軽量なろうリーダー

作品タイトル不明

第七話 商会帳簿は、偽印の使い道まで知っていました

夜明け前まで帳簿を追っていたせいで、朝の光が少し白すぎて見えた。

監査局の窓から差し込む光は王宮の庭を綺麗に照らしているのに、机の上には昨夜から続く数字の影がまだ残っている気がする。

私は冷めた茶を飲み干し、最後の照合表へ線を引いた。

偽印。

補助台帳の抜き取り。

外から回す、という走り書き。

ここまでそろえば、次に見るべきものは一つしかない。

「王家御用達の商会帳簿ですね」

向かいのヒルダ書記主任が頷いた。

彼女も私と同じだけ寝ていないはずなのに、眼鏡の奥の目はまだ冴えている。

この人はやはり好きだと思う。

疲れていても、紙の前で機嫌を悪くしない人は貴重だ。

「ベルクマン商会」

私は昨夜の照合表の端を指で押さえた。

「王都結界の高純度魔石をもっとも多く扱う商会です。

私の保証が偽造されるなら、まずここへ使われるはず」

「なぜそう言い切れる」

少し離れた位置から、ユリウス殿下の声が落ちた。

「緊急搬入の融通が利くからです」

私は答える。

「王家会計の正式手続きを待たずに品を動かせるのは、長年の取引があって、なおかつ《《後から数字を合わせる前提》》が通じる相手だけです」

ユリウス殿下は短く頷いた。

その動きだけで、もう行き先が決まったのだと分かる。

「支度を」

それだけだった。

でも十分だった。

半刻後、私は監査局の馬車に乗っていた。

隣にはヒルダ書記主任。

向かいにはユリウス殿下。

無駄な会話はない。

車輪の音と、紙束が箱の中でわずかに擦れる音だけがする。

不思議と落ち着く沈黙だった。

「本当に私も同行してよろしいのですか」

出発してからしばらくして、私は訊いた。

監査に協力している立場とはいえ、元婚約者令嬢が商会の立ち入り確認まで同行するのはやや異例だと思ったからだ。

「そなたがいなければ、こちらはどこを見るべきか分からん」

ユリウス殿下はあっさり言った。

「昨夜のうちに、私はそう判断した」

返答が簡潔すぎて、少し困る。

でも、曖昧な慰めや社交辞令よりよほど助かった。

ベルクマン商会は王都の北区画、石造りの倉庫街の奥にあった。

高い塀と分厚い扉を持つ、いかにも金と品を抱えている家だ。

王家御用達の看板も、見せつけるように大きい。

こういう商会は、表の帳簿ほど綺麗に作る。

だから、本当に見たいものはたいてい裏にある。

支配人が出てきたのは、私たちが到着してすぐだった。

恰幅のよい中年男で、顔には商人らしい愛想笑いを貼りつけている。

だが目だけが笑っていない。

監査局の馬車を見た瞬間から、額の汗が一段増えていた。

「これはこれは、監査卿殿下。

本日はどのようなご用件で」

「帳簿だ」

ユリウス殿下は平坦に言った。

「王家結界院向け納入分の原帳簿、荷受控え、石質選別控え、倉庫出納簿を出せ。

昨日までの分すべて」

支配人の笑みが、ほんのわずかに引きつる。

「結界院向けでしたら、すでに王太子府の保証で――」

「その保証が偽造の疑いで止まっている」

ヒルダ書記主任が冷たく言った。

声音は静かだが、書記室の机よりずっと角がある。

どうやら彼女は現場へ出るとさらに強いらしい。

「その上で確認する。

帳簿を」

支配人は一瞬だけ黙った。

それから深く一礼し、私たちを奥の応接室へ通した。

帳簿が運ばれてくるまでのあいだ、私は部屋の中を見回した。

壁には王家御用達の証書。

棚には宝石箱と見本石。

窓辺には今朝開けたばかりらしい荷札の束。

そして机の隅には、結界院向けの納入標が一本だけ、やけに新しい紐で結び直されていた。

嫌な予感がする。

運び込まれた帳簿は分厚かった。

でも、厚い帳簿はそれだけで信用できるわけではない。

むしろ厚いほうが嘘を隠しやすいこともある。

「ここを」

私は最初の荷受控えを開き、春先の頁を示した。

「結界院向け二十基。

高純度蒼石。

でも、石質選別控えでは同日の同量が《《加工用》》に振り直されています」

ヒルダ書記主任がすぐに覗き込み、眼鏡の位置を押し上げた。

「本当ですね」

「加工用?」

ユリウス殿下が問う。

「宝飾加工です」

私は頁をめくる。

「高純度蒼石のうち、結界核に回すべき品質の一部を、宝石商向けの装飾石として再分類している。

量がぴたりと合っています」

支配人の顔がさっと青ざめた。

「そ、それは帳簿上の整理でして……!」

「整理で高純度蒼石は宝石になりません」

私は淡々と返した。

「結界院向けの品質を抜いていれば、そのぶん補修効率は落ちます」

「だが数字上は、結界院へ必要数が入っている」

ヒルダ書記主任が言う。

「ということは?」

「《《質の低い石で数だけ合わせている》》のでしょう」

私は答えた。

「高品質のものは装飾石へ回し、代わりに規格ぎりぎりの石を結界院へ納める。

表向きの数量は合う。

でも実際の出力は落ちる」

支配人が、そこで初めて完全に顔色を失った。

この反応で十分だった。

図星だと、自分で認めたようなものだ。

「倉庫を」

ユリウス殿下が短く命じる。

「今すぐ確認する」

私たちは商会の裏手にある石倉庫へ回った。

高い天井、冷えた石床、積み上げられた木箱。

表側の応接室より、こちらのほうがずっと本音に近い匂いがする。

鉱石と油と、少しだけ焦げた封蝋の匂いだ。

私は一番手前の箱ではなく、奥から三番目の箱の荷札へ目を止めた。

結界院向けの札がついているのに、紐の結び方が違う。

王家向けの急納品は、いつももっと固い二重結びだ。

これは商会の私的出荷で使う簡易結びに近い。

「これを開けてください」

私が言うと、支配人があからさまにぎくりとした。

「そ、それは後ほど一覧から順に――」

「今です」

今度は私が遮った。

声を荒げたわけではない。

でも、自分でも驚くくらい迷いなく言えた。

たぶん今の私は、婚約破棄された令嬢ではなく、数字と現物の齟齬を見つけた監査官に近い顔をしていたのだと思う。

近衛が箱の蓋を外す。

中に詰まっていたのは、結界院向けの原石ではなかった。

すでに選別された高純度の蒼石。

しかも一部は装飾用の研磨前処理までされている。

箱の底には薄い紙束と、小さな封蝋型、それから白紙保証状まで入っていた。

「……ありましたね」

ヒルダ書記主任が低く言う。

私は箱の底の紙束を一枚抜いた。

商会内の出荷指示書だ。

宛先は王都結界院ではなく、《《ルーヴァン宝飾店》》。

保証欄には、私の私印をなぞった偽印が押されていた。

しかも日付は明日。

まだ使うつもりだったのだ。

「偽印までここで保管していたのですね」

私は静かに言った。

「大胆というか、手癖が悪いというか」

支配人が膝から崩れ落ちる。

言い訳を探して口を開きかけるが、声にならない。

「ベルクマン」

ユリウス殿下の声が落ちる。

「説明は後で聞く。

まずはこの箱と帳簿の押収だ」

近衛たちが一斉に動いた。

倉庫の奥からも似たような箱が二つ見つかる。

ひとつは施療院向け名目で通す予定だった薬用魔石。

もうひとつは、王太子府の仮払控えを写した下書き帳面だった。

つまり、王太子の浪費を隠すだけではない。

王家の保証そのものを食い物にする仕組みへ育てていたのだ。

「これで終わりではありません」

私は箱の中の伝票束をめくりながら言った。

「この宝飾店だけでは足りません。

施療院向け名目の帳簿もあるなら、卸先は少なくとも二つ。

たぶん、もっとあります」

「分かるのか」

ユリウス殿下が問う。

「使っている名目が違います」

私は伝票を並べた。

「結界院、施療院、慈善基金。

それぞれ通しやすい部署が違う。

つまり、一本の伝票先だけでは回らない」

ヒルダ書記主任が頷いた。

「王都の中で《《面倒な確認を省かせやすい部署》》を選んでいるわけですね」

「はい。

そして、その選び方を知っているのは商人だけではありません」

私は支配人を見た。

彼はもう私の目を見返せない。

でも、それで十分だった。

「やはり、会計局と商会が組んでいます」

そのとき、若い近衛が奥の棚から別の箱を運んできた。

中には古びた手紙束がある。

焼こうとしてやめたのか、端だけ焦げている。

差出人の欄には、見覚えのない小貴族の名がいくつか並び、文面には一様に《《王太子派》》の宴席や調達の話が混ざっていた。

そして最後の一通には、短くこうあった。

《《令嬢印はあと二度まで使える。次で切る》》

私は紙を持つ指に、少しだけ力が入るのを感じた。

あと二度。

つまり、私が婚約破棄を受け入れず曖昧に残っていたら、そのあいだにさらに二回、私の名で金が動いていたということだ。

「……危なかったですね」

ヒルダ書記主任が小さく言った。

「ええ」

私は答えた。

「ですが、止まりました」

言いながら、自分で少しだけ驚く。

前世なら、こういうときの私はきっと震えていた。

でも今世の私は、怖いより先に《《止められた》》と思っている。

「セシリア嬢」

ユリウス殿下が私の手元の手紙へ視線を落とした。

「よく見つけた」

「帳簿の嘘は、たいてい現物の雑さで見つかります」

私は手紙を畳んで答える。

「荷札の結び方と、箱の紐の結び方が違いました」

ヒルダ書記主任が吹き出すように笑った。

「そこからですか」

「数字だけだと、相手も数字を整えますので」

私がそう言うと、今度はユリウス殿下の口元がほんの少しだけ動いた。

また、見えにくい笑い方だった。

「……仮机では足りなかったな」

不意にそんなことを言われ、私は目を瞬いた。

「はい?」

「戻ったら、もう少しまともな机を用意させる」

それだけだった。

でも、その一言が妙に胸に残る。

仮机では足りない。

それはたぶん、単に場所の問題ではないのだろう。

この人はもう、私を《《数日だけ帳簿を読ませる臨時の協力者》》としては見ていない。

「……光栄です」

私がそう答えると、ユリウス殿下は短く頷いた。

「光栄と思うのは早い。

机に見合う仕事はしてもらう」

「承知しております」

その返しが自然に出たことに、自分でも少し驚く。

王太子妃候補としてではなく、仕事の話として受け取っている自分がいる。

倉庫の押収はそのまま夕方まで続いた。

箱は六つ。

帳簿は三冊。

手紙束は二十一通。

偽印の試し押しは十三枚。

十分すぎる量だった。

帰りの馬車の中で、私はようやく深く息を吐いた。

窓の外では、春の夕方の光が王都の屋根を少しだけ赤くしている。

婚約破棄された二日前には、こんな馬車に乗る未来は想像していなかった。

でも悪くない。

少なくとも、誰かの浪費を隠すためではなく、浪費を暴くためにここへ座っている。

「明日で大筋は終わる」

向かいでユリウス殿下が言った。

「商会側を押さえた以上、会計局も逃げ切れない」

「はい」

「そのあと、おそらく陛下から正式な話が出る」

私は顔を上げた。

正式な話。

その意味は一つしかない。

「……監査局の件でしょうか」

「それだけではないかもしれない」

灰色の目が、まっすぐこちらを見る。

「だから今夜は少し休め。

明日は長くなる」

言われて、私は小さく頷いた。

たぶん、明日でこの一件の収支は決着する。

そしてそのあと、私はもう一度、自分の今後を選ぶことになるのだろう。

逃げるためではなく。

ようやく、進むために。