

婚約者だったことは入口にすぎん」

入口にすぎない。

その言葉が嬉しいと思ってしまった。

私はもう、誰かの隣にいる立場だけで価値を測られたくないのだ。

「では」

一呼吸置く。

「お受けいたします」

国王陛下が頷き、会計長が深く頭を下げた。

ヒルダ書記主任は、会議の後ろで眼鏡の位置を直しながら、ほんの少しだけ笑っていた。

「今夕までに辞令を整える」

国王陛下がそう言って会議は終わった。

罷免された三人はそのまま近衛に連れていかれ、紙束だけが長机に残る。

終わったのだ。

少なくとも、この一件については。

小会議室を出ると、廊下の窓から柔らかな午後の光が差していた。

春の王宮は綺麗だと思う。

でも前世の私は、この綺麗さの下に埋まる数字と悪意まで見ていなかった。

今世の私は、もうそこから目を逸らさない。

「疲れたか」

歩幅を合わせるように隣へ来たユリウス殿下が訊いた。

「少しだけ」

私は正直に答える。

「でも、気分は悪くありません」

「そうだろうな」

「分かるのですか」

「顔が違う」

それだけ言われて、私は少しだけ可笑しくなった。

婚約破棄の夜から比べれば、たしかに今の私はよほどましな顔をしているのかもしれない。

しばらく廊下を歩いたところで、ユリウス殿下が足を止めた。

そこは昨日まで私が使っていた仮机の部屋ではなく、その隣の少し広い書記室だった。

扉が開いている。

「入ってくれ」

中へ入ると、窓際に新しい机が置かれていた。

仮机より一回り大きく、引き出しには鍵がつき、横には印章箱専用の小棚まである。

机上には何もない。

けれど何もないことが、むしろよかった。

これから自分で整える余地があるからだ。

「正式席だ」

ユリウス殿下が言う。

「気に入らなければ、机の位置は変えさせる」

「……」

私はしばらく、その机を見ていた。

婚約指輪より、王太子妃教育より、こういうもののほうがずっと欲しかったのだと今さら分かる。

自分のための机。

自分のための鍵。

自分の仕事のための席。

「気に入りました」

ようやくそう言うと、ユリウス殿下はわずかに頷いた。

「それはよかった」

また短い。

でも、その短い返事の中に、妙に大事にされている感じがある。

言葉が多ければいいというものでもないのだと、この人を見ているとよく分かる。

「一つ、確認してもよろしいですか」

「何だ」

「これは《《監査局補佐官》》としての机、ですよね」

「もちろん」

「……それだけですか」

我ながら、少し妙な訊き方だった。

でもユリウス殿下は笑わなかった。

代わりに、私の手元ではなく、顔をまっすぐ見た。

「今のところは」

その答えに、少しだけ心臓が跳ねる。

「《《今のところ》》とは?」

「仕事の話は今日で終わった」

彼は平坦に言った。

「だから、次は仕事ではない話をしてもいい頃合いだと思っている」

机の前で、私は言葉を失った。

この人は本当に、必要なことを必要なだけしか言わない。

だから、たまにこうして一歩だけ踏み込まれると、余計に逃げ場がない。

「私は」

ユリウス殿下が続ける。

「最初から、そなたを気の毒な婚約破棄令嬢として見ていたわけではない」

「……はい」

「夜会や会計報告で、何度も帳簿の端にそなたの手が入っているのを見た」

「見ておられたのですか」

「見ていた」

短く断言される。

「王太子府の数字が不自然なくせに破綻しないのは、誰かが下から支えているからだと思っていた。

それがそなただと、ようやく確認できただけだ」

胸の奥が少しだけ熱くなる。

前世でも今世でも、私はずっと《《便利だから使われる》》側だった。

でもこの人は違う。

使っていたのではなく、見ていたと言う。

「ですから」

私は机の縁へそっと指を置いた。

「私を監査局へ置くのは、情けでも埋め合わせでもないと」

「そうだ」

ユリウス殿下は頷く。

「必要だから置く。

できれば、この先も」

その最後の一言だけが、少しだけ違う温度を持っていた。

監査局の席だけではなく、その先も。

意味は分かる。

でも、ここで簡単に受け取るほど、私は前世で何も学ばなかったわけではない。

「でしたら」

私は顔を上げる。

「まずはこの机に見合う仕事をいたします」

「それから?」

「それから先は、俸給と仕事ぶりと……正当な言葉を見て決めます」

ユリウス殿下の目が、ほんの少しだけ細くなった。

また、あの見えにくい笑い方だった。

「厳しいな」

「数字に甘くない性分ですので」

「知っている」

それだけで、少し笑ってしまった。

婚約破棄された令嬢が、新しい職場の机の前でこんなふうに笑える日が来るとは、前世の私には想像もできなかった。

窓の外では、春の光が王宮の庭を白く照らしていた。

私は新しい机を見た。

引き出しの鍵。

印章箱の棚。

何も置かれていない天板。

ここからなら、たぶんやり直せる。

誰かの穴埋めではなく、自分の仕事として。

そしてできるなら、その隣に立つ相手も、自分で選べる形で。

「セシリア」

初めて、名前だけで呼ばれて私は目を瞬いた。

ユリウス殿下も、自分で呼んでから少しだけ黙る。

でも、言い直さなかった。

「歓迎する」

短い一言だった。

でも今の私には、それで十分だった。

婚約破棄から始まったこの数日で、私はようやく知った。

止まったのは私ではなく、あちら側だったこと。

そして私自身は、ようやく自分の席へ辿り着いたのだということを。

それならこの先は、もう少しだけ欲張ってもいいのかもしれない。

仕事も。

居場所も。

その隣に立つ人も。